玉狛支部のキッチンにハンドミキサーの音が響く。白くてふんわりとしたメレンゲを見ていると、ここにいない彼のことを思い出した。
 材料を混ぜておいたボウルにメレンゲを加えて混ぜ、型に流しこみ、予熱しておいたオーブンに入れて焼き始める。そのあとは別のボウルに生クリームとグラニュー糖を入れて、泡立て器でシャカシャカと混ぜていく。混ぜているときはひたすら無心である。

「うまそうなにおいがする」

 音もなく遊真くんが現れた。うん、やっぱりいつ見てもメレンゲみたいな素敵な髪だ。出かけていたはずだけどいつのまにか帰っていたらしい。カウンターを挟んだ向こう側から、においのもとを探すようにキッチンの中を覗きこんでいる。

「今シフォンケーキ焼いてるとこだよ」
「ふむ。シフォンケーキ」
「こういうやつ」
「おお、うまそう」

 スマホを手に取り、レシピの最初に載っている完成画像を見せると、彼は興味深そうに頷いた。

「その白いのは?」
「生クリームを泡立ててる。シフォンケーキに添えるやつ」
「ほうほう」

 喋りながら生クリームをかき混ぜる私の手元を、赤い瞳がじっと見つめている。そんなに見られると正直ちょっと緊張する。

「ナマエちゃんってお菓子作るの好きなんだっけ」
「たまに作りたくなるんだよね、ほんとたまーに」

 趣味というほどのものではないけれど、時々こうやってケーキやクッキーを作りたい波が来る。今、久しぶりにその波が来ている状態。というわけでここのキッチンで作らせてもらっている。ちなみに前回波が来たときは、ベイクドチーズケーキを作った。まだ遊真くんや修くんや千佳ちゃんと出会う前のことだ。
 オーブンの中を覗いてみる。生地はちゃんと膨らんでいるようで安心した。時間が来たら中までちゃんと焼けているのを確認して、冷まして完成だ。手元にある生クリームもいい感じに仕上がっている。
 ボウルを置いて顔を上げると、遊真くんとバッチリ目が合った。こちらを見ているとは思わなかったから少しびっくりしてしまった。

「ヒュースにあげるの?」

 突然の質問に一瞬とまどう。「そのケーキ」とオーブンを指差す彼に、頷いて答える。

「うん。食べたいって言ってたから」
「やっぱりそうなのか」
「なんで知ってるの?」
「さっき本人から聞いた」

 作り始める前、偶然顔を合わせたヒュースくんがお腹を鳴らしながら「そのシフォンケーキとやら、食べてみたい」的なことを言っていたので、焼けたらあげるねと伝えていたのである。

「そうか、ヒュースにあげるのか」
「うん」
「いやだ」
「え」
「あげないでほしい」

 思いもよらない反応に驚いた。それゆえにすぐに返事が出てこない。どうしようかと迷いつつ、口をとがらせてるのかわいいな、と状況にそぐわないことをひそかに考えてしまった。

「……ヒュースくんにあげるのがイヤなの?」
「そう」
「なんで?」
「なんででも」
「えー、ねえ遊真くんさあ」
「うん」
「それってヤキモチ?」

 なんてそんなわけないよね〜、と軽く笑いとばす私を、遊真くんはニコリともせずに見ていた。つられてこちらの表情まで引き締まる。

「そうだよ」
「え?」
「ヤキモチ焼いてる、おれ」
「……えーと。冗談?」
「ではない」

 マジメな顔をした遊真くんの視線がまっすぐに伸びてくる。ヤキモチか。ヤキモチってなんだっけ。自分で言い出しておきながらわからなくなってきた。一番に思いつくのは、恋人が自分以外の人と仲良くしてるときに焼くもの、という感じだけど。でもべつに、恋人限定とは限らないか。時には友達や仲間に対しても起こりうるだろう。
 何はともあれ、遊真くんは私のことを好きでいてくれてるってことだな。そうやって心の中で納得したら、なんかちょっと嬉しくなった。

「ナマエちゃん」
「あ、ハイ」
「聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」

 そんな小動物のような目で見られると、ついつい何にでも頷いてしまいそうになるけれど。

「わかった。じゃあ三人で食べよう」
「なぜそうなる」
「いいじゃん、いっぱいあるし」

 私の提案を聞いて一瞬不服そうな顔を見せたものの、彼の表情はすぐに和らいだ。そして、しかたないなと呆れたような微笑みに変わる。

「まあいいか。今日のところはそれで」

 いいタイミングでオーブンから音が鳴った。焼き上がったシフォンケーキを取り出し、型に入ったまま逆さにしてしばらく冷ましていく。見た目は大成功だ。あとはきれいに型から外すだけ。
 冷ましたケーキにナイフを差し込みながら、遊真くんに声をかけた。

「遊真くん、ヒュースくんを呼んできてくれるかな」
「了解。あ、ナマエちゃん」
「なに?」
「この次はふたりっきりで食べたいな」

 もちろんいいよ、と頷くと、嬉しそうな笑顔が返ってくる。今の約束は近いうちに絶対実現させよう。あの笑顔を見て、心に強く誓った。


2022.7.24

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