名前を呼ばれて反射的に振り返り、すぐに後悔した。気づかないフリをすればよかった。
「久しぶりだな」
もう二度と会いたくないし、会うこともないだろうと思っていた人。昔、少しの間だけ付き合っていた。私以外に何人も彼女がいることが発覚して別れた。こんな漫画みたいなことが自分の身に起こるなんて。他人事みたいにそう考えながら、涙も出なかったあの日を思い出す。見る目がなかった過去の自分を殴りたい。ただひたすらに消したい記憶だ。その場から足早に立ち去ろうとしたものの、同じスピードで横に並ばれて、それも叶わなかった。
「元気にしてんの?」
「まあまあ」
「せっかく久しぶりに会ったんだし、今から飯でも行こうぜ」
「急いでるから無理」
「冷たいこと言うなよー」
保っていた距離を素早く詰めらる。肩に伸びてきた手を振り払おうとしたところで、突然誰かに手を引かれて、再び男との間に距離ができた。そのおかげで、なんとか触れられずに済んだ。
「何やってんの」
私の手を引いた誰かとは、ボーダーの後輩である緑川駿くんだった。駿くんは私たちの間に割って入り、鋭い目つきで男を見上げる。だけどそれはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの人なつっこい表情に戻って、私に明るく声をかけた。
「もー、急いでって言ったのに。時間過ぎちゃってるよ」
「え? ご、ごめん?」
「なに。弟?」
「いや、この子は……」
「そうだよ」
姉がお世話になってます。そう言ってお行儀よく挨拶をする駿くんを見て、ポカンと開いた口が塞がらない。それ閉じて、と横目で怒られて、慌てて真一文字に口を結んだ。同じくポカンとして何も言えない男を尻目に、駿くんは私の背中を押しながら歩き出す。
「それじゃ、オレたち急いでるんで。さよならお兄さん」
弟宣言の効果だろうか。男はそれ以上しつこくすることもなく、私たちとは反対方向へとおとなしく去っていった。ビルの陰で足を止めて確認してみると、こちらを振り返ることもなく、どんどん遠ざかっていく背中が見える。
「ほんとにありがとう。助かったよ」
「誰? あの男の人」
「前に付き合ってた人。ちょっとだけね、ほんの一瞬だけどね」
「ふーん」
男が消えていった方向を見ながら、唇を尖らせた。人混みに紛れ、その姿はもうすっかり見えなくなってしまっている。
「まさか弟なんて言うとは思わなかったからビックリしちゃった」
「そのほうが手っ取り早いし、すぐ引き下がってくれるかなと思って」
「そのとおりだったね」
「本当は弟じゃなくて彼氏がいいんだけどな」
それを聞いて一瞬、言葉に詰まる。急に黙ってしまった私を見て、駿くんは笑った。
「でもそれだと、先輩が困っちゃうでしょ」
初めて彼の気持ちを知ったのは、公園で一緒にアイスを食べたときだった。あの日、私は図書館で駿くんに勉強を教えていて、その帰り道にコンビニでアイスを買って、公園に寄ったんだ。大きく育った木の葉っぱが風に揺れ、隣同士並んで座ったブランコは、鈍く錆びついた音を立てていた。まるで昨日のことのようによく思い出せる。ボーダー隊員としての駿くんしか知らない私は、彼がどんな学校生活を送っているのか興味津々でいろんなことを質問していたんだけど、いつのまにか私が質問される側へと立場が逆転していた。
「先輩って彼氏いるの?」
「ううん」
「じゃあ好きな人は?」
「……それ聞いてどうするの?」
「どうもしないよ」
大きく漕いでいたブランコから、ひらりと飛び降りる。トリオン体でなくても身軽な彼は、軽やかに着地して私の前に立ち、ブランコの鎖をそっと両手で掴んだ。
「先輩のことが好きだから知りたいだけ」
座ったままの私を、駿くんが見下ろす。いつもと違う目線の高さと、想像もしなかった言葉。あまりにも現実感がなくて、呆然と見つめ返すことしかできなかった。
私も駿くんが好きだ。ものすごくかわいい後輩だと思っている。だけど、彼がそういう意味で言っていないということは、あの目を見ればわかった。
その次の日、ボーダー本部で偶然すれ違った駿くんは、拍子抜けするほどいつもどおりだった。まるで何事もなかったかのように。それならば私も気にしないようにしよう。そう思って今までと変わらない態度で過ごしているけれど、彼はときどきあの日のことを思い出させるのだ。今日のように、不意打ちで。
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ランク戦を見た帰り道、自販機でミルクティーを買ってラウンジに寄ると、珍しく人が少なかった。いつもたくさんの人で賑わっているこの場所が、今日はチラホラと数人座っているだけだ。すでに先客がいる入口付近は避け、そこから離れた席を選んで腰を下ろす。
「せんぱーい」
元気な声が聞こえたかと思えば、先ほどまでランク戦で解説をしていた駿くんが駆け寄ってきた。
「駿くん、さっきは解説お疲れさま」
「見てくれたの?」
「うん」
「ありがと。ねえねえ、オレもここ一緒に座っていい?」
「おーまーえーはー。そうやってすーぐ寄り道する」
「わっ、よねやん先輩」
「ほら行くぞ、個人ランク戦」
「ちょっと引っ張らないでよー」
私の向かいに座ろうとした駿くんは、追いかけてきた米屋くんに捕まってしまい、そのまま引きずられていった。その姿を見送っていると、引きずられながら大きく手を振ってくれたから、私も同じように振り返す。
「相変わらず愛されてるなー」
ひとりになった私の目の前に、迅さんがどこからともなく現れた。今のやりとりを見ていたらしい。駿くんが座れなかったイスに、代わりに腰かけて、ぼんち揚の袋を差し出す。遠慮なくひとついただいて口に放り込んだ。
「迅さんこそ愛されてるじゃないですか」
「まあね」
「うわ嬉しそう」
「でも本当に、駿はおまえのこと大好きだよ」
「私だって大好きですよ」
「それ本人に言ってやって。言わなきゃ伝わらないから」
空っぽになったぼんち揚の袋をぐしゃぐしゃと丸めて立ち上がる。これから行くところがあるから、と慌ただしく去っていった。実力派エリートは今日も忙しいようだ。
確かによく考えてみれば、私はいつも駿くんから気持ちを受け取ってばかりで、自分から返したことがない気がする。心の中だけで思っているだけで、伝わるものだと勘違いしていた。言わなければ伝わらない。迅さんの言葉が胸の中に重く沈む。駿くんと一緒にいると楽しいし、大好きだ。もしかしたらそれは、彼の『好き』とは違う意味かもしれないけれど。
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ちゃんと言葉にして伝えよう。ようやく決意できたものの、そういうときに限って、チャンスはなかなかやって来ないもので。廊下で目が合うと、いつもなら手を振ってくれるのに、それもなくどこかに行ってしまう。話しかけようとしても逃げられる。絶対に気のせいなんかじゃない。これは、間違いなく。
「避けられてる……?」
誰もいない公園で独り言をこぼしたって、何も返ってくるはずもない。避けられている。声に出してみたら、思った以上に悲しくなった。私が今までどれだけ、駿くんの好意に甘えきっていたのか思い知らされる。気持ちに応えることもせず、優しくされることに慣れて、少しそっけなくされただけでこんなに落ち込むなんて。
自己嫌悪に陥りながらブランコを漕いでいると、ポケットの中のスマートフォンが震えた。足を地面につけてブランコを止め、届いたメッセージを確認する。
ーー今どこ?
送り主は、駿くんだった。
ーー図書館の近くの公園だよ。
そう返すと、そこで返事が来なくなる。何だったんだろう。もしかして、ここに向かっているんだろうか。その予感は的中して、ほどなくして息を切らした駿くんが現れた。私の姿を見つけると足早に近づいてきて、隣のブランコに無言で座る。その勢いで鎖の錆びた音が何度か鳴った。横目で盗み見たけれど、あちらから話しかけてきそうな雰囲気はない。
「なにか用だった?」
「ううん。用はないけど」
「私さ、駿くんに避けられてると思ってた」
「避けてないよ! ……いや、避けてたのかな」
なんで。静かに詰め寄れば、しどろもどろになりながら目線を泳がせる。それでも負けずに見つめ続けていると、観念したように小さく呟いた。
「しつこい男は嫌われるって言われたから」
「誰に?」
「クラスの奴。確かにオレ、先輩にベッタリすぎたかなと思って。だからあんまり近づかないようにしようと思ってたんだけど、やっぱ無理だった」
眉を下げて笑う駿くんを見て、私も目元がゆるんでしまう。嫌いになんてなるはずないのに。言わなければ伝わらない。その言葉を思い出すと、自然と口が動いていた。
「私、駿くんのこと好きだよ」
彼の表情が一瞬でパッと輝いた。だけど直後、そこに少しの影が差す。
「それって後輩として?」
「……そうだね」
「オレは先輩としてじゃなく好き」
「早まっちゃダメだって」
「別に早まってないよ」
「駿くんなら、絶対これからもっといい人が見つかるから」
「オレが年下だから本気にしてくれないの?」
いつもより声が低い。その顔は悲しそうにも見えるし、怒っているようにも見えた。
「オレのことちゃんと見てよ」
真剣な声に、心臓を握られたような錯覚を起こす。年齢差を言い訳にして、予防線を張って、傷つかないように逃げている。そんなズルい自分を見透かされた気がした。
「駿くんのこれからを邪魔したくないんだよ」
彼はこれから、たくさんの人と出会って、生きる世界だってどんどん変わって広がっていく。そんなときに私がそばにいたら、選択肢が狭まってしまうかもしれない。たったひとりの人間にとらわれたりせず、まっさらな気持ちでいたほうが、きっと彼のためになる。それに、彼はいつか世界の大きさに気づいて、私が追いつけないほど遠くへ行ってしまうかもしれない。これから出会う、かけがえのない誰かと一緒に。その日が来るのが怖い。
心の奥深くに隠れていた思いを、ついに引っ張り出してしまった。よりによって彼の前で。黙って聞いていた駿くんは、呆れた顔で大きなため息をついたかと思えば、あっけらかんとした声を出した。
「ああもう、ごちゃごちゃうるさいなー」
「う、うるさい?」
「難しいことばっかり考えなくていいんだってば。もっと簡単なことだよ」
ブランコから、ひらりと飛び降りる。軽やかに着地して私の前に立ち、ブランコの鎖をそっと両手で掴む。その姿が、あの日の彼と重なる。
「オレは先輩が好き。大好き。先輩は、オレのこと好き?」
私をまっすぐに貫く強い瞳。たぶん、わかってた。本当はずっと前から。私の狭くて小さな世界を壊してくれるのは、彼しかいないのかもしれないってこと。
2017.6.11 (2020.5.17再録)
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合同本「ワールズエンド」に提出。