「空閑くん」

 背後から声をかけられて、空閑遊真は振り向いた。人気がなく、しんと静まったボーダー本部基地の廊下。その真ん中で立ち止まっていた彼のすぐそばまで声の主が近寄り、問いかける。

「どうしたの?」
「外に出たいけどどう行けばいいのかわからん」
「あー、なるほど」

 納得したように、彼女は瞼を閉じてウンウンと頷いている。かと思えばパッチリと目を開き、彼にまっすぐ向き直った。

「連絡通路に行くなら一緒に行こ」
「ふむ。いいの?」
「私もちょうど帰るとこだから」

 朗らかに笑う彼女はボーダーの先輩だ。遊真が以前本部へ足を運んだとき、一緒に来ていた宇佐美を通じて挨拶くらいはしたことがあったが、こうしてちゃんと喋るのは初めてだった。そんな彼女に誘導される形で、無機質な長い廊下を歩き始める。

「先輩が通りかかってくれて助かった」
「ここの廊下ってどこも似てるから迷うよね」
「そうなんだよな。どこがどこやら」
「私も最初はよく迷子になったからわかるよ」

 そう言って笑いかける彼女の声や表情は春の日差しのようにやわらかく、彼の目に映るものを明るく照らして見えた。この廊下には外から光が差し込むはずもないのに不思議だ。首を捻りながら考え込んでいる遊真を見ていた彼女が、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「ていうか空閑くん、上着は?」
「持ってきてない」
「今日けっこう寒いよ」
「寒さには強いのでおかまいなく」
「そうだ。これ使って」

 おかまいなくという言葉は流されたのか、そもそも聞く気がないのか。口を挟む隙もなく、彼女がカバンから取り出したマフラーを首にぐるぐると巻かれ、ついでに手袋も握らされる。
 トリオン体は暑さ寒さを調節できるので、まわりの人間からどう見えるかはさておき、薄着で外をうろついても寒さに凍えるということはない。しかし彼は、マフラーと手袋を外して返そうという気持ちにはならなかった。

「あったかい」
「そうでしょ」
「どうもありがとう、ナマエ先輩」
「えっ」
「ん? おれ名前まちがった?」
「いや合ってるけど」
「それならよかった」
「…………」
「おれの名前は遊真だよ」
「し、知ってるよそれは」
「そーか」

 赤い瞳にじっと見つめられてしばらく視線をさまよわせていた彼女だったが、最終的には彼と目を合わせ、ためらいながらも口を開いた。

「……遊真くん」
「うん」

 小さく呟いた名前は、白い髪に隠れた彼の耳にもしっかりと届く。ニコリと満足そうな笑顔につられて、彼女の口元も緩むのだった。



 週末の本部基地は賑やかだ。ボーダー隊員は学生が多いこともあり、学校が休みの日は平日に比べて人が増える。
 そんな混雑気味のラウンジにやってきた遊真は、入口近くに座っている目当ての人物を見つけてまっすぐに近づいていく。タブレットに集中していた彼女は、目の前に誰かが立っていることに気づいてようやく顔を上げた。彼が大事そうに抱えているものを見て用件を察する。遊真は数日前に借りたマフラーを丁寧にたたみ、その上に手袋を乗せて差し出した。

「こないだはいろいろとありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
「なにかお礼しないとな」
「そんな気遣わなくていいよ」
「まあそう言わずに。なんか希望とかない?」
「えー、お礼かあ……うーん」

 人差し指をこめかみに当ててしばらく悩んでいた彼女は、何かを思いついたらしく、パッと顔を輝かせた。

「十本勝負してほしい!」

 予想外の要望だった。目をぱちくりとさせる遊真に、彼女はそのまま話を続ける。

「私、攻撃手なんだよね」
「うん、知ってる」
「だから前から遊真くんと戦ってみたくて。……あ、でも忙しい?」

 彼と勝負をしたがっている攻撃手は多い。予定がいっぱいで断られると思ったのか、不安そうに訊ねたのだが。

「いいよ。やろう、十本勝負」

 あっさり了承されて、今度は彼女のほうが目をぱちぱちと瞬かせた。

「いいの?」
「もちろん。今からやる?」
「うん! じゃあさっそく行こう」
「先輩とやるの楽しみだ」

 二人はさっそくラウンジを出て個人ランク戦ブースへと向かった。喜びが抑えられない様子の彼女は、楽しげなスキップで廊下を進んでいく。おかしな人だな。浮かれた姿を眺めながら、彼はこっそりと思う。
 そうして行われた初めての勝負は、遊真の大勝で終わった。



 お礼として初めて十本勝負をした日をきっかけに、彼らはときどき約束をしては個人ランク戦ブースで落ち合うようになった。終わった後は、ラウンジでなにかしら飲みながら勝負を振り返ったり、一緒に宿題や予習をしたり、時間によっては食堂でご飯を食べたりする。二人でいるときののんびりとした空気は心地いい。彼にとって、彼女は良き先輩のひとりになっていた。

「なかなか勝てないなあ」

 今日もいつもどおり個人ランク戦を終えた二人は、ラウンジの隅の席に座っていた。勝負の振り返りが一段落したところで、ココアを一口飲んでから、彼女が唇をとがらせた。

「でも前よりかなり動きよくなったよ」
「ほんと? 実はこないだ太刀川さんも褒めてくれたんだ」
「ほう、たちかわさんが」
「遊真くんのおかげだね。ありがとう」
「いやいや。おれは自分が楽しんでるだけだから」

 テーブルの隅に置いてある彼のスマートフォンが短く震えた。確認すると、メッセージの送り主は村上鋼だった。遊真と村上は今日、個人ランク戦の約束をしている。

「あ、このあと約束あるんだっけ」
「うん。むらかみ先輩、もうちょっとで着くらしい」
「私はそろそろ帰ろうかな」
「んじゃ、まだ時間あるし出口まで見送るか」

 空になった飲み物の容器を捨ててラウンジを出た。最近は遊真もだいぶ基地の構造を覚えてきており、誘導してもらわなくてもちゃんと目的地にたどり着けるようになっている。連絡通路までは少し距離があるものの、喋りながら歩いているとあっという間に感じる程度のものだ。
 ものの数分で連絡通路に繋がるドアの前に到着すると、彼はさっきからひそかに気になっていたことを投げかけた。

「先輩、いつものマフラーしてないの?」

 今日の遊真は以前の反省を踏まえてしっかり防寒してきていた。それに対して、むき出しの彼女の首や手はとても寒そうに見える。今朝の天気予報でも、夕方から急激に冷え込むと言っていた記憶がある。おまけに外は風が強いらしい。これはラウンジに入ってきたC級隊員が大きな声で話していた。

「朝急いでて家に置いてきちゃった」
「外かなり寒いみたいだけど」
「大丈夫、早歩きで帰るから」

 それは果たして大丈夫と言えるのか。このまま外に出た彼女を想像してみる。ガタガタと寒さに震える姿が目に浮かんだ遊真は、自分が身につけていたマフラーを外して差し出した。

「これ使う?」
「えっ」
「はいどうぞ」
「いいよいいよ、遊真くんが寒いじゃん」
「おれはレイジさんが車で迎えにきてくれるから大丈夫」

 彼は差し出した手を引っ込める様子はない。最初は申し訳なさそうに遠慮していた彼女だったが、最終的には折れて、もこもこと暖かそうなそれを丁重に受け取った。

「じゃあ、お言葉に甘えて」
「どうぞどうぞ」

 さっそく身につけて「うわーあったかい」と喜んでいる姿を見て、彼は誇らしげに頷く。

「先輩が寒い思いしなくてよかった」
「優しいね、遊真くん」
「そう?」
「今度お礼するから」
「べつにいいよ、このくらい」
「こないだ私が貸したときお礼してくれたでしょ。十本勝負」
「じゃあおれも十本勝負でよろしく」
「それさ、むしろこっちが得してるからお礼にならないよ」

 そんなことないけどな、と思いながら目線を落とすと、なにも身につけていない彼女の両手が視界に入った。マフラーのおかげで少しは暖かそうな格好になったが、手袋はあいにく彼も持ってきていないので貸すことができない。
 手が寒そうだなと見ているうちに、気づいたら体が勝手に動いていた。無防備に揺れている彼女の手を唐突にぎゅっと握る。まずは左手を捕まえて、それから右手、そして両手を合わせるように上から包みこんだ。触れ合ったところがじんわりと熱を持つ。

「どう、あったかい?」

 手を握ったまま彼女の様子を伺ってみると、のぼせたように耳まで赤くして固まっていたので、彼は顔を覗き込むように首を傾げた。

「暑い?」
「えっ? いや全然」
「なんか顔赤いから」
「ああ、それは、うん……」

 恥ずかしそうに伏せられる目。それを見た瞬間に心臓がドキリと大きく脈打つものだから、驚いた彼は思わず手を離してしまった。遠くなる温もり。どんどん速くなる心臓の音。むずむずと落ち着かない空気が二人の間を流れる。たった数秒が、やけに長く感じる。

「……遊真くん、まだ行かなくていいの」
「行くよ。行くけど」

 もうすぐ約束の時間だ。行かないといけないのはわかっている。だけど。

「もっと先輩と喋りたい」

 重なった視線。胸をくすぐるようなその眼差しに、少年は、初めての感情を知る。


2022.1.30

- ナノ -