今朝、丸井ブン太に声を掛けられた。軽い挨拶程度のものではあったが、仁王にはそれが酷く印象的なものに感じられる。窓の外の世界をなんとなく見ていると、仁王の視界に鳥が一羽飛んでいくのが見えた。 「仁王、」 視界から消えるまでその鳥を追う。その行動に意味はない。あえて理由を付けるならば、暇だから何となくというのが一番しっくり来るだろう。視界から鳥が消える。それと同時に、仁王は後ろから名前を呼ばれ振り返った。 「次、移動教室だぜぃ」 「…あ、さんきゅ」 するとそこには今朝も挨拶を交わした丸井。片手に教科書を抱えながら、彼はトレードマークとなっているガムを噛んでいた。 「一緒に行かね?」 「……別に構わんけど」 なぜ自分なんかという言葉は飲み込んだ。言ってもどうで意味がないと思ったから。仁王は次の時間割を思い出す。なんの授業だったかと考えていると、ご丁寧にも丸井が教科を教えてくれる。科学実験室で実験だと。親切な心遣いに仁王は短く返事を返した。 「揃ったか?」 「教科書もノートも持っとらん」 「お前な…」 呆れたように眉を寄せながらも、楽しそうに丸井は笑う。何がそんなに楽しいのか仁王にはわからない。筆箱だけを手に貴重品をポケットの中へ無造作に入れて、仁王は音を立てて席を立つ。 「ノートねえなら、あとでルーズリーフやるよ」 「…どうも」 行くという合図なのか、歩き出した丸井の後ろをついていく。二人で並んで歩く光景を、周りのクラスメートたちは不躾な視線を送ってきた。それが少し鬱陶しくて睨みつければ向けられていた視線が逸らされる。 「今日は何やんだろなぁ」 「さぁ…」 すぐに切れる会話。主に止めるのは仁王の方であるが、それでも丸井は話すことを止めない。何がそんなに楽しいのか。再び抱いた疑問に仁王は自分より僅かに低い頭を見て思う。 「面倒な実験とかじゃねえといいけどさ」 「まぁ…、」 丸井と仁王は人柄や人間関係が行って来るほどに違う。常に誰か人が居て笑い合っている丸井とは違い、仁王は一人を好む性格をしており基本は個人行動が多い。そんな自分たちが一緒にいることに、違和感を感じないでいろという方が無理な話だ。 「仁王、ってよ」 「なんじゃ…」 「俺のこと嫌いか?」 「……は」 頭の中で色々と考えていると、不意に丸井がそんなことを言ってきた。先ほどまで饒舌に喋っていたのに突然どうしたのか。仁王は訝しげに丸井を見る。 「なんじゃ、突然」 「いや。だって仁王、俺と居ても全然楽しそうじゃねえからよぃ」 くちゃくちゃとガムを噛みながら喋っているのに、どうしてこんなはっきりと言葉が聞き取れるのか。丸井と話すようになってから抱くようになった疑問だが、今はそんなのは関係ない。今までそんなことは言わなかった。仁王は横を歩く男の行動を理解しかねる。 「図星か?」 「楽しくない訳じゃ、なかよ」 それは本心だ。本気で嫌ならまず仁王は一緒に居ることを拒否している。何より、話すこともないだろう。片手に持っていた筆箱を、何となく持ち直した。 「本気で嫌なら、話すんも拒絶しちょる」 「あ、マジでか」 仁王の本心を聞くと、丸井は嬉しそうに笑みを深くする。だから、何がそんなに楽しいのか。仁王にはやはり理解不能だ。 「なら嫌われてはねえんだな」 「嫌われてないて、おまん…」 それは、どういうことなのか。確かに仁王の行動や本心はよく分からない。本人だって時々わからなくなるときがあるくらいだ。しかし今さっきの丸井の言葉から察するに嫌われているかもと考えつつ、仁王とここ最近の行動を共にしていたことになる。 それなのにどうして、丸井はそんなことを気にしてでも態々仁王と一緒に居るのか。 「ほんに、意味わからん」 心の中で思っていたことが無意識に口から出てしまう。しまったと思ってももう遅い。 なんでもないような顔を無理に作り丸井の表情を伺う。どうして自分が丸井の顔色を気にしたのか、その時は咄嗟の行動だったので特に気にはならなかった。しかし後に冷静に考えて本当に今の自分はなんなのかと仁王は舌打ちしたい衝動に駆られる。 「…仁王、ってよ」 「……なんじゃ」 嗚呼、きっと嫌われただろう。大して話してもいないやつに意味がわからないと言われて気分がいいはずがない。意味不明な緊張が仁王の体を強ばらせる。 しかし次に来るであろう零度の言葉は聞こえてこなくて、構えていた仁王の予想を丸井はいとも簡単に裏切ってくれたのだ。 「お前、おもしれえな」 「…は」 にっと歯を見せて笑う丸井。拍子抜けというのはまさしくこのことを言うのだろう。満面の丸井の笑顔は変わらず、けたけたと笑いながら仁王の腕を取った。それに、どうしてか心臓が跳ねた気がしたのは恐らく、気のせいだ。 「やっぱ仁王のこと好きだわ」 絶対にお前以上に面白いやつなんかいない。振り返った丸井の笑顔にさらに心臓の脈を打つ速度が早くなった気がした。 何も言葉を発することができなくて、頬に集まった熱に知らないふりをするのに精一杯で。歩き出すのと同じ時、始業を告げるチャイムが鳴り響いた。 (20110518) |