「結婚すんだよ」
よく晴れた土曜日の昼間。人がまばらなカフェ。向かいの席に座る花井から突然放たれた言葉に、私は持っていたフォークを落としそうになった。
「ついにプロポーズしたの?」
「……まあ」
「返事は?」
「よろしくお願いします」
「おっ……めでとぉ〜!」
サンキュ、と照れたように笑う花井がなんだかいつもより男前に見える。これが幸せのパワーってやつだろうか。すごい。羨ましすぎる。
「ねーねー、何てプロポーズしたの?」
「そ……そんなんここで言えるわけねーだろ!」
「なによ照れちゃって」
「照れてねェ」
「そっかー花井が結婚かあ……。いいなあ」
「まだ先だけどな」
「でも羨ましいよー」
「……つーかさ」
「ん?」
「お前はどうなんだよ?」
チーズケーキへ伸ばそうとしていた手を無意識にピタリと止める。少し視線を泳がせてから静かにフォークを置き、グラスの半分ほどまで減った紅茶に口をつけた。
「別にどうもないよ」
「付き合って何年だっけ。長いよな」
「うん」
「結婚しねーの?」
「そりゃまあしたいけど」
「けど、何」
「悠一郎がそんなこと考えてると思う?」
高校時代からの付き合いであり共通の友人でもある花井は、うーん、と低く唸りながら難しい顔をする。だよね。私もそう思う。のん気に見えて実は考えてたりするんだろうか。いやでも今のところそんな気配を感じたことはない。この件についてこれ以上の話題提供をできない私は、まあなるようになるよ、と呟いて紅茶を飲みほした。
「……おーい」
聞き慣れたその声で、ゆらゆらしていた意識が戻ってきた。視線の先には不思議そうな顔をした悠一郎がいる。
「何ぼーっとしてんの?」
「し、してないよ」
「してただろー。ずっと手ェ止まってた」
「う……ごめん」
「別にいーよ」
昼間の花井とのやりとりを思い出してる間に意識がどこかに行ってしまっていたらしい。そうだ、今日は久しぶりに悠一郎と晩ごはんを食べることになって、うちで一緒に餃子を作ったんだった。冷蔵庫には彼が買ってきてくれたケーキが入っていて、食後の楽しみも万全となっている。
完全に止まってしまっていた手を再び動かして、いい具合に焦げ目のついた餃子を箸で掴む。どれが誰の作ったやつなのかは見ればわかる。悠一郎の包み方はなんて言うか、拙い。でも一緒に作ったことが嬉しいし、楽しいし、私はむしろ拙いほうの餃子ばかりを選んで食べている。
「一緒に晩飯食うの久しぶりだよな」
「お互い忙しかったもんね」
いつ以来だろう。記憶を探りながら、一緒に住んでいたらこんなこともないのだろうかとぼんやり思う。頭の中に、花井の言葉がまた蘇った。
――結婚しねーの?
結婚。そりゃあもちろんしたい。二人とももう立派な大人だし、付き合って随分経つわけだし。そして何より、私が一生一緒にいたいって思うのは、やっぱり悠一郎しかいないのだ。
寝るときも起きるときも隣にいる。休みの日はこうやって一緒にご飯を作ったりしたい。もしいつか子どもが産まれたら絶対みんなでキャッチボールするんだろうな。きっと喧嘩することもあるだろうけれど、そうやってなんてことない大切な毎日を過ごしていけたなら。
「したいなあ、結婚」
無意識に口から出てしまった言葉は、テレビも何もつけていないこの部屋にしっかりと響いた。自分で自分にびっくりする。言うつもりなんてなかった。頭の中で思っただけのつもりだったのに。恐る恐る前を見ると、目を丸くしたまま固まっている悠一郎と視線がぶつかった。
「……な」
「あ、いや、あの! あのね! 今のは間違えたっていうか、その」
「なんで先に言っちまうんだよー!」
今度は私の目が丸くなる。悠一郎は計画が潰れてなんだかんだと小さくぼやきながら、カバンの中からごそごそと何かを取り出した。イタズラをするときのような笑みに釘付けになってる間に、左手を優しくとられる。薬指に冷たい感触。そこへ視線を移すと、きらきらと輝くわっかがあった。
「オレから言おうと思ってたのになー」
「……え、これ」
「いろいろ考えてたんだぜ、渡し方とか」
指輪が光る私の左手を握ったまま、彼は小さく息をつく。その顔はとても真面目で、いつもと違う雰囲気に、無意識に背筋が伸びる。
「オレさ」
「うん」
「ナマエのこと、死ぬまでずっと好きだと思う。つーか絶対そう!」
うん。わかってる。昔から、悠一郎の言うことはいつだって本当だった。
「あのな」
「はい」
「大好きだから」
「……うん」
「オレと結婚してください」
ゆっくりとひとつまばたきをする。その間に、たくさんの記憶が私の中を通り抜けた。初めて出会った教室の温度も、好きだと言われた階段のにおいも、すべて思い出せる。どの季節にも悠一郎がいた。嬉しいときも寂しいときも隣で手を握ってくれた。きっとこれからもそうやって続いていくんだ。いくつ歳を重ねても、ずっと。
出会った頃と変わらない笑顔を見せる彼の姿が、目の前でじわりと滲む。
「それ嬉し泣き?」
そうだよバカ。私の憎まれ口は、抱きしめられて宙に消えた。
(2021年再録)