僕の世界はふたつしかない(幸仁)



「仁王」


目が覚めた。するとそこには愛しい人の寝顔があって、俺は思わず名前を呼ぶ。どうしてここに、とかいう野暮な疑問はどうせ夢の住人になっている彼には届くはずがないから、俺は上体を起こして彼の頭を撫でた。見た目どおりにサラサラな彼の銀糸は、指で梳くと川が流れるようなきれいな音を立てて流れていく。上手に手入れが行き届いているそれに、俺はふっと笑みを零した。


「――雅治」


昔俺が言っていた言葉を覚えてたんだね、と嬉しくなって俺は頭から手を移動させて手をぎゅっと握る。付き合い始めた頃、セックスの後に俺は彼の銀糸が好きだと言ったことがあった。妖艶で美しいお前似合っているね、と言った俺の言葉に恥ずかしそうに笑った彼を、俺は今でも鮮明に覚えている。いや、彼と過ごしたことならばひとつ残らず忘れずにしっかりを脳みその記憶媒体に残してある。彼と過ごしてきた時間は忘れたくない思い出ばかりだから、大切に大切にしまいこんであるのだ。


「かわいいな」
「……んっ」


自分の言葉に反応するように小さく唸った彼が愛しい。俺を愛する彼が大好き。言葉で収まりきらないほどに大きなこの感情は、何かに表せと言われてもきっと無理だろう。だがそれ以前に、表せないくらいに俺は彼を愛しているから、元々何かに表そうとするほうが馬鹿らしいのかもしれない。低体温の彼から伝わってくる温もりに目を細めれば、再び小さく声を出した仁王の目がゆっくりと開いた。


「……ゆき、むら…?」
「うん。おはよう、雅治」
「…起きとったんか」
「ついさっきね」


起こしてくれればよかったのに、と少し膨れっ面になる彼が可愛くてクスクスと笑えば、仁王は恨めしそうに視線を向けた。でもそれすらも可愛いよ、と口にすれば、仁王は頬をほんのりと赤らめて視線を床に向ける。嗚呼可愛いなもう、と抱きたい衝動に駆られながら微笑んでいれば、仁王はそういえばと思い出したように椅子から立ち上がって、近くの棚の上に置いてあった花束を俺に向けて差し出してきた。


「…なんだい?」
「幸村、花好きじゃろ?」
「精市」
「……精市は、花、好きじゃろ?」
「うん。好きだね」


雅治の次にだけど、と付け足して言えば彼は阿呆と更に顔を赤くしていうもんだから本当に可愛くて仕方がなかった。でもこれ以上言うと恥ずかしがり屋な彼は帰る、と言いかねなかったのでなんとかそれは踏みとどまって、俺は差し出された花を見つめる。白で統一された花のなかに、一本だけ水色の花がある。束ねられたこの花束がどうしたのと聞けば仁王はうん、と言って再びそれを棚に置いた。


「精市に、似合うおもったんじゃ」
「その花がかい?」
「精市が笑うと、あんな色じゃと思う」


儚い中に脆さがあるけど凜と咲き誇っているから、とわざわざ花屋に頼んで繕ってもらったんだと話す仁王が可愛らしくて無意識の内に抱きしめていれば、彼も少し遅れてから俺の背中に腕を回す。久々に感じた体温や彼の匂いに懐かしさを覚えていれば、仁王も同じなのかぎゅっと抱きついてきた。まるで子供が出掛ける母親を止めるために抱きつくような、そんなものを連想させる彼の行動が俺の父性本能をくすぐった。


「まったく、可愛いな雅治は」
「かわええ言われても嬉しくなか…」
「そう?雅治は可愛いんだから、自信持って認めていいと思うよ?」


からかうわけじゃなくて本気でそう思っているのに、彼は膨れて睨んでくる。しかし顔が真っ赤だから迫力はないのだけれどと密かに笑えば、雅治は突然表情を曇らせて俺の胸元にグリグリと頭を擦り寄せた。


「…精市が居なくなったら、俺も死ぬと思う」
「どうして?」
「おまんが居らんと、俺の世界は意味ないんじゃもん」
「それじゃあ、俺もそうだね」


付き合い始めた頃からそうだったけど、今じゃもう彼なしの生活は考えられないし、考えたくもない。この病院という隔離された世界では彼と会うことに制限がある。入院する前はいくらでも会うことができたから尚更で、ある一定時間しか会えないことがもどかしくて、苦しかった。現状にすら満足できていないような状態なのに、もう彼に会えないなんて事態になったらそれこそ俺はおかしくなるに決まっている。会えない、話せない、触れられない、繋がれないなんて、それは俺に死ねと言っているも同然だ。そしてなにより俺なしじゃ生きていけないんだ、と縋ってくる狂おしいほどに存在のためにも、死ねるわけがなかった。


「おまんが居らんくなったら、精市のこと恨んで怨んで、泣かんで呪って、そんで俺も死ぬ」
「それじゃあ、俺もおちおち死んでいられないな」
「…ええもん、精市は絶対に死なんから」


俺が死なせない、と何かができるわけでもないのに、彼の手が俺へと生命の源を送ろうと手に力を込めたように思える。そんな健気な行為さえも俺は嬉しくて、自然な流れのように唇へとキスを送れば、仁王はもっとと言うようにキスを強請ってきた。何度も角度を変えて口付ければ、瞳をとろんと蕩けさせた仁王はぎゅっと俺の体に抱きついた。


「精市、俺な…」
「うん?」
「精市の笑っとる顔、好きなんよ」
「ああ」
「やから、笑ってほしいんじゃ」


あの花みたいに、キラキラキラキラ笑ってほしい。生死を分ける手術直前の人間に無理難題なことを言てきているはずなのに、彼が言うと憎らしさではなく愛しさが込み上げてくるのだから、本当に不思議なものだ。無造作に置かれている花束に目をやって、俯きがちになっている彼の顔を自分の方へと向かせてから、俺は今感じている幸せを全部表現するように、笑った。


「…せい、いち…」
「なんだい?」
「俺はおまんのことが大好きじゃ、好き。やから…居なくなんて、ならんといて…っ」


壊れた機械のように何度も好きという言葉を口にする仁王の唇を、自分の唇で塞いで黙らせる。いなくなるはずなんてないだろう、という気持ちも込めて送ったキスは果たして彼に伝わっているのだろうかと思うが、ふわりと笑ったから伝わったんだなと安易した。でも、こんな彼を放って死ぬほど俺も馬鹿じゃないんだよ、と耳元で囁いてやれば、仁王はうんと首を縦に振って抱きついてきたのだ。


「…雅治を置いて行くわけなんかないだろう」
「おん」
「だから、心配するな」


俺の言葉に少し安心したのか、ふわりと笑った彼に欲情した自分だけれど、どうにか理性で押さえ込んで最後に深い口付けをした。消えるわけがない。大好きなんだから。愛しているんだから。

こんな可愛くて愛しい存在を放って逝けるほど、俺は冷めた人間ではないから。


「愛してるよ、雅治」


だから、お前と俺の間に愛の言葉で誓いを立てて。次会うときは、笑顔で笑い合おう。


(20100612)
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