不思議な男の子に出会ったのは、寒さ深まる冬の午後のことだった。

 ボーダー本部のとある自販機前。首を傾げながら立っているひとりの少年。
 ここの自販機はたまに調子が悪くなり、衝撃を与えないとジュースが出てこないことがある。彼はそのことを知らないのかもしれない。あまり見かけない顔だし。お節介かもしれない、と少し躊躇しながらも、とりあえず声をかけてみた。

「あの」
「ん? おれ?」
「ジュース出てこないの?」
「うん。ちゃんとお金入れたんだけどな」
「この自販機たまにそうなるんだよね」

 自販機の右側を強めに叩く。何回かそれを繰り返すと、ガコンと音を立てて取出口にジュースが落ちてきた。おお、と声をあげながら、少年が腰を屈めて缶を取り出す。

「ご親切にどうもありがとう」
「いえいえどういたしまして」
「よう、おまえら」

 突然現れた、のんびりとした声。顔を向けると、実力派エリートが軽く手を上げながらこちらに歩いてくるところだった。

「お、迅さん」
「なんだなんだ、ふたりとも知り合いだったのか?」
「今知り合ったばっかだよ」
「遊真。こいつエンジニアだから、トリガーのことで何かあれば相談したらいいぞ」
「ほほう」

 背中をポンポンと叩かれる私の前で、少年が目をきらめかせる。そんな彼は玉狛支部の空閑遊真くんというらしい。これから訓練だという遊真くんの立ち去る背中を、ふたり並んで見送った。

「よろしく頼むな」
「ん?」
「遊真のこと。本部に来ることも多いと思うから」
「それは全然いいけど……なんで私に?」
「仲良くなれると思うよ、おまえら」

 答えになっているような、いないような。なにか視えているのだろうか。まあ、聞いてみたところで、はぐらかされるのはわかりきっているけれど。
 その言葉どおり、私たちが仲良くなるまでに時間はかからなかった。遊真くんは玉狛所属だけど、しょっちゅう本部にも来ていたし、私の姿を見かけるたびに駆け寄ってきてくれた。それは私も同じで、彼を見かけるといつだって声をかけた。日本に来たばかりだという彼は、まだ知らないことがたくさんある。だから時間が合えば、一緒にいろんなことをした。
 仲良くなれるかどうかに、出会ってからの時間の長さって関係ないんだな。思い出に浸りながら割り箸を割ったところで声をかけられた。

「先輩」
「あ、遊真くんも今からお昼?」
「うん。ここいい?」
「もちろん」

 大盛りのカレーライスをトレイに乗せた遊真くんが、私の向かい側に座る。待ち合わせているわけではない。だけどなんとなく、本部に来るとラウンジに寄ってしまうし、その姿を探してしまっている。
 姿が見えると嬉しくて、話ができるともっと嬉しい。会いたいと思うこの気持ちはきっと、そういうことなんだろう。

「今日も個人ランク戦?」
「そう、かげうら先輩と。このあとはミドリカワと約束してる」
「大忙しだね」
「先輩もね。今日遅いの?」
「たぶん」
「そーか、なるほど」

 ごちそうさまでした。カレーをきれいに平らげた遊真くんが、お行儀よく手を合わせる。もう行ってしまうのかと残念に思っていると、彼はその場から動かず、向かいにいる私をじっと見つめた。視線に気づいて箸を止める。

「なに?」
「ん? 見てるだけ」
「見ててもつまんないでしょ」
「楽しいよ」

 無邪気に笑う瞳にウソはないように見える。何が楽しいのかはさっぱりわからないけれど。それにしても、こう見られていては食べづらいことこの上ない。相手が遊真くんだから尚更だ。さっきまで何も考えず、無意識に食べていたのに、今は箸の持ち方やら動かし方がやたらと気になってしまう。いつもどうやって食べていたんだっけ。
 明らかに私の食べるペースが遅くなってからしばらく経ったところで、テーブルに置いてあるスマートフォンが震えた。彼がそれを手に取り、届いたメッセージを確認する。

「呼び出しだ」
「緑川くん?」
「うん。そんじゃ行くかー」

 大きく伸びをして立ち上がる。またね、と手を振る彼に、同じように振り返す。後ろ姿が見えなくなってから、気を取り直して食べかけのコロッケを口に運んだ。さっきまでのほうがおいしかったような気がした。



 先週から業務が立て込んでいる私は、今日も例にもれず帰りが遅くなってしまった。一区切りつけて研究室を後にする。そろそろ落ち着いてくるはずだけどどうだろう。明日やるべきことを考えながら本部を出ると、すぐそこでしゃがんでいた人影が立ち上がった。

「おつかれ」
「……遊真くん!」

 人影の正体は、遊真くん。驚きのあまり大きな声を出してしまったあとで、今が遅い時間であることを思い出した。

「どうしたの、こんな時間に」
「きぬたさんの手伝いしてたんだ。で、せっかくだからいっしょに帰ろうと思って」

 夜遅くに先輩ひとりじゃ危ないしな、と腕組みして頷いている。心配して待っててくれたんだ。嬉しさを隠しきれないままお礼を言って、街灯が少ない道を歩きだした。隣で遊真くんがお腹をさすっているのが見える。

「腹減ったな」
「私も」
「そうだ、クレープって知ってる?」
「知ってるよ。好きなの?」
「食べたことないけど、甘くておいしいってこなみ先輩が言ってた」
「生クリームとか果物が入ってるのが多いかな。ちなみに甘くないクレープもあるんだよ」
「ほう、甘くない?」
「ごはん系っていうか、ツナとかチキンが入ってるようなやつ」
「それもうまそうだな」
「今度、一緒に食べにいこうよ」
「いいね。そうしよう」

 思いがけず新しい約束ができて、心が弾んだ。残業の疲れも一瞬で吹き飛ばすパワー。そんな大きな力を持っている彼はすごい。
 出かける予定を立てながら歩いていると、時間が過ぎるのはあっという間で、もう私の家に到着してしまった。

「ありがとう、こんな夜遅くに」
「どういたしまして。おれ夜はいつも暇だしね」

 その言葉がなんだか妙に引っかかる。前々から、疑問に思ってはいた。遊真くんは夜ちゃんと寝ているのだろうかと。それ以外にも気になることはいくつもある。一緒に過ごす時間が増えるほど、気になることも増えていく。今まで聞きたくても勇気がなくて聞けなかった、遊真くんのこと。聞いてみようか。今、ここで。

「先輩」

 意を決して口を開く前に、先手を打たれた。曇りのない視線が私を捕える。

「話したいことがあるんだけど、いい?」

 頷くと、少しの沈黙。目を離せないまま待っていると、ゆっくりと口が開かれた。
 彼は教えてくれた。ひとつずつ、丁寧に。自分が近界民であること。黒トリガーになったお父さんのこと。ウソを見抜くサイドエフェクトのこと。そして、指輪の中で眠る、彼の本当の身体のことを。



 朝起きて、窓の外を見る。いい天気だ。それなのに、顔を洗ってみてもなんだかスッキリしない。頭の中をずっと埋め尽くしているのは昨夜の話。
 実は近界民だった、というのは些細なことだ。それよりも。彼の本当の身体は瀕死の重傷を負っていて、今も少しずつ死に向かっているということ。その事実に、私はどうしようもなく打ちのめされてしまっていた。

「迷ったけど、何も言わないままいっしょにいるのはズルいと思って」

 遊真くんの声が甦る。「おれはいつかいなくなるけどそれでもいいの?」彼の話には、そういう問いかけが含まれていたと思う。近づけば近づくほど、別れが怖くなるものだから。確かに、それならば最初から深入りしないほうが楽なのかもしれない。
 遊真くんと出会ってから数ヶ月。決して長い時間ではないけれど、いろんなことがあった。楽しくて眩しくて大切な、たくさんの出来事。その一つひとつを思い出しながら、自分がどうしたいのか真剣に考えて、私は心を決めた。

 だけどそんな決意も虚しく、それから一週間以上、遊真くんの姿を見ない日が続いた。こんなに長く見かけないのは出会ってから初めてのことだ。メールを送ってみても返事がない。

「諏訪さん、遊真くん知らない?」
「あ? そういや最近見てねーな」
「そっか……」

 ラウンジで会った諏訪さんや鋼くんにも聞いてみたけれど、遊真くんの姿を見た人はいなかった。タイミングが合わないだけかもしれないし、単に忙しいのかもしれない。だけどこの間の話を聞いたからなのか、なぜか不安で、とにかく早く会いたい。会って話したいことがある。
 思いきって玉狛支部まで行ってみようか。悩みつつ、河川敷でひとり腰を下ろした。キラキラと太陽を反射して光る川で、ときどき魚が跳ねるのをぼんやりと眺めながら考える。遊真くん、何してるんだろう。元気にしてるのかな。きっとまたすぐに会えるはずだよね。
 でも、もしも、もう会えなかったら? 想像してすぐに後悔した。考えたくない。俯いて嫌な想像を振り払っていると、草を踏みしめる音が近づいてきたことに気づいた。

「先輩、腹減ってない?」

 この声は。反射的に顔を上げる。目の前に立つその人を見つめてみれば。

「クレープ買ってきたからいっしょに食べよう」

 会いたかった笑顔。それを見た瞬間に、私の心は緩んで崩れてしまった。



「……心配したよ」
「ごめん」
「メール返ってこないし」
「ごめんな。調べたいことがあって家にこもってたんだ」
「そっか」
「怒ってる?」
「怒ってないよ」

 怒ってなんかいない。怖かっただけだ。遊真くんが、消えてしまったんじゃないかって。消えていなくて本当によかった。口の中で、クレープのイチゴが甘酸っぱく溶けていく。

「おれ、ちょっと不安だったよ」
「なんで?」
「もう会いたくないって言われるんじゃないかと思った」

 ポツリと響く、いつもと違った細い声。そんな声は初めて聞いたかもしれない。きっと遊真くんの心の奥深くには、隠されているものがたくさんあるんだと思う。強さ、弱さ、脆さ、他にもいろいろなものが。私はまだ知らないことばかりだ。だからこれから教えてほしい。時間がかかってもいいから、少しずつ、彼自身の言葉で。
 だけどどうやら遊真くんも、私のことをまだちゃんとわかっていないようだ。覗きこんでじろりと見つめると、少したじろぐように瞳が揺れる。

「あのさ、残念ながら私って諦めが悪いんだよね」
「そうなのか」
「私は遊真くんと一緒にいたい。これからもずっと」

 それが、私が心に決めたこと。会って話したかったこと。目と目を合わせたまま、ここ最近ずっと考えていたことを口にした。彼の手を包み込んで強く握る。この言葉にウソがないことは、彼が誰よりも一番わかっているはずだ。
 私はこれから、地道に培ってきた知識や技術、持っているものすべてを使って、彼の身体を消さないための方法を探す。とにかくやれることは全部やる。未来を諦めるつもりなんてない。

「だから遊真くんも黙っていなくなったりしないでね」
「しないよ。オサムとチカと遠征部隊を目指すって約束したし」
「うん」
「それに、好きな子をひとりぼっちにできないからな」

 そう言って私の手を握り返す。いたずらっぽく笑う姿は、すっかりいつもどおりの遊真くんだった。
 音もなく静かに、だけど確実に近づいてくる、彼の世界の終わり。それに打ち勝つためなら何だってできる気がする。彼のいない世界なんて、もう想像することもできない。そのくらい、大切になってしまったのだから。


2017.6.11 (2020.5.17再録)
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合同本「ワールズエンド」に提出。

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