逃走する本能



※暴力表現(光→謙也)


怖くて逃げ出した。生命の危機を感じた。否、そんな言葉じゃ表しきれないほどの恐怖が生まれる。

誰かに対してこんなにも恐怖を抱く日が来るだなんて、思っていなかった。きっと多少のことがあっても、自分は笑って暮らしていくんだろうと、曖昧な将来を想像していたのに。

本能的に恐怖と危険を察知した俺は、ただひたすらにその根源から逃げるべく学校の中を走り回っていた。


「いつまで逃げるつもりなん、謙也さん」


大好きな声が自分の名前を呼ぶのが廊下に響いたけれど、立ち止まるのが恐ろしいから走る。振り返ればお終いだ、と告げる脳味噌に従い首を前に固定した。しかし走る自分とは対照的に、相手はゆっくりと歩を進めている。酷くゆったりとした足音が更に恐怖を生む材料になり、相手との余裕の違いを見せ付けられて心臓は緊張から更に五月蝿く脈打つ。いつもならもっと早く走れるのに、恐怖から来るもののせいなのか、ちゃんと走ることすら困難で何度も足が縺れそうになる。

見たことのない悪魔を想像して、今の彼はまさしくその存在なんじゃないかなんてありもしないことを考えていた。


「――ッア…?!」
「…やーっと、掴まえた」


意識を別のところに飛ばしていたのが悪かったのか、とうとう足が縺れてしまい顔面から派手に転んだ。ボロボロに傷ついた体に今更傷が一つ増えようが構わなかったが、再び逃げようとした途端嬉しそうな声と共に後ろから腕を掴まれる。恐怖からヒィッと引き攣った悲鳴を上げると、彼はクツクツと喉で笑う。愉快そうな笑顔が恐ろしくて逃げようとすれば、それ以上に強い力で引っ張られ、頭を地面へと押し付けられたその衝撃で目の前をちかちかと星が散った。


「逃げんといて、謙也さん」
「は、離せ…離せや!」
「離すわけないやん。やってそんなことしたら謙也さん、逃げるやろ?」


可愛らしく首を傾げて言っているのに、彼のやっている行為はそれと不釣合いに暴力的だ。身体がおかしくなるんじゃないかというくらいに腕を後ろに回させて、悲鳴を上げるのすらお構いなしというように彼は人間の関節の限界を試すように腕を捻るもんだから、背中に回された腕の痛みは尋常ではないほどの苦痛を生み出し、それに小さく呻く。痛いと叫んで訴えかけても冷たい視線が見下ろしてくるだけで、力が緩められることはない。名前を叫ぶように呼べば、ふわりと微笑んで彼は言った。


「ああその声、ゾクゾクしますわ」
「ざ、ざいぜ!い、やや…いた、いたい…っ!」
「もっと呼んでください、謙也さん」


にこりと彼が笑顔を浮かべた途端、俺の腕が嫌な音を立てた。関節でも外れたのか、なんて他人事のように己の身体を分析していたらすぐに痛みが襲ってきて、悲鳴に近い声をあげて涙を流せば財前はその涙を舌で拭い取る。その仕草すらも怖いと思うのに、しかし半面で美しいと思っている自分はなんなのだろうか。

愛しい存在が、気付いたら恐ろしい存在にもなっていた。気付いたら、財前光という存在が怖くなっていた。幸せという気持ちが、どこかに消え去っていた。いつからかなんて時期を明確には覚えていないけれど、恋人という関係になってからというのは確かだ。幸せのど真ん中にいたはずなのに、その世界に突如として現れた恐怖。痛みと共に現れたその感情に、最初は戸惑いを覚えたのを覚えている。否、最初だけでなく今でも戸惑いを覚えているのだけれど、それに慣れてしまっている自分がどこかにいた。


「い、嫌や…ごめ、ごめんなさ…っ」
「…うん?謙也さん、俺に謝るようなことしたん?」
「ちがっ、でも謝らなあかん気ぃして…っ」


最初は殴られて、首を絞められて、徐々にエスカレートしていく行為に恐ろしくなって、財前光という人物に恐怖を抱くようになった。暴力を振るわれるときもあれば、酷く早急に体を求められることもある。

怖い、でも嫌いになれない。むしろ今でも彼のことは大好きだ。でも、彼の愛情表現と呼んでいいのかワカラナイその行動が酷く恐ろしいのも確かである。いっその事嫌いなれたなら楽なのに、いまだに愛しいという気持ちを抱く自分に彼を嫌いになることなど無理なのだ。

押し付けられていた頭から手が離れたかと思えば、髪の毛を勢いよく掴まれて強制的に上を向かされた。髪の毛が抜けてしまうんじゃないかというくらい強く引っ張られて、痛いと叫べば鳩尾に拳が入れられる。息が詰まり一瞬息ができなくなって、目の前がチカッと光った。


「謝るようなら、最初っからせんといてくださいよ、謙也さん」
「あ…ごめ――ッゥ!?」
「俺は謙也さんのこと、ほんまに愛してんねやから」


そう言いながら首を絞めてくる財前の顔を見てみれば、彼は酷く悲しそうな顔をしていて。視界が涙で濡れてるせいでちゃんと確認はできないのだけれど、そんな顔をされればこっちも辛なる、と彼の顔を見て思った。悲しみが伝染するように涙が零れ、それと相俟って苦しさから声にならない呻きが洩れて意識が飛ぶ寸前で首を絞めていた手が離れていく。酸素の足りなくなった肺にどうにか酸素を蓄えて、再び逃げようと震える足をどうにか立たせる。そのまま逃げようと駆け出そうとして、財前の腕が俺の腕を掴んだ。


「は、離せ…やっ!」
「あかん…」
「な、何がやねん…っ」
「行かんといて、謙也さん――」


伏せられていた視線が上げられて、財前の瞳が俺の姿を捉える。その瞳の虚ろさに胸が苦しくなったけれど、なんとかその気持ちを押し殺して彼の腕を振り払い駆け出した。あまりにも寂しげで涙を流していた瞳に、心の中で謝りながらもその場から逃げ出す。ある程度走ってから財前が追ってくる気配がないと分かり、全力疾走していた足を止めた。


「っは…、ぁ、ざい…ぜん…っ」


首を絞められても、暴力を振られても、愛しいと感じている自分が凄く不思議だった。痛い思いをしても、突然の求愛で傷ついたとしても、自分は彼を嫌いになったりしたことは一度もない。理由なんて自分でもわからないけれど、しかし財前のあの悲しみに歪んだ顔を見ると胸が痛くなる。逃げてごめんな、という気持ちが徐々に芽生えてきて、俺は財前が追いかけてきていないのを確認してからその場にしゃがみこんだ。

暴力を振るってくる財前が愛しい。でも怖いから、もう少しだけでいいから時間が欲しいと思った。そうすれば冷静に何もかもが受け止められる気がしたから。

そう思えるのは、きっと普段の財前が優しくて、すごくあったかいからなのかもしれない。だからこそ、自分は彼の暴力すらも愛しいと感じられるのかもしれない。だってそれ以外の財前は、本当に俺を大切にしてくれるから。


(…明日から、ハイネック着てこ…)


首に残っているであろう彼の指の痣を撫でながらそう考える。きっとこの状態のまま部活にでも出たあかつきには、白石辺りが心配してくるだろう。財前も、その痕を見てまた傷つくかもしれない。

愛しい人の顔を思い浮かべながら、俺は暫くその場所で、静かに涙を流していた。



(20100703)
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