この時期の風はまだ少し冷たく、だけど太陽の光はやわらかくてあたたかい。季節は確実に春へと近づいている。目に映る景色はどんどん鮮やかになっていくというのに、なぜか寂しさを感じてしまうのは、いくつもの別れを繰り返してきた季節だからだろうか。
 正門に卒業式式場と書いた看板が掲げられている。その横を通ると背筋が伸びるような気持ちになった。去年まで見送る側だった私も、今年はついに見送られる側だ。見上げた先には、門出の日に相応しく、抜けるような青空が広がっている。

 つつがなく式を済ませ、友達や先生とひとしきり写真を撮り終えて、なんとなく足は教室へと向かっていた。校内はいつもの賑やかさが嘘のようにがらんとして静かだ。最後の1年間を過ごした3年B組の教室。中に入って窓を開けると、白いカーテンが静かに揺れた。外は明るい光に満ちているけれど、電気のついていない室内はひんやりとしていて、窓を挟んで別世界のように思える。
 窓際、一番後ろの席に腰を下ろした。ついこの間まで毎日座っていた私の席。最後の席替えで引き当てたこの席が好きだった。窓際後ろという好配置だからというのもあるけれど、最も大きな理由はそれじゃない。

「あ」

 短く声が聞こえて入口に目をやると、卒業証書を片手に御幸が立っていた。心臓が一瞬大きく跳ねる。野球部のメンバーに囲まれながらグラウンドのほうに向かう御幸をさっき遠くから見かけて、それが最後だと思っていた。もう顔を見ることも、言葉を交わすこともないんだろうと思っていたから、予想外の遭遇に戸惑ってしまう。

「一人でなにやってんの」
「御幸こそ」
「俺はちょっと探しもの」
「野球部で集まってるのかと思ってた」
「集まってたよ。さっき解散した」
「熱く見送られてきた? キャプテン」
「そりゃもう濃厚に」

 自然な動きで私のひとつ前の席にやってきて、窓を背にしてイスに座る。ついこの間まで、御幸が毎日座っていた席。自分の席を気に入っている一番の理由がこれだった。授業中に何度も見た御幸の後ろ姿。少し丸まった背中、ときどき変な方向に跳ねている髪、シャーペンをくるくると回す指先。

「ここにいてくれてよかった」
「ん?」
「もし会えたら言おうと思ってたことあるから」
「……私に?」
「そ、お前に」
「なに?」

 前のめりに問いかけると、御幸は宙を見つめたまま「うーん」と迷うような素振りを見せた。

「まあまあそんな急がなくていいじゃん」
「ええー。気になる」
「せっかくだしちょっと話そうぜ、最後なんだから」

 最後。その言葉が胸にぐさりと突き刺さる。事実だからこそ深く。今日という日が終わればきっと、もう会うことはない。
 私と御幸は友達と呼べる関係だと思う。偶然にも3年間同じクラスで、クラスメイトの中でも喋る機会は多い。グループワークで一緒になったときに交換したからお互いの連絡先も一応知っている。けれど、だからといって卒業してからも交流が続くことはおそらくないだろう。今まで同じ教室に通っていた友達同士でも、これからはそれぞれ新しい生活を送っていく。新しい環境で、新しい人間関係もできる。そんな中、何年経ってもずっと繋がっていられる相手は貴重なはずだ。
 どうせ会えなくなるなら。そう思って卒業する前に告白しようと思ったこともあった。できなかったけど。告白して振られて、気まずいまま離れるくらいなら、「あいつ良い友達だったな」と思っていてもらいたい。

「結局ずっとクラス一緒だったなー」
「ね、びっくりした。仲良くなったのは2年生になってからだよね?」
「1年の秋だろ」
「そうだっけ」
「クラスマッチのとき怪我の手当てしてくれたじゃん」

 1年のクラスマッチ。当時の記憶を掘り起こす。たしかにそんなこともあったかもしれない。なんせクラスマッチなので怪我をするクラスメイトが続出して、保健委員である私はあの日ものすごく走り回っていた。おまけに保健室の先生が席を外している時間帯があったから、何人かの擦り傷を緊張しながら消毒した記憶がある。御幸が言っているのはたぶんそれだ。

「そういえばそうだったかも」
「え、まさか忘れてた?」
「怪我の手当てとか初めてだったから緊張してて記憶がおぼろげ」
「マジかよ。俺すげぇ覚えてんのに」

 保健委員の役割でいっぱいいっぱいだった上に、あの頃はまだ御幸のことを意識していなかった。なので、覚えていなくても仕方ない。でも今となっては覚えていたかったと思う。そんな心躍るシチュエーションならば、なおさら。

「んじゃ他になんか思い出に残ってることある?」
「えー、なんだろ。あらためて聞かれると難しいな。御幸は?」
「俺は修学旅行かな」
「……行ってないじゃん、野球部」
「うん。行ってない」
「行けなかったなーっていう思い出?」
「そんな感じ。あとお前がお土産くれて嬉しかった」

 そう言って微笑む御幸に微笑み返したら「すげぇ満足げな顔」と笑われた。お土産はいたって普通のお菓子だったけど、今でも覚えていてくれるくらい喜んでもらえたのなら、買ってきてよかった。正直に言えばやっぱり一緒に行きたかったし、どこを見ても御幸がいないのは寂しかった。だけど大事な秋大会と日程が被ってしまっては仕方がない。

「でも秋大勝てたのはよかったよね」
「それはマジでそう」
「野球応援いっぱい行ったなー。野球部どんどん勝ち進むから」
「3年間ありがとな、ほんとに」
「暑いけど楽しかったよ」
「練習もよく見に来てたよな」
「えっ……なんで知ってるの?」

 ギクリとした。御幸の言うとおり、家が近い私は、野球部の練習を学校帰りに覗いたり、休みの日に出かけたついでに覗いたりしていた。青道のグラウンドは見学に来ている人も多くて、それに紛れてこっそり見てたから絶対バレてないと思っていたのに。

「なんでもなにも、見えるし」
「集中しなよ練習に」
「してるけど目に入んの」

 こうやって話していると、いろんな景色やにおいが次々と私の中に溢れてくる。たくさんのことを思い出す。目の前で笑ってる御幸のことを、すごく好きだと思う。気持ちを伝えなかったことをいつか後悔する日が来るんだろうか。机の上で両拳を握りしめていると、御幸の声がぽつりと優しく響いた。

「楽しかったよな、3年間」

 眼鏡の奥で目を細めて微笑んでいる。過ぎた日々を懐かしむように。

「野球部のこと?」
「野球も、それ以外も」
「御幸は野球一色だったでしょ」
「まあそれは否定しねぇけど。教室に来るのも好きだったよ」
「ホントに〜?」
「お前がいたから」

 聞き流しそうなくらい、さらりとした言い方だった。なにか今とても重要なことを言われたような気がする。いや待て考えすぎかもしれない、と一旦落ち着こうとしている間に、トドメとなる言葉が耳に届く。

「俺がお前のことずっと好きだったの、知ってた?」

 まるで今日の天気のように、優しくて穏やかな表情。だけど私を見るその目は真剣そのものだった。

「……知らない」
「だよなー」
「全然そんな雰囲気なかったから」
「いやいや、俺おまえには特別優しかっただろ」
「えー……?」
「響いてねーな」

 いつもと変わらない飄々とした受け答え。今まさに告白をしているとは思えないくらい、御幸は落ち着き払っている。むしろ私のほうが何倍も動揺していて、なんだか少し悔しさすら湧いてくる。

「なあ、返事は?」
「……」
「そんな顔されたらすげぇ期待するけど」

 もうきっと全部わかっているだろうに。とぼけている御幸のまっすぐな視線に負けないくらい、私もまっすぐに見つめ返した。

「ほんとずるいよね」
「え、俺?」
「御幸のことは大事な思い出としてしまっておこうと思ったのに」
「勝手に思い出にすんなよ」
「うん。ごめん」

 優しく見つめられて、なんだか泣きそうな気持ちになる。私も御幸のことが好きだよ。そう伝えると、彼の顔がびっくりするくらい綻んでいくものだから、恥ずかしくなって机に置いた自分の手を見た。そうしたら今度はその手に御幸の手を重ねられてしまい、そっちも見ていることができなくなってしまう。視線を泳がせているとバッチリ目が合った。その目が私の心臓をさらに強く握りしめる。これが御幸の、好きな人を見るときの目。
 手が触れ合ったままゆっくりと静かな時間が過ぎていく。時折カーテンを揺らす緩やかな風が心地いい。信じられないことが起きて、体が浮いているんじゃないかと思うくらいふわふわとした心地の中、さっき御幸が言っていたことをふと思い出した。

「ちょっと待って」
「ん?」
「もし会えたら言おうと思ってたって言ったよね」
「うん」
「ってことは、会えなかったら言わないままだったってこと?」
「そうだな」
「ええー……」

 あっさり頷かれてがっくりと肩を落とした私を見て、御幸が小さく笑う。

「まあ意地でも探し出すつもりだったけど」

 なんでもないことのように言うから、そういうところも好きだと思った。そしてこれからも、季節が進むたびに彼のことをどんどん好きになるんだろう。なんとなくわかる。そんな予感がしている。春のにおいがする、この教室で。


2022.4.10

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