汗が流れるのも気にせず走った。この電車に乗れるか乗れないかで私の運命は決まる。というのはかなり言い過ぎだけど、一刻も早く家に帰ってクーラーのきいた部屋でアイスを食べたい、そんなだらけた気持ちを抱えて私は走った。そして息を切らしながらホームに降り立った、のだけど。

「あー! ちょっと待って……」

 独り言をこぼしながらガックリとうなだれる。乗りたかった電車は、ガタンガタンと大きな音を立てて目の前で出発してしまった。この暑い中がんばって走ったのに、神様ひどい。今まで忘れていた疲労と暑さが急激に押し寄せてくる。むわっとまとわりつく空気は息苦しさを感じるほどだ。乗り口付近は日差しが直撃するから影になるところで次を待つことにした。次の電車、今すぐ来てくれないだろうか。

「ミョウジ?」

 汗でおでこに張りついた前髪を直しつつ振り向くと、こちらに歩いてくるクラスメイトの姿が見えて、驚きのあまり声がひっくり返りそうになった。

「たっ……田島くん」
「やっぱり。こんなとこで会うなんてびっくりした!」

 教室でいつも聞いているのと同じ明るい声でそう言って、彼は私の右隣に並んだ。田島くんは同じクラスで、私の席のひとつ前に座っている男の子。私の心を掴んで離さない男の子。

「今なんか落ち込んでた?」
「乗りたかった電車にギリギリ間に合わなくて」
「あーそりゃガッカリだな」

 眉を下げてシュンとしながら共感してくれている。ついさっきまで私もそう思っていたけれど、災難は一瞬にして幸運へと姿を変えてしまった。田島くんに会えたから。こんなラッキーが起こっていいんだろうか。神様、さっきはひどいとか言ってごめんなさい。次の電車は当分来なくていいです。
 夕日が差し込むホームには、私たち以外に誰もいないように見えた。ふたりきり。のようなもの。それを意識した瞬間、心臓の音が何倍にもなった気がする。体の右半身がとても緊張している。こめかみから汗が流れるのがわかるけれど拭えない。ちょっと動いたら肩が触れてしまいそうだ。ちらりと隣を盗み見ると、ヒマワリみたいな笑顔が返ってきて目眩がした。

「ミョウジは家に帰るとこ?」
「うん。さっきまで部活で」
「そーか、お疲れ!」
「田島くんこそ毎日お疲れさま」
「サンキュ」
「駅にいるの珍しいよね。どこか行くの?」
「イトコんとこ。みんな先に行ってて、オレは練習終わってから来いって言われてんの」

 そうなんだ、と相槌を打っていると、背中側から温度の高い風が吹きつけてくる。反対のホームに電車が到着した。ちらほらと数人降りてきて、改札に続く階段へと足早に消えていく。電車が走り去ると、すぐにまた静けさが戻ってきた。

「なんか喋るの久しぶりな気がするな」
「夏休みの前は教室で毎日会ってたのにね」
「だよなー、ちょっと会わないだけで懐かしい感じする」

 そう、下手すれば始業式まで会えない可能性もあったのだ。野球部の練習を覗いたりすれば遠くから姿を見るくらいはできるけれど、こうして話ができる機会なんて夏休み中はそうそうない。それを考えれば、今日ここで偶然会えたのは本当にラッキーだったと改めて思う。
 しみじみと幸運に感謝する私を現実に引き戻すように、聞きたくなかったアナウンスがついに響いてしまった。まもなく電車が参ります。一生来なくてもよかったのに。
 スピードを落としながらホームに入ってきた電車が目の前でゆっくりと止まった。田島くんの目的地がどの駅かはわからないけれど、電車に乗ってしまえばお別れの時間はすぐだ。とても名残惜しいけれど行かなければならない。開いたドアに重い足取りで近づく私と、その場から動かない田島くん。不思議に思って声をかける。

「乗らないの?」
「オレ反対の電車」
「あ、そうなんだ……え?」

 じゃあなぜ一緒に並んでいたのか。反対のホームに電車が来たときに乗らなかったのか。訊きたいことはいくつもあった。だけどうまく言葉にならなくて、もうすぐドアが閉まるというアナウンスを聞いて慌てて電車に乗り込む。
 振り向けば、ホームから真っ直ぐな視線を向けられていた。その目を見つめ返して、汗ばんだ手のひらを握りしめる。真面目な顔をした田島くんが口を開いた。

「あのさ、ごめんな」
「え、なんで、なにが?」
「ラッキーって思っちゃったんだよな、オレ。ミョウジがさっきの電車に乗り遅れてくれて」
「うん……ん?」
「会えてスゲー嬉しかった」

 訊きたいことがまた増えた。だけど電車のドアは、無情にも私と彼を隔てていく。完全に閉じてしまう間際、今日一番の元気な声が聞こえた。

「またなー!」

 ねえ田島くん。私、ほんのちょっとくらいは自惚れてもいいのかな。手を振る彼のキラキラと眩しい笑顔。私の中には、熱い熱い風が吹いていた。


2020.8.14

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