最近、楽しみにしていることがある。出会ってしまったのだ。とてつもなくかわいい子に。

「クロネコちゃーん。おいでおいで」

 車止めのそばで佇んでいるネコ。そこから数メートル離れたところでしゃがみこんで手招きをする。怖がらせないように、ゆっくりとした動きで。
 真っ黒な姿がかわいいこの子に出会ったのは先週のこと。学校帰り、散歩中の柴犬に手を振ったり、綺麗に整えられた庭を眺めたりして住宅街を歩いている途中、黒いネコと出会った。6台ほどが停められる小さな駐車場でごろごろと寝転んでいた。そのかわいさに吸い寄せられて思わず近寄ろうとすると、黄色い両目を丸くしたクロネコはあっというまにいなくなってしまい、私はひとりうなだれたのだった。驚かせるつもりはなかったんだ、ごめん。と心の中で謝りながら。
 それ以来、クロネコと仲良くなりたくて頑張っている。この子はいつも見ても駐車場にいる。敷地の真ん中でごろごろしていたり、車の下で佇んでいたり。

「おーい、おいでよ〜」

 こうして顔を合わせるのももう何度目かになるのに、クロネコは一向に心を開いてくれる様子がない。手を差し出して呼びかける私をじっと見ていて、近づきすぎるとどこかに行ってしまう。なかなか仲良くなれなくて寂しい。どうしたものか。

「おっ、ネコやん」

 背後から突然聞こえた声に思わずびくりと肩が揺れた。しゃがんだまま首だけ振り向くと、同じクラスの隠岐くんがにこやかにこちらを見ていた。

「ミョウジさんのお友達?」
「お友達になろうとがんばってるとこ」
「なるほどなぁ」

 視線を戻すと、クロネコはすでに駐車場の奥まで遠ざかっていて、私たちには目もくれず石塀の向こう側へと消えてしまった。今日こそはもっと仲良くなろうと意気込んでいたのに。切ない気持ちのまま立ち上がった私の隣に、隠岐くんが申し訳なさそうに並ぶ。

「おれが邪魔したから拗ねたんかな」
「そんなことないよ。私もまだ仲良くなれてないし」

 クロネコはどこかに行ってしまったので、もうここにいる理由はない。家に帰ろうと思いつつ、隣の隠岐くんをちらりと見た。何も言わずにさっさと帰るのもなんとなく悪いような気がする。

「……隠岐くんって、家このへんなの?」
「これから防衛任務やねん」
「ああなるほど」
「ミョウジさんは家どっち?」
「運動公園の近く」
「あー、あのへんなんや」

 喋りながら並んで歩き始める。ボーダーの本部基地に行くのなら、おそらく途中まで同じ道だろう。なんとなく別れ道まで一緒に帰るような流れになっていた。

「スーパー行ってたん?」
「え?」
「なんか荷物持ってるから」
「ああ、うん。牛乳と豆腐頼まれて」
「あ、お菓子もある」
「……これはその、ついついうっかり」
「おれもこれ好きやで」
「だよね。おいしいよね。見つけると絶対買っちゃう」
「わかるわー」

 ふだん学校で男子と話すことはほとんどない。だから相手が男子というだけでどうにも緊張してしまい、なにを喋ればいいのかとぐるぐる考える。隠岐くんと別れた交差点までどんなふうに歩いてきたのか、記憶がとてもあやふやであることに、家で着替えを済ませてから気がついた。そんな夕方だった。





「おーい」

 いつも人の気配がない駐車場に誰かいる。と思ったら隠岐くんだった。おーい、と手を振られて反射的に手を振り返す。それにしても、なぜ先にいる。私が先生に呼び止められたからだ。

「来るの早いね」
「ミョウジさんは先生に捕まってたもんな」

 見られていたらしい。遅れをとったことにちょっとした悔しさを感じながら彼の隣にしゃがみこむ。クロネコは相変わらず、私たちとは距離を保ったままくつろいでいた。思いきって一歩前に足を踏み出してみるけれど、ぴくりと素早く反応されたからおとなしく引き下がる。

「なかなか近づけないね」
「せやなぁ」
「怖がってる感じではないんだけどなー」
「うん。めっちゃくつろいでるし」

 私たちのそんなやりとりも知らず、話題の中心であるクロネコはのびのびと毛づくろいをしたり、時折鼻を動かして空気のにおいを確かめたりしている。一挙一動すべてがかわいい。

「野良なんかな、この子」
「どうなんだろ。いつもここにいるけど」
「家猫でも外うろうろしてることあるもんなぁ」
「警戒心強いところは野良っぽいよね」
「たしかに」

 晴れ渡った空の下でゆっくりと時間が流れていく。のんびりと会話を重ねる。ふたりでこうして話すことに最初こそ緊張していたものの、それはすぐに消え去った。
 隠岐くんの話し方は落ち着いていて、なんというか、やわらかい。角がなく丸い。無言が続いて気まずいということもなく、喋りっぱなしで圧を感じることもなく、和やかなテンポや間はホッとする。これは隠岐くんの気遣いなのか、それとも彼が元々持っている性質なのか。

「でもだいぶ距離近くなったと思えへん?」
「思う。けっこう近いよね」
「せやんな」

 そうなのだ。最初はそこそこ遠かった距離が、今は1メートルくらいまで縮まっている。これはすごい進歩である。

「撫でてみたいなぁ」
「がんばって仲良くなろ」
「うん」
「ところで古典の勉強やった?」
「古典?」
「明日小テストあるやん」
「……今日、帰ってからやろうかなー」
「忘れてたやろ」

 小テストなんてすっかり忘れていた。そういえば今日は数学の宿題もあるじゃないか。やるべきことを立て続けにいろいろと思い出して、気分が若干重くなる。
 せっかくの癒しの時間に嫌なことを思い出させる隠岐くんをじろりと睨んでみる。しかしまったく効いていない様子で、穏やかに微笑みながら「がんばろな」と返された。彼と喋っていると力が抜ける。





 地道に続けたクロネコへのアプローチ。その甲斐あってか、手を伸ばせば届く距離までようやく近づけるようになった。
 今日は隠岐くんがいない。学校にも来ていなかった。ボーダーのお仕事で、と先生が朝言っていた。彼がボーダー関連の理由で学校を休むのはよくあることだ。ただ最近はずっと、隠岐くんと一緒にあれこれ会話しながらクロネコに話しかけていたから、私ひとりでここにいることが変な感じに思えてしまった。少し前までは、それが当たり前だったというのに。なんとなくクロネコも不思議そうな顔をしている気がする。ひとり足りないよ、みたいな。気のせいかもしれないけど。
 つやつやとした黒い毛並みに、もう少しで手が届きそうだ。チャレンジしたいけど、もし失敗して今まで積み上げた信用が台無しになったら悲しすぎるから、なかなか踏ん切りがつかない。

「あ、おったおった」

 悶々としている私の背後で、突然声が響いた。駐車場の入口に隠岐くんが立っている。

「隠岐くん」
「おつかれさーん」
「どうしたの? ボーダーの仕事は?」
「さっき終わったとこ。気になって来てしもた」

 足音を立てないよう静かに歩いてきて、クロネコの前で屈んで手を伸ばす。それをしばらくじっと見つめていたクロネコは、隠岐くんの手の動きと呼び声に誘われるように少しずつ近寄ってきて、彼の指先のにおいを確認した。そしてなんと、自分の顔を擦り寄せたのだ。

「ええ!?」
「おー。めっちゃ嬉しい」
「ちょっと待って、なんでなんで」
「なんでやろ」
「隠岐くん、まさか、私の知らないところでこっそりこの子と……」
「いやいやいや、ないない」
「じゃあなんでよ。ずるいじゃん」
「ずるいって言われても。なあ?」

 ゆるみきった口元を隠そうともせずクロネコに話しかけている。私はそれを、悔しさと羨ましさが混ざり合った気持ちで見つめる。恨めしげな視線に気づいたのか、彼はクロネコを撫でる手はそのままに、こちらに向かってこっそりと声をかけた。

「今ならいけるんちゃう?」
「ほんと? 私も触って大丈夫かな」
「大丈夫やろ。ゆっくりゆっくり」
「うん」

 隠岐くんの膝へと体を擦り寄せているクロネコに、私もおそるおそる手を伸ばした。耳の後ろの柔らかい毛にそっと触れてみる。クロネコは逃げ出そうとする様子もなく、されるがままに撫でられてくれた。なんなら撫でるたびに目を細めていて、心地よさそうに見える。

「隠岐くん、見て」
「うん」
「初めて触れた」
「よかったなぁ」
「めちゃくちゃ嬉しい。ていうかかわいすぎる」

 何がきっかけかわからないけれど、どうやら私たちを無害な人間だと認めてくれたらしい。隠岐くんと私に対して交互に懐っこく体を擦り寄せてくる。まるで別人、というか別猫のようだ。かわいくて撫で回したい気持ちをぐっと抑え、冷静な触れ方を心がける。

「よーしよしよし。ええ子やな」

 隠岐くんがクロネコの額を撫でている。その手つきは、驚くほど優しい。見ていてちょっとむずむずするくらいに。こんな姿、学校では見たことがない。動物相手でこうなんだから、たとえば好きな人に対してはどうなってしまうんだろう。さらにもっと優しくて甘い感じなんだろうか。そういう余計な想像をしてしまった。そして今すぐこの場から逃げたいくらい、落ち着かない気持ちになった。





 2時間目の途中から降り始めた雨は、夕方には滝のようなどしゃ降りになっていた。白く煙る窓の外を見るたび心にモヤがかかる。クロネコはどうしているだろう。雨風をしのげる場所はよく知っているだろうし、いらない心配のはずだ。きっと。でもやっぱりどうしても気になる。雨に濡れてはいないか、体を冷やして震えていないか。私を見つめるあの綺麗な黄色い両目が頭に浮かんで離れない。
 授業を全部終えて、すぐさま学校を出た。大雨の中をできるだけ急いで歩く。吹きつける雨と地面に溜まった水のせいで、傘をさしていても足元はびしょ濡れだ。そんなことには構わずとにかく歩いた。
 駐車場に停まっている車は1台だけだった。その下を覗き込んでみる。いない。ぐるりと敷地の中を見回しても、どこにも姿が見えない。そもそもこの簡素で小さな駐車場に隠れられるような場所はないし、やっぱり今日はどこか安全な場所に避難しているんだろうか。

「ミョウジさん」

 雨音に紛れて、私を呼ぶ声がした。傘をさした隠岐くんが駆け寄ってくる。その姿が見えた瞬間、波打っていた心の中が少しずつ緩やかに静まっていくのを感じた。彼は大きく息を吐いて呼吸を整えながら、私に向き合う。

「急いで帰っていくの見て追いかけて来てん」
「あの子がどうしてるか気になって」
「おった?」
「……いない」

 俯いて肩を落とした私の顔を覗き込むように、背中を屈める。目が合うと、彼は眉を下げて微笑んだ。

「心配そうな顔」
「そりゃそうだよ」
「ちゃんとどっかで雨やどりしてるんちゃうかな。ネコって賢いし」
「うん……」
「だーいじょうぶやって。大丈夫」

 やわらかで優しくて、力強い声が耳から全身へと巡る。なんだろう、この妙な力は。ひとりでいるときはネガティブな想像ばかりが浮かんでいたのに、隠岐くんの声を聞いていたら、大丈夫かもしれないと思えてくる。なぜだか心強くて安心した気持ちになる。声をかけられているうちに元気も取り戻してきて、俯けていた顔を上げた。
 今日はとりあえず帰ってまた明日来てみよう。そんな結論になったところで、隠岐くんから突然「あっ」と声が上がった。

「なあ、あれ見て」

 指さした先を目で辿る。石塀の向こう側、白い壁の一軒家が建っている。隠岐くんの指が示しているのは2階の出窓。目を凝らしてまじまじと見てみた。あそこに見えるのは、……ネコだ。黒いネコ。窓の内側にお行儀よく座って、雨の降る景色を眺めている。

「あれってまさか」
「あの子やんな」
「この家の飼い猫だった……?」
「ってことなんやろなぁ」
「そっか。そうなんだ。はあ、よかったぁ〜」

 安心したらなんだか急に力が抜けて、その場に座り込みそうになった。が、耐えた。きっと気の抜けきった変な顔をしているだろう私を見て、隠岐くんは楽しそうに笑う。

「ひと安心やなぁ」
「うん、ホッとした。これで夜ぐっすり寝れそう」
「それはよかったわ」

 さっきまでは、あのクロネコが野良なのであれば、親を説得してウチで面倒を見ようかなんて考えたりもしていた。だけどまさかこんな立派な家で暮らしていたとは。一緒に暮らす計画がなくなって少し寂しい反面、それ以上に、あの子に帰る家があるとわかって安心したし嬉しいと思う。
 安心したらお腹空いてきた、と思ったことがそのまま声に出た。言ってしまったあとで恥ずかしさに襲われたけど、隠岐くんが「おれも」と同意してくれたから救われた。

「私たちも帰ろっか」
「あ、ちょっと待って」

 駐車場を出ようとしたら、待ったがかかって足を止めた。隠岐くんのほうに向き直ると、そこにいつもの穏やかな微笑みはなく、ほんの少しドキリとした。思わず背筋が伸びる。

「あのな」
「うん」
「連絡先聞いてもええ?」

 叩きつけるように降っていた雨は、気づけばもうずいぶんと勢いを弱めていた。

「私の?」
「うん」
「いいよ、もちろん」
「ホンマに? ありがとう」
「いやいやそのくらい全然」
「断られたらどうしよって不安やったわ」
「なんで、断るわけないでしょ」
「ネコ友達やし?」
「そうだよ。まあ、急に聞かれたからちょっとびっくりはしたけど」
「急やないねん。おれの中では。ずっと聞こう聞こうと思ってたから」

 彼の口から出た言葉は、雨音を越えてしっかりと届く。その言葉の意図を私ははかりかねている。「最初にここで声かけたときな」と彼は続けた。

「仲良くなるチャンスやって思ってたし、実はめっちゃドキドキしてた」

 ていうか今もしてる。そう零す声には特別な感情が滲んでいる。私の思い違いでなければ。思い違いじゃないよと諭すように、今までのどんなときよりも、一番優しい顔をする。
 私ってこれまでどうやって彼と接していたんだっけ。なんであんなに何も考えずに喋れていたんだろう。急に全部わからなくなった。雨の粒はやけにゆっくりと、私と彼の間に音もなく落ちていた。


2022.5.30

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