これって夢だろうか。目の前に広がるなんだか見たことのある光景。つい最近こんなことがあった気がする。
 私は大学近くの居酒屋にいて、隣には太刀川が座っていた。加古ちゃんや堤くんたちもいる。手に握られているのは飲みかけのビール。ほぼ満席の店内はガヤガヤと騒がしく、私たちの喋る声も自然と大きくなる。最初の乾杯をしてから随分と経つけれど、この日の太刀川は顔色もまだ全然普通で、そんな姿を見ていた堤くんが興味深そうに呟いた。

「太刀川がこんなにちゃんとしてるの珍しいな」
「いつもは大体もっとぐにゃんぐにゃんよね」
「今日はミョウジ送って帰るからちゃんとしとかないとな」
「キリッとしてるなあ」

 君がいるおかげだね、と来馬くんが私を見て優しく笑う。二宮くんは太刀川を横目で見ながら、普段からちゃんとしろ、とマジメなトーンで言う。そんなド正論も当の本人に効いている様子はない。
 そういえば、と思い出したように私に微笑みかける加古ちゃんの長い髪がさらりと揺れた。

「今日ふたりで図書館にいたでしょ」
「加古ちゃんもいたの?」
「いたわよ。あなたはともかく、太刀川くんがこんなところにいるなんて珍しいと思ってこっそり見てたの」
「えー、声かけてよ」
「デートの邪魔しちゃ悪いと思って」
「そんなんじゃないから。太刀川が必修の講義のレポート何にもしてなくて文献探しに連れ出してただけだから」
「そのあとケーキ屋も行っただろ」
「うん。太刀川が買ってくれた、ケーキ」
「やっぱりデートじゃない」
「間違いなくデートだよな」

 楽しそうに笑う加古ちゃんに太刀川が同調する。だから違うから。太刀川の単位のためだから。並べ立てる言い訳はすべて軽く流されて、相変わらず仲が良いわねと結論づけられた。そう言われるのは嬉しいけれど、なんだか腑に落ちないような。複雑な気持ちを抱えつつビールを飲み干す。その瞬間、急に頭が激しく痛んで、思わずギュッと目を閉じた。




 ゆっくりと目を開けたとき、視界に映ったのは見覚えのない天井だった。ひとつだけ言えるのは、ここは絶対に居酒屋ではないということ。窓から橙色の夕日が差し込んでいて、さっきまでの喧騒はどこにもなく、静かな空気が広がっている。いつものように起きあがろうとするとあちこちが痛んだから、気をつけながら慎重に体を起こしてみる。
 自分の姿やベッドの様子を見て、ここがどこなのか理解した。私、病院に運ばれたのか。そして同時に、さっきまでの光景はやはり夢だったのだと気づく。

「おはよう」

 反射的に声のほうへと顔を向ける。すぐそこに太刀川が座っていたから、まだ夢を見ているのかと思った。

「気分どうだ」
「…………」
「うん? なんて?」
「……ちょっとだけ頭が痛い」
「看護師さん呼ぶか」
「ちょっとだから大丈夫」

 ナースコールに手を伸ばそうとする太刀川を制止してから自分の頭に触れてみた。ぐるりと巻かれている包帯に手が触れる。

「無理せず寝てろよ」
「なんか……夢見てた」
「へえ、どんな」
「先月加古ちゃんたちと飲み会したときの夢」
「なんで?」
「なんでだろ」

 喋っているうちに意識がハッキリしてくる。それとともにだんだんと思い出してきた。
 突然大量のゲートが開いて近界民が流れこんできた。警戒区域から程近い場所にいた私は、避難している途中、今にも崩れ落ちそうな瓦礫の真下にいた小さな子どもを突き飛ばした。直後、瓦礫が自分の上に落ちてきた記憶がある。たぶんそのときに頭を怪我したんだろう。手当を受けている左腕も同じく。

「子どもが言ってたぞ、お前が助けてくれたって」
「助けたっていうか……本当は抱えて逃げようと思ったのに無理だったよ」
「そりゃそうだ。お前はもう生身の人間なんだから」
「無我夢中でつい飛び出しちゃった」
「気をつけてくれ、マジで」

 私がボーダーを辞めたのは数ヶ月前。今はただの一般市民だ。それなのに切羽詰まった状況に直面して、昔の癖でつい体が動いてしまった。わかっていたはずだった。だけど腕の包帯を見て改めて実感する。この体はもうトリオン体じゃないんだって。

「お前んちのあたりは大丈夫だと思って安心してたんだけどなー」
「う……あのときちょうど出掛けてて」
「軽い怪我だけで済んだのが救いだな。これアレだ、えーと、不幸中の幸い。……合ってる?」
「合ってるよ」
「頭打ってたから念のため検査もしたけど問題なかったらしいぞ。よかったな」
「うん。大ごとになっちゃってごめんね」
「べつに謝る必要ないだろ」

 所在なくベッドの上に置いていた私の手を、太刀川の手のひらが包む。少しかさついたその手は温かい。

「俺もごめん」
「え、なにが?」
「後処理と報告に時間かかって、来るの遅くなった。本当はすぐにでも来たかったんだが」
「そんなの全然いいよ。非常事態だったんだし、私もさっきまでずっと寝てたし」
「だとしても。悪かった」

 軽く返されると思っていたのに珍しく神妙な顔つきでマジメな声を出すから、思わず言葉に詰まってしまう。だけどそれは一瞬のことで、気づいたときにはいつものゆるっとした表情に戻っていた。

「いやあ、それにしても……」
「なにニヤニヤして」
「来てみたらヨダレ垂らして寝てたからホッとしたなーと」
「ヨダレ!?」
「まあヨダレはウソだけど」
「ちょっと! なんでそんなウソつくの!」
「はっはっは」

 さっきのは見間違いだったのかと思うくらい気の抜けた顔で笑うから、安心してひそかに胸を撫で下ろす。
 瓦礫が落ちてきたあのとき、私が考えていたのは太刀川のことだった。今この瞬間も近界民と戦っているんだろうな、とか。もし私が怪我をしたら心配させてしまうかも、とか。太刀川に悲しい思いをさせるのはすごく嫌だと思った。だからこうしていつもどおりなのを見ると安心する。

 私の手を握ってくれていた大きな手が離れていく。そのことに寂しさを感じたのは束の間で、すぐに太刀川の両手のひらが私の頬を挟んだ。至近距離で目と目が合う。親指で撫でられた目元がチリッと痛い。至るところに擦り傷ができているようだ。
 太刀川は、頬から離した手を今度は私の頭に伸ばした。包帯にそっと触れてから、頭のてっぺんをポンポンと何度も撫でる。かと思えば急に体を引き寄せられた。触れあっているところから呼吸や体温が伝わってくる。抱きしめる力はもっとさらに強くなる。苦しいくらいに。

「……病院に運ばれたって聞いたとき、心臓止まるかと思った」 

 すぐそばから落ちてくる切実な声。いつもどおりだと思ってた。そう見えていただけだった。心配をさせてしまったことに胸が痛む。今、どんな顔してるんだろう。気になるのに、腕の力が緩まる気配はなくて動けない。

「お前がいないとダメなんだよ、俺」

 私を揺さぶるその言葉が、二人きりの病室に溶けていく。あなたがいないとダメなのは私のほうだ。いつまでもずっとそばにいたい。そばにいてほしい。尽きない願いを心の中で唱えながら、大きくてあたたかな体を強く抱きしめた。


2021.12.12
第二次大規模侵攻後の話

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