人通りもすっかり少なくなった、静かで暗い夜。私しかいない家のインターホンが鳴った。こんな時間に来客なんて、嫌でも警戒してしまう。まさかあの怪獣みたいな近界民や凶悪な強盗犯がご丁寧にピンポン鳴らしたりしないとは思うけど。
 そっと足音を立てないよう玄関に移動してドアの覗き穴を確認する。そこに立っている人物を見た私は、驚きを隠せないままチェーンを外して鍵を開けた。

「京介くん?」
「こんばんは」

 ドアの外に立っていた制服姿の京介くんが軽く頭を下げる。

「どうしたの、こんな時間に」
「バイト帰りです。突然すいません、これお裾分けしようと思って」
「お裾分けって?」
「ドーナツ」

 手に持っていた細長い箱を私の前に差し出した。そういえば、ちょっと前からドーナツ屋さんのバイトを増やしたって言ってたっけ。ありがたく受け取って、目を合わせる。

「ありがと。良かったら上がってく?」
「いやでもご家族に迷惑なんじゃ」
「今日は私ひとりなんだ、みんな旅行でいないから。だから上がっていってよ」
「……じゃあ、お言葉に甘えて少しだけ」

 京介くんは今までも何度かうちに入ったことがあるけれど、夜に来たのは初めてだ。リビングに通し、椅子に座っていてもらう。ご飯を食べるときにいつも私が座っている椅子。二人分の紅茶をいれて、私は京介くんの向かい側に腰を下ろした。

「はいどーぞ」
「ありがとうございます」
「ドーナツ食べてもいい? 一緒に食べようよ」
「そっすね。ナマエ先輩、どれがいいですか」

 箱の中を覗くといろんな種類のドーナツがいっぱい詰まっていた。目移りしてしまうけど、ここはやっぱりいつも食べてる好きなやつにしておこうかな。箱の中からひとつ取り出して噛みついた。おいしい。それを見ていた京介くんもドーナツを取り出して一口かじり、紅茶に口をつける。
 きっとそのドーナツ屋さんは、京介くん効果で女性客が増えていることだろう。スーパーでもレストランでも牛丼屋でもそうだった。そんな光景を想像したら気持ちが落ち着かなくなってきたから、考えるのをやめた。今は、目の前の京介くんとドーナツのことだけ考えていればいい。

「おいしい。久しぶりに食べたよ、ドーナツ」
「そうなんすか。持ってきてよかった」
「でもこんなにいっぱいもらっていいの?」
「大丈夫です。家の分と支部の分はまた別にあるんで」
「そっか」

 家族やボーダーの人達だけじゃなく私のことも思い出してくれたんだと思うとなんだか嬉しい。学校で最近あったことを話したり、彼のバイトの話を聞きながら、ドーナツを食べる。できるだけゆっくりゆっくりと。
 少しでも長く一緒にいたくて時間をしっかりとかけて食べていたけれど、ついに最後の一口も飲み込んでしまった。京介くんはもうとっくに食べ終えていて、紅茶ももうすぐ飲み終わる頃だろう。じゃあそろそろ帰ります、なんて言い出すのは時間の問題だ。

「ごちそうさまでした」
「私こそごちそうさま」
「またなんか持ってきます。じゃあ今日はそろそろ」

 私の頭の中を読んだのかと思うほどタイミングよく、京介くんがそう言って立ち上がる。玄関に向かう彼の後ろを歩きながら、私は迷っていた。今日は家にひとりきりで心細いせいだろうか。いやたぶんそれだけが理由ではないけれど。離れがたい、と思ってしまった。

「あの、京介くん」
「はい」
「えーと、その、なんというか。もし良ければなんだけど、いや無理なら無理でいいんだけどね」
「なんすか?」

 わかっているけどわかっていない振りをしているのか。それとも本当にわかっていないのか。どうにも読めない表情の京介くんと目を合わせ、意を決して口を開いた。

「……と、泊まってく?」

 言ってしまった。しかもちょっと声が上擦ってしまった。今さらなかったことにはできない。驚くでもなく嫌そうなわけでもない、とくにリアクションのないままほんの少し考え込むような顔をした京介くんが、私の目をじっと見つめる。

「今日はやめときます」
「……そ、そっか。ごめんね、急に変なこと言っ」
「何もしない自信が無いんで、俺」

 続きの言葉は思わず飲み込んだ。まさか京介くんがそんなことを言うとは思わなかったから。思いがけない反応に何も返せない私をよそに、彼はいつもどおり淡々とした仕草でドアに手を掛ける。

「じゃあ帰りますけど、俺が出たらすぐ戸締りしてくださいよ」
「……」
「ナマエ先輩聞いてますか」
「あ、ハイ」
「ちゃんと鍵かけたかどうか外で音聞いてますから」

 「お邪魔しました」とドアが閉まり、玄関には私ひとり。一瞬ボーッと立ち尽くしていたけれどすぐにハッとして、言われたとおり鍵とチェーンを掛けてから、ベランダに走って外に飛び出す。

「京介くん!」

 名前を呼ぶと、彼は足を止めて振り向いた。少し遠いし暗いけれど、目が合ったことがわかる。ひらひらと右手を振る京介くんに勢いよく手を振り返すと、彼は見逃しそうなくらい小さく微笑んだ。

「おやすみなさい」

 何もしない自信なんて無くてもいいのに。そう声に出来ていたら今夜、一緒にいられたのかな。夜道に消えていく背中を見ながら、次こそはと密かな決意を固める。その決意を彼が知るのは、いつになるだろう。


2015.5.9 (2020.5.17再録)

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