ゴンゴンゴン。静寂を破る、鈍い音。
 住宅街の片隅に建っている私のアパートは、夜になるととても静かだ。車が通る音もめったにしない。そんなひっそりとした夜に場違いな音が聞こえたのは、寝る準備を万端に整え終わったときだった。
 聞き間違いかな。気のせいだということにして布団に潜りこむと、また同じ音。いやこれ気のせいじゃない。うちの玄関のドアを誰かが叩いている。こんな時間にそんなことしそうなのは、と考えてひとりの人物が頭に浮かんだとき、枕元のスマホが震えた。表示された名前を見て大きなため息をつく。やっぱりね。仕方なく布団から出て玄関に向かい、ドアを細く開けると、そこにはにやりと笑う太刀川が立っていた。

「よう」
「ようじゃないよ、何やってんの」
「すまんすまん。とりあえず入れてくれ」

 ドアの細い隙間に手をかけて軽々と開き、了承してもいないのに大きな体で勝手に入りこんでくる。こんな時間に玄関先で言い合いするのも近所迷惑なので、諦めて迎え入れた。

「寝ようとしてたのに
「悪い。どうしても会いたかったんだよ」

 もっと文句を続けるつもりが、言葉に詰まった。簡単な私はそんな一言であっという間に絆される。ずるい、邪険にできないじゃないか。最近飲み会やら課題やらでずっと寝不足だったから今日こそさっさと寝よう、そう決めていたのに。
 それにしても太刀川がそんなことを言うなんて珍しい。いつもと違う様子を怪しんでいたら腕を引いて抱きしめられて、その理由はすぐにわかった。

「……太刀川」
「んー」
「飲んでたでしょ」
「よくわかったな」
「においでわかるから!」

 なにやらいつにも増してご機嫌だと思ったらそういうことか。抱きしめられたまま背中を叩いて反抗を試みるけれど、まったく効果はない。

「一人でここまで来たの?」
「いや、風間さんと一緒に」
「今日は最後まで起きてたんだ、風間さん」
「あんま飲んでなかったからな」

 明日1限あるんじゃないか、とよく知りもせずテキトーなことを言っている。詳しく聞くと、自分の家ではなく私の家に行くと言い張っていたら、風間さんがここまで連れてきてくれたらしい。酔っ払いを一人でうろうろさせることに不安を感じたのかもしれない。太刀川はそんなにお酒が強くないし。玄関を開けたときは太刀川以外に誰もいなかったので、ここまで連れてきて即立ち去ったのだと思われる。あとでお礼を言っておかなければ。
 まったく離してくれない腕の中からなんとか抜け出してキッチンに向かう。コップに水を入れて戻ると、太刀川は床に座ってベッドに背中を預けていた。コップを渡して私も同じように腰を下ろす。

「風間さんと二人で飲んでたの?」
「あと迅」
「変なメンバー」
「そうか?」
「ていうか迅くん未成年じゃん」
「あいつはジュース飲んでた」
「ジュース……」

 お酒を飲む二人にジュースで付き合うシラフの迅くんを思い浮かべた。ちょっとかわいそうだ。

「その三人でどんな話するのか想像つかないね」
「別に普通だぞ。ナマエがカワイイって話とか」
「……なにそれ?」

 思わずそっぽを向いた。予想もしない返事だったから。電気が明々とついているからもし顔が赤くなっていたらすぐバレる。照れていることに気づかれたくなくて、顔を見られる前にその場で立ち上がった。

「お風呂使っていいよ」
「いや風呂は明日でも……」
「居酒屋くさいから入ってきて」
「ええー」
「じゃないと一緒に寝ない」
「あーわかったわかった。入ってくる」
「はいこれ服」
「俺の歯ブラシある?」
「洗面台のいつものとこだよ」
「りょーかい」

 着替えを持って風呂場に向かう太刀川の背中を見送る。しばらくしてからシャワーの音が聞こえ始めた。さっきまで静まり返っていたこの部屋が、太刀川が来たことで一転して賑やかになっている。本当に悔しいな。予定を狂わされたというのに、私はまったく困ってない。それどころか、ドアを開いた瞬間からずっと浮き足立っているのだから。
 ベッドに寝転びながらスマホを手に取った。呼び出すのは、風間さんの連絡先。

──太刀川を送り届けてくれてありがとうございます。

 そうメッセージを送ると、すぐに返信があった。

──ミョウジがカワイイってずっとノロケてたぞ。

 スマホを放り投げて枕に顔を押しつける。恥ずかしい。もちろん嬉しくもあるけど、でもやっぱり恥ずかしい。風間さんはともかく、迅くんに会ったらめちゃくちゃからかわれるやつだ、これ。どうしよう。どうしようもないけど。迅くんを回避する方法を考えながらひとり悶えている間に、いつのまにかシャワーの音が止んでいたことに気づいた。

「ナマエ」

 すごい速さで戻ってきた太刀川が、名前を呼んで肩に触れる。濡れたままの癖のある髪から私と同じ香りがする。近づいてくる顔にはキスがしたいと書いてあるようで、なんだかものすごく愛しさが増してしまった。きっと私も今、同じ顔をしているはずだ。


2015.9.6 (2020.5.17再録)

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