欲しいって言ったのはそっちじゃないか。心の中でそう言いながら、顔には笑顔を貼りつけていた。渡したかったものは見えないように、後ろ手に隠して。


 防衛任務まではまだ時間がある。だけど学校にはいたくないし、バレンタインフェアが目につく駅前をぶらぶらするのも嫌で、早めにボーダー本部へとやって来た。普段よく行くラウンジではなく、基地の端っこに位置する自販機まで歩き、その隣に置いてあるベンチに力なく腰を下ろす。
 場所が悪いのか、そもそも存在を知られていないのか。ここの自販機はあまり利用者がいないようで、いつ見ても人の気配がない。今日も同じく。ひとりになりたいときには打ってつけなので、私はときどき利用している。
 さっきからカバンの中でスマホが震えているような気がする。それを確認することもなく、膝の上に乗せたココア色の小さな紙袋をただただ見つめていた。

「お、やっと見つけた。おまえな、さっきから連絡してんのに……」

 ボーッとしたままどのくらい時間が経ったのだろう。突然かけられた声に意識が引き戻される。目の前に立つ諏訪さんは私の顔を覗きこみ、それ以上言葉を続けるのをやめた。視界から消えたと思ったら自販機の前に移動して小銭を取り出している。しばらくして、ガコン、と缶の落ちる音がした。
 どうやらさっきからスマホを鳴らしていたのは諏訪さんだったらしい。

「なんか用だった?」
「用があんのおめーじゃねーの。手ぇ空いたら声かけろっつってただろ」
「ああ、そういえば……ごめん」

 今朝送ったメッセージを思い出す。借りていた小説を返すために声をかけていたんだった。ついでに今日の報告も聞いてもらおうと思っていた。バレンタインの報告を。

「なんか飲むか?」
「ほうじ茶がいい。あったかいやつ」
「へいへい」

 今度はペットボトルの落ちる音がして、諏訪さんが私の手の甲にそれを当てた。膝に置いていた紙袋を横によけ、お礼を言って受け取る。両手で包んだミニサイズのペットボトルは熱すぎるくらいに温かい。指先の冷たさを和らげていく。
 ひとり分くらいの間を空けて隣に腰を下ろした諏訪さんは、いつもの缶コーヒーを飲んでいる。利用者がほとんどいないここでときどき遭遇する数少ない人物が、諏訪さんだ。なんでもこの自販機でしか売ってないコーヒーが好きらしい。他のコーヒーとなにが違うのかはよくわからない。
 入隊当初はちょっと怖いとすら思っていた諏訪さん。話す機会が増えるたびにその人柄や面倒見の良さに触れ、最初の印象は簡単に覆った。あまりにコロッと懐いたせいか、「悪いヤツにすぐ騙されそうだから気ぃつけろ」と注意されたことがある。この場所で着実に交流を深めた諏訪さんには、他の人には言わないようなことも話せてしまう。たとえば、そう。同じクラスに好きな人がいるってこととか。

「バレンタイン、渡せなかった」

 そーか、と短く諏訪さんは言った。たぶんここに来たときから知っていたはずだ。私が抱えていた小さな紙袋を見れば、すぐにわかることだから。

「彼女いるんだって」
「ちょい待て、ついこないだまでいないっつってなかったか?」
「昨日告白されて付き合い始めたって」
「マジか」
「渡せないよね。しかも手作りだし」

 手作りが欲しいと言ったのは彼のほうだ。今月の初め、つまりまだ彼女ができる前。話の流れでバレンタインの話題になり、手作りをもらうのはやっぱり嬉しいんだ、と。誰からももらえないのは寂しいからおまえがくれないか、と。向こうから言い出したのだ。舞い上がり張り切って手作りした昨日の自分を思い出すとひたすら虚しい。

「真面目に受け取った私がバカだった」

 向こうにとっては些細な冗談だったのに。どこを見るでもなく目の前の壁を見つめる。あのバカヤロウめ、と思う気持ちは消えない。ただ、渡してしまう前に彼女ができたことを知れたのは、せめてもの救いだったと思う。
 私が独り言のように話している間、諏訪さんは何も言わず、静かに前を見ていた。さっきよりも少しぬるくなったほうじ茶をひと口飲んで目を閉じてみる。コーヒーのにおい、服の擦れる音、少し動くだけでギシリと鳴るベンチ。言いたいことすべてを話してこの空間に身を委ねているうちに、あのバカヤロウのことなどなんだかどうでもよくなってきて、大きめのため息とともに思いきり伸びをした。ずっと正面を見ていた諏訪さんの顔がようやくこちらに向く。

「それどうすんだよ」

 指差す先には例の紙袋がある。行き場を失ったこれをどうするかまでは考えていなかった。

「持って帰って自分で食べようかな」
「んじゃ俺が食っていいか?」

 え、なんで。視線で疑問を投げかける。しかしそれに答えはなく、食っていいかともう一度訊かれたから、こっくりと頷いた。同意を得た諏訪さんは、すぐさま紙袋を引き寄せて中を覗きこむ。透明な袋の口を赤いサテンのリボンで結んだシンプルなラッピング。いつもの大雑把な諏訪さんとは思えないくらい丁寧に、それを解いていった。

「うん。うめえ」
「……」
「これなんだ? ケーキ?」
「チョコブラウニー」
「へー。初めて食ったわ」

 ひとつ食べ終えて、次へ。どんどん諏訪さんの口の中に消えていく。三つ入っていたチョコブラウニーは、あっという間にすべてなくなってしまった。

「ごちそうさん。うまかった」
「……そっか、よかった」
「甘ぇもんもたまにはいいな」
「諏訪さん」
「あ?」
「ありがとう」
「なんの礼だよ。意味わかんねえヤツだな」

 またそうやってぶっきらぼうな言い方をする。本当は優しいくせに。空っぽになった透明な袋を見つめながら思う。不思議な感じだ。不完全燃焼な私の思いまで、お菓子と一緒に諏訪さんが食べ尽くしてくれたような。そんな感じ。
 俯いたまま物思いにふける私の視界の端で、諏訪さんはスマホを片手に、飲みかけの缶コーヒーに口をつける。

「このあと防衛任務だろ」
「うん」
「そろそろ行ったほうがいいんじゃねーの」
「え、もうそんな時間?」

 いつのまにそんなに時間が経っていたのか。カバンから取り出したスマホで確認すると、たしかに集合時間が迫っていた。画面に触れたとき諏訪さんからのメッセージの通知が何件も見えたけれど、さっき謝ったのでもう許されてると信じることにする。大丈夫、たぶん、おそらく。
 カバンを肩にかけ、自販機横のゴミ箱に空になったペットボトルを捨てる。あらためてお礼を言っておこう。そう思ってベンチに座ったままの諏訪さんの前に立つと、彼のほうが先に口を開いた。

「ミョウジ」

 呼ばれるままに視線を下げる。諏訪さんが私を見上げる。その目がなんだかひどく優しいものだから、ほんの少し息を飲んだ。

「おめーの真面目なところとか、素直に落ち込むところとか」
「え? 急にどしたの?」
「単純で信じやすくて、しっかりしてんのにちょいちょい地味にやらかしてて、たまにネガティブ沼にハマってるところとか」
「ぐう……言い返せない……」
「俺は全部すげえいいなと思ってる」

 他に何の音もない空間に、その声はしっかりと響き、私の全身を巡った。

「防衛任務がんばれよ」

 じゃーな、と笑って、猫を追い払うような仕草で手を動かす。私はといえば「ありがとう」となんとかひと言だけ呟いてその場を後にした。廊下を足早にひたすら歩きながらも、頭の中はさっきの言葉で埋め尽くされていた。何度も再生して噛みしめる。
 あ、そういえば。ふと思い出してカバンの中を探った。手に触れた一冊の文庫本。諏訪さんから借りていた推理小説。返すつもりで持ってきたのに、すっかり忘れていた。その表紙を見ていると諏訪さんの顔が浮かんできて、心臓がぎゅうと苦しくなった。
 私って本当に、呆れるくらい単純だ。


2022.2.14

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