守備の途中でベンチに戻った悠一郎は、次に出てきたとき、たくさんの防具を着けていた。昔から試合の応援には何度も行っている。だけど、キャッチャーとしてホームから指示を出す姿を見たのはこの日が初めてだった。


 ケータイとにらめっこをしながら、文字を打っては消し、打っては消し。西浦と美丞大狭山の試合が終わったあと、そんなことをずっと繰り返している。なにか声をかけたいけれど、どんな言葉にすればいいのかなかなか見つからない。
 高校球児にとって、夏はたぶん特別だ。彼の夏は今日終わった。今、なにをしているだろう。なにを思っているんだろう。
 ベッドの上で正座をしてケータイを持ったまま考えこんでいると、おーい、とどこからか声が聞こえた。私の名前を呼んでいる。網戸を開けて窓から外を覗くと、悠一郎が私の部屋を見上げていて一瞬目を疑った。疲れているだろうに、こんなところでなにをしているのか。

「花火しよーぜ!」

 花火セットが入ったビニール袋を持ち上げて笑っている。本当に、なにをしているんだ。だけど顔を見られたのが嬉しくて、そんなことはもうどうでもよくなってしまった。





 私の家の前だと車も通るし、花火を楽しむには少し狭いから、悠一郎の家まで移動することにした。移動といっても歩いて数十秒だ。到着した田島家の敷地は相変わらず広々としていた。みんなリビングでテレビでも見ているのか、大きな窓に面した廊下の電気は消えていて人の気配を感じない。
 悠一郎が水の入ったバケツを置き、花火の袋を開ける。私も頼まれていたチャッカマンと、頼まれていないけどついでに持ってきた虫除けスプレーを取り出した。

「虫除けスプレーする?」
「する!」
「じゃあ腕だして」

 腕と足にしっかり虫除けスプレーをしてから、さっそく花火を手に取る。悠一郎が火をつけてくれた花火が、夜の静けさと真っ暗だった視界を明るく照らした。私の手元から火をお裾分けして、悠一郎の持つ花火も勢いよく燃え始める。

「今年初めての花火だ」
「オレも」
「去年も一緒にやったね」
「おととしもその前もな」

 今年も一緒にできてよかった。眩しく光る花火を見ながら思う。もう高校生だし、学校も離ればなれになったし、彼はますます忙しそうだし。今年は無理なのかもしれないと思っていたから。こうして二人で過ごせる幸せを噛みしめる。
 両手に花火を持って贅沢に楽しんでいると、「今日さ」と悠一郎が隣で呟いた。

「応援来てくれてありがとな」
「うん。西浦の生徒ですみたいな顔してスタンドに混ざってたよ」
「知ってる、見てた」
「見えたの!?」
「オレ目ェいーもん」

 まさか見られていたとは思わずちょっと恥ずかしくなる。家族とか生徒とか、西浦高校の関係者ばかりであろうスタンドに他校の自分が混ざるのはすごく緊張した。試合が始まってしまえば、そんなことを気にする暇はまったくなかったけれども。

「キャッチャーの人、ケガひどいの?」
「膝のネンザだって」
「痛そう……」
「だよな。新人戦はたぶん無理そー」
「そしたらまた悠一郎がキャッチャー?」
「だと思う」
「そっか」

 顔もわからない正捕手の彼へ、早く治りますようにと祈りを送った。試合が中断したときの球場のざわついた空気は今でもすぐに思い出せる。照りつける日差しの暑さや、トランペットと太鼓の音、見慣れない悠一郎の姿も。

「悠一郎さ、意外とキャッチャー似合ってたね」
「だろー!」
「かっこよかったよ」
「負けちゃったけどな」
「それでもホントにかっこよかった」

 これは気遣いでもなんでもなく本心だ。野球をしている悠一郎はいつもかっこいい。今日だってそうだった。サードにいてもキャッチャーをやっていても打席に立っていても。力を込めて断言する私を見て、悠一郎はサンキュ、と笑った。
 そのやりとりのあとは、なんとなくお互いに口を閉じたまま花火に没頭していた。パチパチと光の飛び散る音だけが耳に響く。こうしていると無になれるというか、いろんな考えごとで埋め尽くされた頭の中がまっさらになるような気がする。そんな時間がしばらく続いた頃、花火をじっと見つめたまま黙りこんでいる横顔をちらりと盗み見てから、私は勢いよく立ち上がった。

「ねえ、なんて書いてるか当ててみて」

 危なくないようにしっかりと距離をとってから、手に持った花火を大きく動かしていく。花火の光が文字になる。書き始めてすぐ、ハイ!と元気よく手があがった。

「オレの名前!」
「はやっ! まだ二文字だよ、"たじ"しか書いてないよ」
「そこまで見ればわかるって」
「じゃあこれは?」
「んー……ハイ! にしうらこうこう!」
「ピンポーン。んじゃ次はね」

 少し考えてから、花火をゆっくりと動かす。今度の答えは二文字だからすぐに書き終わった。"すき"という、たったの二文字。
 二人分の花火が消える。静寂が広がる。水の張ったバケツに花火を入れると、小さく火の消える音がする。悠一郎が駆け寄ってきたことに気づいたときには、声を発する暇もなく抱きしめられていた。

「オレも。大好き」

 首元に顔をうずめられると、お風呂上がりのやわらかいにおいが鼻をくすぐる。肌と肌がぴったりと触れ合ってとても暑い。暑いけれど、離れる気にならない。

「なんかすげー元気でた」
「ほんと?」
「うん。いつもありがとな」

 ありがとうを言いたいのはこちらのほうだ。もしも私が元気をあげられるのなら、なにかあったときはすぐに呼んでほしい。なにもなくても呼んでほしい。彼にはいつだって笑顔でいてほしいから。
 そんな願いをこめて、細いけれど強く頼もしい体を思いっきり抱きしめ返した。星がきれいな夜のことだった。


2020.11.29

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