スマホの画面を見つめながら、私は悩んでいた。
 今日は狙撃手合同訓練があるのでボーダー本部基地に来ている。訓練が始まるまでの空いた時間、ラウンジでひとり時間をつぶしていた。スマホしか視界に入っていなかった私は、目の前でイスを引く音に気づいて、ようやく俯けていた顔を上げた。

「なんか悩みごと?」

 向かいの席に腰を下ろした迅さんが、ゆったりと頬杖をついて私を見る。

「こっち来てたんだ」
「うん。生駒っちと個人ランク戦やってきた」
「太刀川さんじゃなくてイコさん?」
「約束してたから」
「へー」
「ミョウジは訓練?」
「そうそう、このあと」

 テーブルに置いているスマホを確認した。合同訓練が始まるまで、まだ時間はある。

「で、なにを悩んでたわけ」
「うーん……」

 べつに全然たいしたことではない。だからこそちょっと言いづらい。だけど、たいしたことないのにもったいぶるとさらに言いづらくなるから、恥ずかしながらも話を聞いてもらうことにした。
 それに、ある意味タイミングがいい。彼ならば私の今の悩みをあっさりと解決できるはずだ。

「あのね」
「うん」
「今日の夜って雨降る?」
「え、雨?」
「今日さ、降水確率30%だったから傘持ってこなかったんだけどね」
「ほうほう」
「今スマホの天気予報見たら夜は60%に変わってた」
「傘買えば?」
「まあそうなんだけど。降らないかもしれないしなあ……家にビニール傘いっぱいあるし」

 そう、うちの傘立てにはビニール傘がすでに何本も置いてあるのだ。毎度ちゃんと天気予報を見ずに出かける私自身が原因であり、自業自得なのはわかっている。だけどこれ以上ビニール傘を増やすのはできれば避けたい。

「でね。私ってこのあと雨に濡れる?」
「まーたそうやって人を天気予報代わりにする」
「まあまあそう言わずに。教えてよー、お願い!」

 両手のひらを顔の前で合わせて拝む。ちらりと様子を窺うと、迅さんは呆れていた表情を和らげてから体を前に乗り出して、じっと私の目を見つめた。思いがけず見つめ合うような形になる。いつもより近い距離も手伝って、なんだかくすぐったいような、落ち着かない気持ちがじわじわと沸き上がってきた。

「……」
「……あの、迅さん?」
「大丈夫」
「え?」
「傘は買わなくていいよ」

 乗り出していた体を戻し、迅さんは落ち着いた声でそう言った。

「ほんと?」
「うん」
「よかったー。迅さんがそう言うなら安心だ」

 ありがとう、とお礼を言う私に彼が微笑んだところでスマホが震えた。合同訓練に遅刻しないように設定していたアラームだ。停止ボタンを押し、静かになったそれを掴んで立ち上がる。

「よし、じゃあ行ってくる」
「おれもそろそろ行こっと」
「どこ行くの?」
「忍田さんに呼ばれてんの」
「相変わらず忙しいね」
「実力派エリートだから仕方ない」

 ガサガサと音がしたと思ったら、どこから取り出したのか未開封のぼんち揚を私の前に差し出した。

「これあげる。訓練がんばって」
「ありがとう」

 ありがたくオレンジ色の袋を受けとる。目的地は反対方向なので、ラウンジから廊下に出てすぐに手を振って別れた。
 これで家に着くまで雨の心配はないはずだ。空がどれだけどんよりと曇っていようとも、天気予報が高い降水確率を示していようとも。なぜなら私には、迅さんの言葉がついているのだから。





 雨が降っている。合同訓練を終えてそのことを知った私の頭にまず浮かんだのは、傘は必要ないと微笑んだ彼の顔だった。
 降ってしまったものは仕方ない。とりあえず基地内にあるコンビニへと向かう。しかし、考えることはみんな同じらしい。傘はすでにほとんど売れてしまっており、最後に残った1本も目の前で買われていった。穂刈に。穂刈は私に向かって「お先に」とお茶目に告げ、颯爽と立ち去っていった。お先にじゃねえ。
 まあでも、多少の雨なら。一番近いコンビニまで走ればいい話だ。雨に濡れることにはなるけれどこの際我慢しよう。そう思って基地を出て連絡通路を歩き、ドアを開けて外の様子を見てみると、多少どころではなかった。ザアザアと音を立てて地面に打ちつける雨。この中を傘なしでコンビニまで走るのは、かなりの気合が必要である。

「傘いらないって言ってたのに」

 ここにいない人へ向けてぽつりとこぼす。予知が外れたんだろうか。それとも雨が降るとわかっていてウソをついたんだろうか。どちらも考えづらくて、他の理由を探してみるけれど納得のいく答えは見つからない。
 白く煙る景色を見ながら途方に暮れていると、背後から呑気な声が聞こえてきた。

「おつかれさーん」

 傘はいらないと言った張本人の声だった。

「じーんーさーんー」
「あー、結構降ってるな。これは傘ないと無理だ」
「予知外れてるじゃんか」
「いや? 雨が降るのは見えてたよ」
「じゃあウソついたってこと?」
「ウソもついてない」

 どういうことだ。実際にこうして雨は激しく降っているし、どう見ても傘が必要な天気じゃないか。訝しげな視線を向ける私に、迅さんは手に持っていた傘を差し出した。

「ここに傘があります」
「1本しかないよ」
「そう、1本しかない」

 きれいに畳まれた傘と迅さんの顔を交互に見る。

「入ってく?」

 もしや、と思った。思ったものの、今の私にはその提案に乗ることしかできない。なんせこの天気だ。視線を合わせたままゆっくりと頷く私を見た迅さんは、「よし」と満足げに呟いて、大きくて透明な傘を開いた。それをふたりの頭上にかざし、雨の降る道路へと足を踏み出す。

「ほらな。傘買う必要なかっただろ」
「謀ったな」
「なにが?」

 恨みをこめた私の視線など何の効果もないことがよくわかる。この楽しそうに笑う顔を見れば。

「迅さんのこと信じて傘買わなかったんだよ」
「ごめんごめん。ちゃんと家まで送ってくから」
「まったくもー」
「おれだってたまにはこうやってご褒美もらってもいいだろ」
「調子いいなあ、ほんと」

 顔を背けると、追いかけるように覗きこまれた。照れ隠しなんだから見ないでほしい。さらに身を捩ると、彼の目が雨粒に濡れる私の肩を捕えた。

「傘からはみ出てる」
「え、そう?」
「濡れるからもっとこっち来なよ」
「わかった。じゃあ」
「……それはちょっと、だいぶ近いなー」

 言われたとおり一気に距離を詰めて寄り添うと、今度は迅さんが顔を逸らした。さっきやられたのと同じように覗きこんでみれば、こそばゆい目線を返される。
 こっちに来いと自分で言っておきながら照れるところとか、この状況をご褒美だと言うところとか。ずるいしなんかちょっと悔しいけど、怒る気にはさらさらなれない。

「迅さん、たい焼き食べたい」
「いいね。んじゃ寄って帰ろうか」

 仕組まれた帰り道。どこまでも続けばいいのにって、こっそり思ってしまった。


2022.6.26

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