どうやら彼はすごい人らしい。それを初めて知ったのは中一のとき、野球の強豪校にスカウトされたという話を聞いたからだった。
 彼──御幸とは小学校と中学校が同じで、クラスが別になったのは小学校三、四年のとき一度だけ。昔から不思議な縁を感じていたとはいえ、まさか件の強豪校に行ってしまった御幸と付き合うことになるとは思ってもみなかった。こんなに彼を好きになるなんてことも。人生ってどうなるかわからないものだ。
 立ち寄った本屋で買った野球雑誌を開く。そこに写る御幸は、私の知っている御幸じゃないようだった。会えばそんなことないってわかるのに、写真で見たり話で聞いたりする彼は、どうにも遠い存在に思えてしまう。枕元に置いていたスマホが震えたから手に取ると、今ちょうど雑誌で見ていた人の名前が画面に表示されていた。

「はいはいー」
「お、まだ起きてたか」
「起きてたよ。どうしたの?」
「あのさー……今度こっち来る用とかあったりする?」
「……なんで?」
「実家に大事なプリント忘れちまったみたいなんだよ。もしついでがあるなら」
「届けてほしいと」
「ダメ?」

 首を傾げる御幸の姿が浮かぶ。そうやって探るような声で言いながらも、私が断れないことをきっとわかっているんだ。この男は。

「いいよ」
「え、マジで?」
「マジで」
「駄目元でも言ってみるもんだな」
「ちょうどそっち行く用事あるし。ついでに持ってくね」

 盛大に感謝の言葉を述べられたあとで、少しだけ近況やとりとめのない話をしてから電話を切った。枕に顔を押しつけて目を閉じる。
 さっき、ひとつ嘘をついた。用事なんて本当はない。御幸に会いたい。それが私を動かす、ただひとつの理由。



 道端の名前もわからない草花に目をやりながら歩いていると、青道高校のグラウンドが見えてきた。試合の応援で球場には行ったことがあるけれど、ここに来るのは初めてだ。遠巻きに眺めてみたら、グラウンドにはたくさんの野球部員らしき姿があった。それ以外の場所でもあちこちでバットを振る姿が見える。自主練中だろうか。青道には室内練習場があるらしいから、そちらにもきっと何人もの部員がいるのだろう。やはり強豪校はすごい。
 何時頃に着くか事前に伝えていたけれど、待ち合わせ場所の土手に御幸の姿はなかった。スマホを取り出してみる。着信もメールもなし。自主練に夢中になって約束を忘れていたらどうしよう。まさかこんなところにプリントを置いていくわけにいかないし、これ以上グラウンドに近づくのはちょっと怖い。困った。電話してみようか悩みながらスマホと睨めっこしていると、ふいに人の気配を感じて顔を上げた。

「悪ィ、待った?」

 御幸だった。三日ぶりに会ったような気軽さでひらりと手を振る。実際には数ヶ月ぶりだ。いくら慣れ親しんだ相手とはいえ、久しぶりに会うと肩に力が入ってしまうもので、私はほんの少し緊張しながら例のプリントを差し出した。

「待ってないよ、はいプリント。御幸のお父さんから預かってきた」
「いやーありがとな。助かったわ」
「御幸、私の好きなアイス覚えてる?」
「わかったわかった、お礼に今度帰るとき買ってくから一緒に食おうぜ」
「やったね」

 話しているうちに緊張は解けてきた。そうすると今度は、触れられる距離に御幸がいる嬉しさがふつふつと湧いてくる。私をまっすぐ見つめて目を逸らさない御幸も心なしか嬉しそうに見えて、ますます舞い上がってしまう。そうやって浮かれていたせいか、いつのまにか近づいてきていた人影にまったく気づかなかった。

「キャップが女性と密会を!?」

 突然の大きな声に驚いて振り向くと、私以上に驚いた顔をした男の子が立っていた。スポーツタオルを握りしめた手はわなわなと震えているように見える。その少し後ろには、無言で目を丸くする背の高い男の子もいる。
 この二人は、ピッチャーの。サウスポーと豪速球の。そうだ、沢村くんと降谷くん。戸惑ったまま隣を見ると、御幸は後ろ髪に手をやりながらバツが悪そうにしていた。見つかったか、と小さく呟く。

「……キャップって呼ばれてるんだ」
「そんな呼び方すんのアイツだけ」

 どこからか大きな足音が近づいてきたと思ったら、立ちつくすピッチャーたちを押しのけて、また新たな人物が現れた。この二人も見たことがある。試合の記憶をたぐり寄せていると、坊主頭の人が大きな声で笑いながら御幸の背中をバシッと叩いた。この豪快な人はたしか、ファーストの前園くん。

「何をコソコソやっとんねん、御幸! 紹介せえよ!」
「噂の彼女だろ。誰も姿を見たことねぇ幻の」
「なんだよそれ。つーかお前ら来なくていいから、あっち行って」
「なんや、照れとんのか?」
「ヒャハハ! 珍しいモン見れたな」
「うるせえなー、もう」

 前園くんと一緒に現れたもう一人は、ポジションはショートで間違いないはずだけど名前が出てこない。気になりながら、賑やかな彼らに目をやった。からかうネタを見つけてご機嫌な仲間に囲まれて、御幸は眉をハの字にして困っている。だけど彼らの間にある雰囲気の良さは傍から見てもよくわかった。元気にやってるみたいで、よかった。安心してしみじみと胸を撫で下ろす。

「あの、じゃあ私はこのへんで……」

 楽しそうな空気を邪魔するのも申し訳ない気がして、小声でそう言って静かに立ち去ろうとすると、すかさずショートの人が駆け寄ってきた。まさか気づかれると思わなかったから、よく見ているんだなと密かに感心してしまう。

「もう帰るんスか?」
「帰ります。練習中にお邪魔しました」
「ぜひまた試合も観にきてくださいね」

 親指を立てて笑う姿を見て直感的に思う。いい人だ。ちょっと顔は怖いけどきっといい人。名前がわからないことが申し訳なくて再び記憶を探る。もう少しで思い出せそうなのに、あと一歩のところで出てこない。

「御幸、彼女帰るってよ!」

 よく通る声にみんなの視線が集まる。目が合った御幸に小さく手を振って帰ろうとすると、すぐに私のところまでやってきた。

「待てよ。駅まで送る」
「練習いいの?」
「自主練だから大丈夫だよ。戻ってからまたやるし」

 背中を押されて歩きだす。お気をつけて、ごゆっくり、と後ろから野球部の人たちの声が飛んできたから振り返りながら頭を下げると、背中を押す力が強くなる。なぜそんなに急いでいるんだろう。一刻も早くこの場を離れたいようだ。恥ずかしいのだろうか。
 グラウンドが完全に見えなくなったあたりで、背中を押していた手が離れた。後ろを歩いていた御幸が隣に並ぶ。やれやれとため息をつく顔を見上げた。

「噂の彼女だって」
「あー、お前って試合観にきても俺に顔見せねぇだろ。会ってみたいってアイツらずっとうるさかったんだよ」
「私のこと話したりするの?」
「まあ、たまにな」
「なんて?」
「地元にすげえかわいい彼女がいるって」
「嘘くさ〜」
「なんでだよ。ホントだって」

 にやりと緩んだその口元が余計に怪しい。胡散くさい笑みを貼りつけた御幸を適当にあしらっていると、さっきからずっと気になっていたことの答えが突然降りてきた。

「ああ!」
「うわ、びっくりした。なんだよ」
「思い出した」
「なにを?」
「名前。一番ショートの倉持くん」
「ああ、なんかさっき喋ってたな」
「試合以外で見たの初めてだけど爽やかな人だね」
「はっはっはっ」
「え、なんで笑うの」
「いやいや別に」

 倉持くん。そういえば御幸からもよく名前を聞く気がする。仲良いんだろうか。そう考え始めると無性に気になって、倉持くんについての質問を次々と投げかけてみた。クラスも一緒なのか。出身はどこなのか。なんであんなにめちゃくちゃ足が速いのか。最初は普通に答えてくれていた御幸だけど、だんだんと表情が曇ってきた。不思議に思って顔を覗きこむと、拗ねたような目で私を見下ろす。

「気になる?」
「なにが?」
「倉持」
「うん」
「ふーん」
「だって御幸のチームメイトだし」

 眼鏡の向こうで鋭く細められていた目がパッチリと開いた。その意味を噛みくだくように、まばたきを繰り返す。

「俺のチームメイトだから気になんの?」
「うん」
「理由そんだけ?」
「そうだけど」
「へえー」

 安心した顔を、隠しているつもりなんだろうけど隠せていない。珍しくかわいいところを見てしまった。そんなことをこっそりと思っているのが私も顔に出ていたらしく、なにニヤニヤしてんだ、と小突かれた。グーパンチで反撃したら大げさにその場所を押さえて痛がる。その割に顔はやたらと嬉しそうで、私も一緒になって笑ってしまった。バカみたいに楽しい。
 駅はもうすぐそこだ。人通りのない場所で、どちらからともなく足を止めた。黙って向かい合うと実感が少しずつ湧いてくる。もうここでお別れなんだという実感。駅がもっともっと、どこまでも遠かったらよかったのに。

「家まで送っていけなくてごめんな」
「そんなの全然いいよ」
「来てくれてありがと」
「いえいえ。なんか今日は素直だね」
「うん……」
「ていうか早く練習に戻らないと」
「電車あと何分?」
「えーと……十分くらいかな」
「じゃあ来るまでいる」

 静かにそう言って私との距離を詰めた。なんとなく御幸の様子がいつもと違う、ような気がする。どこがとはうまく言えないけれど。つられて私までソワソワしていると、さりげない仕草で手を握られて、ますます落ち着かなくなった。照れくさくて逃げだそうと頑張ってみる。しかし、離してくれるつもりはなさそうだ。

「手あったかいな」
「あんま見ないで。恥ずかしいから」
「なんで? 俺もっと近くで見たいんだけど」
「絶対面白がってるでしょ!」

 怒る私を見て喉の奥で笑いながら、撫でるように優しく指を絡めとっていく。前髪が触れあうくらいに顔が近づいてくる。慣れない雰囲気にクラクラして、呼吸を忘れそうだ。
 こんなふうにしていたら、離れづらくなってしまうからダメなのに。少し高い位置から聞こえる穏やかな声。私の話に頷いて笑いかけてくれる目元。御幸のつくりだす全部が心地よくて、ひとりきりで乗る電車の寂しさを加速させる。彼はそのことを知らないのだろうか。

「なに。どうした?」

 睨むように見つめてみたけど、甘ったるい視線を返されて何も言えなくなった。なんでもないと首を振って口をつぐむ。帰りたくないと駄々をこねられるほど子どもじゃないし、物分かり良く手を振れるほど大人でもない。どうすればいいのか迷いながら目を伏せると、私の手を握る力が少し強くなった。

「前会ったのいつだっけ。長いこと会えてなかったよな」
「そうだね。間空いたよね」
「寂しかった?」
「それはまあ……」
「本当のこと言って」
「……寂しかったよ、ものすごく」
「俺も。すげぇ寂しかったし会いたかった」

 風に乱された私の髪を、御幸が空いているほうの手でかき分ける。かたい指先。マメだらけの手のひら。胸が苦しくなる。

「御幸がそういうこと言うの珍しい」
「たまに会ったときくらいちゃんと言わねぇとなと思って。寂しい思いばっかさせてるし」

 寂しい思いは確かにある。会いたいときに会えないし、いつだって御幸は野球第一だ。だけどそういうところも全部引っくるめて御幸を好きになった。だから、彼が申し訳なく感じる必要なんてひとつもないんだ。

「大丈夫だよ。野球してる御幸好きだし」
「いいから言わせろよ。つーかお前ももっと言ってくれよ、やりたいこととか思ってることとか何でもいいから」
「でも、言ったら困らせるかもしれないよ」
「困んねぇよ」
「野球の邪魔にならない?」
「なるわけねーだろ。お前そんなこと思ってたの?」

 その柔らかい声が、眼差しが、本当に好きで好きで仕方ない。なんでも受けとめてくれそうな安心感。気持ちがどんどん込み上げる。言葉のブレーキが音もなく壊れていく。力を込めて、私よりもずっと大きな手を握り返した。

「わかった。じゃあ言うね」
「よし来い」
「好き」
「……は」
「本当はもっと一緒にいたい」

 ポカンと口を開けたまま放心していた御幸の耳が赤く染まる。たぶん、私の耳も。勝手に口からこぼれた言葉だから、自分で言っておきながら今さら恥ずかしくなってきた。だけど目の前の御幸が動揺を隠せずに、口元を手で覆ってしどろもどろになっている姿を見ていると、なんだか不思議と余裕が生まれてくる。

「……お前さぁ……」
「なに? 御幸が何でも言えって言ったんじゃん」
「なんでキレてんだ。まあ、でもそうだな。俺が言ったもんな。敵わねぇわ、ほんと」

 俯いて大きく息を吐いた御幸が顔を上げたときにはもう、動揺の色はすっかり消え去っていた。今そこにあるのは、底なしに優しい微笑み。見とれていると急に腕を引かれて、油断していた私は勢いよく前に傾く。倒れこんだ体は軽々と抱きとめられ、顎に手を添えて上を向かされた。息つく暇もなく重なった唇が、そのまま耳元に寄せられる。

「俺も、すげぇ好き。大好き」

 溶けそうなくらい甘い声。心臓がうるさくて、まわりの音がなにも聞こえない。さっきまで少し優位に立ったような気分でいたのに、ほんの一瞬でこんなにも簡単にひっくり返される。敵わないのはこっちのほうだ。

「なあ、お前マジでもう帰っちゃうの? この状況で?」
「そりゃ帰りたくなんてないけどさ」
「……俺んとこ来る?」
「俺んとこってどこ。寮?」
「はっはっはっ。無理だな」

 寮に行くなんてできるわけないし、御幸はこれから戻って練習だし、私はひとりで電車に乗って帰るしかない。ちゃんとわかってる。今の私たちにはどうにもできないってこと。
 乗るつもりだった電車は、もうとっくに行ってしまっていた。次の電車がそろそろ来るはずだ。

「今はまだ無理だけど」
「うん」
「いつかもっかい言うから、覚悟しとけよ」
「……うん」

 なぜだか泣きそうになった。大好きな人に強く深く思われている。そう考えたら、喉の奥がツンと痛くなってたまらなかった。
 寂しさとか、会いたい気持ちとか、好きで好きでどうしようもない衝動とか、そういうもの全部。今だからこそ感じるすべてを大切にしようと思う。私たちがはなればなれじゃなくなる、そんな日を、楽しみに待ちながら。

2018.3.18 (2020.5.17再録)
-------------------------------------
アンソロ「コドナオトモ」に寄稿。
ありがとうございました。

- ナノ -