手に持った小さな紙袋に目をやって、ため息を吐いた。緊張している。たぶんここ最近で一番。今日はバレンタインデーで、私はこのチョコレートを好きな人に渡すというミッションを自分に課している。
 耳にした情報によると、彼は今日、本部に来ているはず。呼び出して渡す、それだけだ。それだけなのに、なぜこんなにも心臓が痛くなるんだろう。スマートフォンを取り出してはしまい、また取り出してはしまう。この動きもさっきから何度くり返したことか。怪しまれないよう人気のない廊下でうろうろと歩きながら、なかなか覚悟を決めきれずにいる。このまま家に持ち帰ったって仕方ない。よし、がんばれ、私。意を決してスマートフォンを取り出す。遊真くんの名前を呼び出して、メッセージを送った。



「ナマエ、こっちこっち」

 ラウンジの隅、手を振る遊真くんのもとへ駆け寄る。彼を呼び出すために、今なにしてるかメッセージで訊ねたのが数分前。すぐに「ラウンジにいるけど来る?」と返ってきたので、全速力で飛んできて今に至る。
 夕方のラウンジにはたくさんの人がいて、飲み物を手に談笑していたり、ひとりでタブレットを見ていたり。入口付近は賑やかだけど、奥に行くほど人は少なくなり、私たちのまわりには比較的静かな空気が流れている。本当はもっと人のいないところに呼び出したかったけれど仕方ない。目立ちにくいこの席なら、なんとかここでも渡せそうな気はする。もしくはこのあと違う場所へ移動するか。ぐるぐると考えながらも、どうぞと促されて向かいの席に腰を下ろした。

「急にごめん」
「だいじょぶだよ。なんかあった?」
「うん。ちょっと待ってね、心の準備が」
「ふむ?」
「あとで言うから気にしないで」
「まあいいか。おれもちょうど聞きたいことあったし」

 聞きたいこと。って、なんだろう。自分の用事そっちのけでそれが気になり始めたとき、私たちの近くを女の子二人組が通りかかった。

「えっ、先輩にチョコ渡したんだ!?」

 唐突に耳に飛びこんできた声。おそらく、いや確実に遊真くんにも聞こえている。彼女たちはひそひそと話をしていたつもりが、興奮のあまり思わず大きな声が出たようだ。お互いにシーッと人差し指を立て合いながらまた小声に戻ったから、そのあとの会話はもう聞こえなくなってしまった。
 楽しそうに通り過ぎていく二人の様子を眺めていた遊真くんの目が、私のほうへと向き直る。

「バレンタインだな」
「バレンタインだね」
「ナマエは誰にチョコあげるの?」

 あまりにもストレートな問いかけに、かなりたじろいだ。

「……あ、さっき言ってた聞きたいことって」
「そのとおり」

 まさか遊真くんからそんなことを聞かれると思っていなかったから焦る。いきなりなにを聞くんだ、渡し方とかも一応考えてたのにどうしよう、といろんな感情が入り乱れて、なんだかすごく汗が出てきた。だけど、今ここで渡せなければ、きっともう渡すチャンスはない。どんどん大きくなる心臓の音。少しでも落ち着くように何度か深呼吸して、膝の上で大切に抱えていたものを差し出した。

「これ、遊真くんに」
「おれに?」
「バレンタインのチョコ。もらってくれる?」

 声が震えそうになった。数回まばたきをした遊真くんが、テーブルの上の紙袋をそっと手に取ってまじまじと見つめる。

「ありがとう。そーか、おれにくれるのか」

 うれしいな。そう言って朗らかに笑うから、胸がときめいた。準備してよかった。ちゃんと渡せて、受け取ってもらえてよかった。こちらこそありがとうという気持ちでいっぱいになって、緊張が少しずつとけていく。

「今食べてもいい?」
「どうぞどうぞ」
「なんか開けるのもったいないな」
「なんで、もったいなくないよ」
「……そういえば。もういっこ聞きたいことがあった」
「ん?」
「これもらえるのはおれだけ?」

 まっすぐに届く視線と疑問を受けとめる。バレンタインのチョコレートに込める思いは人それぞれだけど、私のそれは少しの疑いもなく本命だし、他の誰にも渡していない。特別なんだということをちゃんと伝えなければ。手招きして遊真くんを呼び、体を乗り出した彼の耳元に口を寄せる。

「遊真くんにしかあげてないよ」

 こっそりとそう告げた。驚いてまるくなった瞳を見て、なんだか思いがけず一矢報いたような気持ちになる。じっとこちらを見ていた遊真くんがちょいちょいと手招きをするから、今度は私が顔を近づけると、耳元で囁くような声がした。

「おれも、ナマエのやつしか欲しくないよ」

 見事に返り討ち。満足そうに笑っている遊真くんを見て、私はただただ顔を熱くするしかなかった。


2021.2.14

- ナノ -