「今日寒すぎる」

 宅配便を受け取って玄関から帰ってきた彼女が、コタツの向かい側で恨めしげに言った。たしかに今日の寒さはかなり厳しい。ここ数日は多少和らいでいたのに、また一気に真冬の気温に戻った感じだ。彼女のマンションに来るまでの間も、耳が冷たすぎて痛いくらいだった。最近は使う頻度が減っていたらしいこの部屋の暖房も今日は解禁されている。が、寒すぎるせいなのかいまいち暖まっている感じがしない。窓の外では、裸の枝が強い風に吹かれて寒そうに揺れていた。

「最高気温が昨日より5度以上低いって」
「まじで」
「天気予報で言ってたよ」
「絶対もう家から出たくない」

 今朝得た情報を教えると、縮こまった体はますます深くコタツの中に潜りこんだ。その気持ちはわかる。おれも、この寒さの中帰ることを考えるとちょっと憂鬱だ。帰るの嫌だな。それは寒さだけではなく、彼女の存在そのものが大きな理由なんだけど。
 急な呼び出しがなければ、明日の午前中までは空いてる。許されるならこの部屋で一緒に過ごしたい。

「ナマエさん、今日泊まってもいい?」
「いいよ」

 あっさりと了承をもらえたので、晩飯がいらないことを夕食当番のレイジさんに連絡した。了解とすぐに返信が来る。玉狛支部の今日の献立は何だろう。レイジさん、ジャガイモ使おうとしてたな。おれの見立てではクリームシチューの可能性が高いけど、まだ確定はしていない。ジャガイモ料理をいろいろと思い浮かべていたら腹が減ってきた。そういえばもうこんな時間だ。
 今夜は豚肉の生姜焼きにすると彼女は言っていた。ひたすら街の定食屋を巡る番組で見て食べたくなったらしい。あのうまそうなにおいを想像して空腹はさらに加速する。その気持ちが通じたかのように、彼女がおもむろに呟いた。

「お腹空いてきた」
「おれも」
「迅くん」
「ん?」
「鍋食べたくない?」
「いいね、鍋」
「寒いし」
「でも今日は生姜焼きにするって言ってなかったっけ」
「言ってた。言ってたけど……」

 コタツ机に突っ伏す後頭部を見つめる。そのまましばらく呻いていたと思ったら、急に起き上がり、おれに真っ直ぐな笑顔を向けた。

「よし、今日の晩ごはんは鍋!」
「え」
「ほらほら買い出し行くよ」
「ええー……?」

 ついさっき絶対もう外に出ないと言っていたのは何だったんだろう。鍋への執着は寒さをも超えるのか。ともあれ、彼女が行くと言うのならばおれも共に行くのだ。さっそく出かける準備を始めている彼女に続き、おれも覚悟を決めてコタツから出ることにした。

 マンションからスーパーまではそう遠くない。自転車だと数分で着くから、彼女も一人のときは自転車を使うことが多いようだ。今日は二人なので歩いて行く。少し時間はかかるけど二人だから全然いい。ハンパなく寒いけど。
 正面から吹きつける風は恐ろしいほど冷たくて、マフラーに顔の下半分を埋めて歩く。彼女も同じようにマフラーをぐるぐると巻いて不審者のごとく顔を隠し、小さくなりながらおれの真後ろを歩いている。

「寒いよー」
「ナマエさん」
「ん?」
「なんでおれたち一列になって歩いてんの?」
「うーん?」
「おれを風除けにしてるでしょ」
「バレたか」
「まあいいけど」
「ごめんごめん。でもやっぱりこっちのほうがいいや」

 おれの後ろから隣へと移動してきて、「手もつなげるし」と笑いながら指を絡めるんだから、まったく本当にずるい人だと思う。

「何鍋にしようか」
「迷うなあ。迅くん何がいい?」
「今食べたいのはキムチ鍋かな」
「いいね、そうしよ」

 スーパーに着いたらまずは野菜コーナーから順番に物色していく。カゴを乗せたカートを押すおれの少し前を、彼女が手をぶらぶらと揺らしつつ歩いていく。

「白菜ともやしはウチにあるよ」
「エノキは?」
「エノキはない」
「じゃあ買っとこう」

 他にもニラや長ネギ、豆腐、豚バラなど具材をポイポイとカゴに入れながらどんどん進む。シメのうどんも忘れない。それと彼女が最近鍋に入れるのにハマっているらしい冷凍餃子も。冷凍食品コーナーでずらりと並ぶたくさんのアイスを前にした彼女は、足を止めて目を輝かせた。

「アイスも買っちゃお〜」
「こんだけ寒いのに攻めるね」
「鍋のあとにコタツで食べるアイス最高じゃん」
「まあたしかに」
「迅くんどれにする?」
「おれはこれ」
「決めるの早っ。ほんとは食べたかったんでしょ」

 お互いに食べたいアイスを選んでカゴに入れる。彼女はそのあと待ち構えているデザートコーナーにもふらふらと吸い寄せられていたけど、アイスが溶けるからと説得して、素早くレジを済ませてスーパーを出た。暖房の効いた屋内から外に出るとあらためて寒さが堪える。これだけ寒かったら、アイスも溶けることはないかもしれない。袋の中身を気にかけながら、行きと同じ道を二人で歩いた。

 マンションに戻ってきてとりあえず、冷えた体をコタツで一旦暖める。そしてゆっくり休むこともなく晩飯に向けて早々に行動を開始した。なぜそんなに忙しないのかといえば、二人とも腹が減っているからだ。流し台の下から土鍋を取り出している彼女に声をかける。

「作るのはおれがやるよ」
「いいの?」
「うん。鍋ならよく作るし」

 泊めてもらうお礼も兼ねて申し出ると、ありがとうよろしく、と託された。その間に彼女は皿を並べたりお茶を入れたりする。具材もスープもすべて入れた鍋をキッチンで完成直前まで煮込んでおいて、この部屋にはIH卓上調理器があるから、残りはコタツ机で仕上げた。シメのうどんを入れるときに楽だし、目の前でぐつぐつと煮えている様子を見るのは目に良い。辛くてうまそうな匂いも漂ってきている。もう食べられるだろう、となったところで、手を合わせてから箸をつけた。

「うわ〜めちゃくちゃおいしい」

 スープが染みわたった具材を食べ、彼女は今日一番くらいの笑顔を見せた。迅くん天才、とおれのことをおだてている。そう言われてもちろん悪い気はしない。たしかに今日のスープはかなりいい感じにできた。心の中で自分を褒めてやった。空腹二人の手によって、山盛りだった鍋の中身はどんどん少なくなっていく。

「あー、あったまる」
「なんかさあ」
「うん」
「今すっごい幸せ」
「寒い日にあったかい部屋で鍋食べてね」
「そう。しかも迅くんと一緒に」

 しみじみと「最高の時間だなあ」と言いながら熱々の豆腐に釘付けになっている彼女を見つめて、「おれもそう思う」とできる限りの思いを込めて呟いた。もっと気の利いた言い方ができないものかと、声にしたあとで思う。本当に心底そう思ってるって、ちゃんと伝わってるといいんだけど。

 シメのうどんまでしっかり食べ終えた頃には、二人揃って満腹になっていた。彼女は少しひと休みしてから鍋と食器を片付けて、さあアイスだ、と張り切っている。どれだけ満腹でもアイスは食べられるらしい。
 鍋もアイスも彼女はとてもおいしそうに食べる。だから味を知っているはずのものでも、なんだかやたらとおいしそうに見えてくる。そんなことを考えながら見ていたら、欲しがっていると思われたのか「一口いる?」とスプーンを差し出された。素直にそのまま口で受け取る。お返しに自分の棒アイスを差し出すと、一口かじって表情をやわらかく綻ばせた。さっきから彼女が何かをするたびにかわいくて、本能の赴くままに身を乗り出して顔を寄せた。短いキスをして離れると、「どういうタイミング?」と言いながらも嬉しそうで、さらに本能をくすぐられる。

「ナマエさん」
「なに?」
「一緒にお風呂入ろうよ」
「えー。ヤダ」
「え、嫌なの?」

 なんかちょっといい雰囲気だったから淡い期待で誘ってみたら、普通に断られた。傷つくなあ、と付け加えてみるものの、本当に傷ついているわけではない。彼女もそれはよくわかっていて、こっちを見ることもなくアイスを食べ続けている。

「だって狭いし」
「くっついて入れば大丈夫だよ」
「迅くんまともに入らせてくれないし」
「そりゃ仕方ない。おれだって普通の男なんだから」

 なにも身につけていない好きな人を目の前にすればそりゃあちょっかいも出したくなる。だから申し訳ないけどそこは許してほしい。あれやこれやと言ってなかなか諦めようとしないおれにようやく視線を向けてくれた彼女は、食べかけのアイスを置き、おれの手の甲をそっと撫でながら宥めるように囁いた。

「お風呂出たあとでいいことしようよ」

 含みを込めた言い方に思考が止まる。一瞬、ほんの一瞬、その"いいこと"をしている彼女が見えそうになって、慌てて頭を振った。少しだけ見えた光景に、膨らむ期待が止まらない。その間も彼女はじっとおれを見つめていて、浮かべた微笑みには余裕すら感じる。

「ね?」
「……ハイ」
「ってことでお風呂はひとりで入るから」
「……」
「なに? こっち見すぎ」

 黙りこんだおれを見て楽しそうに笑っている。そんな姿に、とてつもなくやわらかい気持ちがこみ上げてくる。うまい鍋もあたたかい部屋も食後のアイスも全部幸せだけど、その顔を見てるのが、やっぱり何よりも一番幸せだ。


2022.3.12

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