あ、という言葉に財前はふり返った。どうしたのだろうか、と数歩後ろを歩いていた先輩を見てみると、謙也の視線は空に注がれている。それに財前は首を小さく傾げた。 「どないしたんすか?」 「青が、」 「青が…どないしたんです」 「なくなってまう」 ぽつり、と言われた言葉。その意味が分からない。今度は眉を顰めた。時々、彼は自分には理解不能なことを言う、と財前はぼんやりと思う。歩いてきた方向へ数歩だけ戻って、謙也と距離を詰める。それでも視線は空を向いていた。面白くない、と財前は謙也の見る空を一緒に見上げる。 「なくなってまう…って、どういうことっすか」 「そのまんま。空の青が消えてまう」 「…雨が降るっちゅうことですか?」 それなら納得がいくけれど。雨が降れば空は灰色に覆われる。しかし空は晴天だ。ムカツクくらいの夏空である。しかし最近の異常気象を考えてみれば雨くらい降っても当然かもしれない。だが問うた質問の答えは、財前の予想とは大きく違っていた。 「雨は降らんけど」 「なら、なんですの?」 「空の青だけやのうて、世界の青がな、消えてまうねん」 意味がわからない。財前は素直にそう思った。はぁ、と息を吐いて、見上げていたために痛くなった首を擦る。前を見てみると、謙也の視線は空の青に注がれたまま。それが、やはり財前には面白くない。 「謙也さん、青って好きやったっけ?」 「んー、嫌いやないで。でも青ん中やと一番は、空の青が好きやなぁ」 「はぁ…」 空を見上げながら彼の口元が笑みを作る。そんなに空を見て、何が楽しいのだろうか。空なんてよく見ているくせに。こんな会話、きっと続けてもなんにもならない。咄嗟にそう判断した財前は、謙也の腕をぐいっと掴む。すると別のことに意識が行っていたせいか、謙也の体は簡単にバランスを崩した。どさり、と持っていたテニスバックが落ちる音がする。 「…財前?」 「そない空にばっか、熱い視線送らんといてください」 「…別に熱い視線なんて送ってへんけど」 少しだけ困ったように謙也は言う。だが財前は気にしない、というように謙也の背中に回していた腕に、少しだけ力を込めた。夏空の下で、部活のあとで汗を大量に掻いているところに更に汗を掻く。蝉の声がやけに遠くに聞こえる。でもそれ以外は何の音もしない。目を閉じてみると、謙也の匂いがした。 「…謙也さんは、そない空が好きなんや」 「やって、空の青が消えたら海もただの水になってまうんやで?嫌やん、それ」 「別に俺は、構いません」 それほど海というものは好きではないし。言う寸前でそれを止める。海という映された幻想。それに特別魅力を感じたりしない。所詮それは力を貸してもらっているだけの輝きなのだ。そんなものに、価値を見出せない。消えたらそれまでのものなのだから。でもだからこそ、魅力を感じるのかもしれない、とも思う。人が桜に惹かれるのと同じで。儚くて、脆いものに酷く惹かれるのだ。 「財前、夢ないなぁ」 「夢もくそもないと思うんすけど」 「むしろ、自分に夢もくそもないわ」 そうだろうか。自分は夢がないのだろうか。でも彼が言うならそうなのかもしれない。財前はなんとなく納得する。忍足謙也という存在にしか焦がれることの出来ない自分は、謙也のようにモノを失うという怖さがない。哀しいとも思わない。もしも失ってしまってもまた手に入れればいいだけだ。そう考えてしまうから。酷く子供っぽい、エゴイズム溢れた考えだとは思うが、財前はそれでも構わないと思った。 「青が消えたら、空が消えたら、財前と会えんようになるやん」 「…なんでです?」 どうして空が消えたら自分と彼が会えなくなるのだろう。太陽があって、空気があって、それだけあれば会えるではないか。首元に顔を埋めて、ぽつりぽつりと話す謙也の言葉に、財前は耳を傾けた。 「空があるから、部活も出来るし」 「…太陽があれば大丈夫やないですか?」 「あかん。そら、あかん」 ふるふると謙也は首を横に振る。あかんねん、と謙也は言った。夕陽が射せばそれは夕方だと思えるじゃないか。財前は再び首を傾げ、謙也を見る。 「青春って感じがまったくせぇへん」 「なんすか、それ」 「それにな」 笑ってしまうような、実際笑ってしまった彼の言葉。でも彼らしい考えだな、とまた笑う。更に続ける謙也の顔を見てみると、酷く真剣な表情をしていた。今度は何を言い出すんだろうか。背中に回した腕の力を少し抜けば、今度は謙也の手に力が込められる。 「青い空があるから、財前との思い出が彩られてんねん」 一瞬だけ、彼の言葉が理解できなかった。だが次の瞬間には思う。そう言われてしまえば、空がなくていい、なんて言えないではないか、と。予想していなかった謙也の不意打ちに財前はぽかんと口を開けて固まった。 「夕陽だけやと悲しいやん。夜は殆ど会えへんし、真っ暗で怖い」 「…まぁ」 「やから学校に居るとき、部活んとき、全部が全部空っちゅう青があるから彩られてんねん」 真っ白な背景なんて哀しいだけだ。眉をハの字にして、哀しそうに謙也は言う。たしかに、それはそうかもしれない。背景という色に、空という青は入り込んでいる。屋上に居れば空があって、部活の合間にも空を見ることがある。そういうことなのか、と財前は漸く納得できたような気がした。 「財前と一緒にダブルスやるときも、背景に空があるやん。ないと、めっちゃ寂しい」 「…そうですね」 「せやけど、いつかな、青が消えてまいそうで怖いねん」 ぎゅっと背中に回された謙也の手に力が篭る。空がなくなることなんてないだろうに。しかし、いつかこの先輩が言うように消えてしまうのだろうか。財前は不思議な感覚に襲われた。そういえばここは公共の場で、帰路に着くはずの住宅街の道だ。なんとなく、関係のないことが頭に浮かぶ。だが今の財前にそれはどうでもいいことでしかなく、脳からどこかへ消えていった。 「消えませんよ」 「…なんで言いきれんねん」 「やって、俺が居るやないですか」 彩りに必要なのは空。その中心の自分がここにいる。何の問題もないじゃないか。少しだけ体を離して、謙也の顔を覗き込めば少しだけ不安そうな顔をした謙也と目が合った。 「中心があって、謙也さんがそれを望めば空は消えんと思いますよ」 「…ほんまか?」 「おん。ほんまです」 なんの確証もないことだけれど。そうであればいいな。そんな自分自身の願望も入っているかもしれない。けれど、自分に彼が必要なように。彼が自分を必要としてくれているのであれば、背景は消えないと思った。安心させるために汗だくの額にキスをすれば、少しだけ汗の味がした。 「…ほんなら」 「おん?」 「俺の側から、居なくならんといてな」 ぎゅっと財前の胸元に顔を埋めた謙也の頭を、優しい手つきで撫でる。ふわふわの金髪は今は汗でじっとりと湿っていたけれど、悪くない。自分より身長が高いくせに。謙也をよく小さいと、守ってやらないとと思うときがある。だから目の前の先輩を、財前は力いっぱいに抱きしめた。 「当たり前やないですか」 自分は離れたりしない。離れたり出来ないのだから。財前が笑う。すると、謙也も幸せそうな笑顔で笑みを浮かべた。 (20100819) |