ピークの時間を過ぎた食堂は人がまばらだった。奥のほうにある四人席を贅沢にひとりで使い、遅めの昼ごはんを食べる。たまに聞こえる、内容まではわからない誰かの話し声。静かとも騒がしいとも言いがたい空間。

「おー、いたいた」

 そんな空気を破って、諏訪さんがまっすぐこちらに向かって歩いてきた。私の向かいに座り、どん、と重そうな紙袋を隣のイスに置く。

「こないだ言ってた本持ってきた」
「ありがとうございます。早めに返しますね」
「いつでもいいぞ」

 諏訪さんは手に持っていたコーヒーを飲みながら、食べかけの炒飯をじっと見つめている。お腹空いてるんだろうか。一口いりますか?と聞いてみたら、いらねえと即答された。おいしいのに、A級きまぐれ炒飯。

「そういや昨日外でおまえ見かけたわ」
「え、ほんとですか。いつ?」
「夕方。スーパーで」
「ああー」
「迅に大荷物持たせてただろ」
「人聞き悪いなあ。迅くんのほうから手伝いを申し出てくれたんですよ」
「相変わらず仲良いな、おまえら」

 仲が良い。たしかにそうかもしれない。だけど、まわりからそんなふうに言われるのは、なんだか少しこそばゆくもある。

「高校のときいつもノート貸してあげてた仲ですから」
「そーなんだ」
「そーなんだって。諏訪さんも同じ高校だったじゃないですか〜」
「同じっつっても学年違うし一年しか被ってねえし」
「まあとにかく、そういうわけなので。迅くんは私に頭が上がらないんです」
「それはお互い様だろ」

 私と諏訪さんの会話に割って入るように、背後から聞こえた声。振り向くと、迅くんが立っていた。

「どうも、諏訪さん」
「おう。迅がこっちに顔出すの珍しいな」
「まあちょっと野暮用で」
「ちょっと迅くん、お互い様ってなに?」
「おれもミョウジが防衛任務入ってるときはノート貸してたよ」
「私のほうが倍くらい貸してた」
「そりゃ仕方ない。実力派エリートは忙しいからな〜」
「くっ……事実なのが腹立つ」
「目の前でじゃれ合うんじゃねーよ」

 呆れた顔でコーヒーを飲み干した諏訪さんは、ミーティングがあるからと言ってさっさと立ち去ってしまった。食堂はいつのまにか先ほどまでよりさらに人が少なくなっていた。諏訪さんがいなくなって空いた向かいの席に、今度は迅くんが腰を下ろして、私はあと少しでなくなる炒飯を黙々と食べ進める。

「で?」

 問いかけるような声に顔を上げると、頬杖をついた迅くんが穏やかな表情で私を見つめていた。

「なんかあった?」
「……なんで?」
「なんとなく。顔見てそうかなって」

 態度に出てしまっていたのだろうか。それはよくない。心の中で反省していたら、おれ以外は気づいてないと思うけど、と付け足された。迅くんって、未来だけでなく人の心まで見えてしまうの? 疑いの眼差しを向ける私の気持ちをわかっているのかいないのか、彼はやわらかく口元を緩めた。

「ま、おれの気のせいならそのほうがいいけどね」

 私は、迅くんのこの顔に弱い。優しい声色にも。自分の中にある見えない扉を、音もなくそっと開けられるような感覚になる。

「……なんかあったけど、もう忘れた」
「早いな、忘れるの」
「うん。迅くんが一緒にいてくれるから」

 思い出してみる。今まで悩んだり、落ち込んだり、めげそうになったときのこと。そういうときは、いつも必ず迅くんがどこからともなく現れてそばにいてくれた。なにも話さずただ静かに過ごしたり、なんでもない話をしたりするうちに気持ちが楽になっていた。今もそうだ。
 そばにいてくれるだけで救われる。誰でもいいわけじゃない。これってやっぱり、私にとって彼が特別ってことなんだろう。たぶんきっと。

「そーかそーか。実力派エリートは癒し能力も一流ってことだな」
「うんはいはいそうだね〜」
「うわあ……すごいテキトーな相づち」
「そんなことないよ、マジメだよ」
 
 目を伏せて笑う姿を見ながら思う。迅くんはどうなんだろう。ただ、そばにいてくれるだけでいい。そんなふうに思う相手っているのだろうか。いたとしたら、どんな人なのだろうか。それがやけに気になってしまって仕方なかった。



 その日を最後に、迅くんの姿をぱったりと見かけなくなった。玉狛支部所属である彼はもともとあまり本部に顔を出すほうではなかったけれど、それにしたって会わない。今までは基地の中で会ったり、外で会ったり、それなりに生存確認ができていたのに。また裏で暗躍しているんだろうか。ただのいち隊員である私に、それを知る術はない。危ないことしてませんように。そう祈ることしか、できない。
 ひとりきりの作戦室でログを見る。見ている間は忘れられるけれど、ふとした合間にまた思い出して心配が顔を覗かせる。こんなんじゃダメだ。もっとしっかりしなければ。お茶を入れ直そうと思ったところで、コタツの上に置いているスマートフォンが震えた。表示された迅悠一という名前を見て、頭の中が一瞬で真っ白くなるのを感じる。メッセージを見ると、開けて、という短い一文。開けてって……なにを? ほんの少し考えて、ハッとひとつの答えに思い当たった。急いで作戦室の入口に向かってドアを開く。やっぱりいた。

「よーう。久しぶり」

 久しぶりと言いながら、昨日会ったばかりのような雰囲気で横をすり抜けていくからなんだか気が抜けてしまう。一応お客さまなのでお茶とおやつを用意していると、その間に彼はコタツに入ってすっかりくつろいでいた。

「コタツいいよなあ」
「どらやき食べる?」
「サンキュ。お、これ宇佐美もたまに買ってくるやつ」
「おいしいよね」
「うん」

 テレビも音楽もなにもついていない部屋の中で、時間が静かに流れていく。私は少しずつどらやきを食べ進めながら、すでに食べ終えてお茶を飲んでいる迅くんの横顔をじっと見つめた。
 いつもどおりにも見える。だけどなんかちょっと、違う気がする。

「今日ほかのみんなは?」
「非番だから来てないよ。私は見たいログがあって寄ったけど」
「そーか」
「……あのさ、迅くん」
「ん?」
「なんかあった?」

 湯呑みを持っていた手が止まった。それは口にたどり着くことなくコタツの上へと戻されて、迅くんの目が私に向けられる。

「……なんで?」
「なんとなく。顔見てそうかなって」

 一瞬マジメな顔をした彼の表情はすぐに和らいで、そして見えなくなった。腕で顔を覆い隠すようにコタツに突っ伏してしまったからだ。否定も肯定もせず、その体勢のまま動かない。
 迅くんにはきっと、話せないことがたくさんある。無理に話してほしいとも思わない。だけど、もし聞いてほしいことがあるのならいくらだって聞く。いつも私にそうしてくれているように。
 突っ伏したままの彼の後頭部を見ていたら、反射的に頭を撫でそうになった。けれど、触れてしまう前に手を止めた。さすがに同い年の男の子の頭を撫でるのはダメだろうか。宙に浮いた手を引っ込めようとしたけれど、その前に迅くんに掴まれてしまって叶わなかった。握ったままの手をそっと下ろされる。優しく絡む指がひんやりと冷たい。

「頼みがあるんだけど」
「なに?」
「なんか喋って」
「え、なんかって何を」
「なんでもいいよ。ミョウジの話聞きたい」

 急にそう振られて頭をフル回転させるけどおもしろい話が浮かばない。仕方ないので普通の話をした。本当に普通すぎる話を。隊のみんなでお好み焼きかげうらに行ったとか、冬島さんに麻雀を教えてもらったとか、ずっと売り切れてたチョコレートケーキをやっと買えたとか、そういうの。迅くんはそれを聞きながら、うん、へえ、と相づちを打ったり、ときどき笑ったり。

「……こんなのでいいの? 私の日常を喋ってるだけなんだけど」
「いいんだよ」

 ゆっくりと起き上がってようやく顔を見せてくれた迅くんが、私に向き合って微笑む。

「そばにいてくれるだけでいい」

 たしかに笑っているはずなのに、どこか切なさを感じてしまうのはなぜだろう。いつのまにか迅くんの指はじんわりとあたたかくなっていて、それがなんだかすごく嬉しかった。


2021.1.31

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