06
「高杉ィ、お前今日ラーメン会来ねーの?」
「……俺、そろばん塾あるから」
二学期の期末テストが明けたある日の放課後、俺から一列はさんで右の席より聞こえてきた会話。ラーメン会とは今うちのクラスの野郎の間で流行ってる、駅前の北斗心軒でラーメンを食べてダベるというただの放課後の暇つぶしのことである。いや、楽しいんだけどね結構これが。
「え、お前塾とか行ってたの」という声を背に、高杉はさっさと教室を出て行った。その姿を見送った友人は「春一郎は来るよな?」と、こっちにたずねてきた。
「あー………」
俺はしばらく考えてから、「やめとくわ」と言った。学校の試験が終わったとは云え、今週末に迫った模試に向けて、どげんかせんといかんのだ。俺は筆記用具を鞄に仕舞って教室を出る。
まっすぐ家に帰るのではなく、図書室にこもるでもなく、俺の向かった先は駅とは反対方向のカフェだった。STAYBACKSCOFFEE通称ステバ。コーヒーが安くてうまくておかわり自由で長居の学生にも寛容と、まさに大学受験を志す者に優しいお店略してマダオなのである。
そろそろラーメン会も解散しただろうか、と思って携帯の時計を見たら八時を過ぎていた。コーヒーはそこそこ飲んでいるが何も食べていないので腹が減ったことに気づいた。
俺は店内を見回した。席についたときと何となく違うなあと思ったら、客が半分以上入れ替わっていたのだ。改めて時間の経過を感じて、伸びをした。
そうしたらふと、何かが見えた。
何かっていうか、何というかこう、担任の先生的な人の後姿のようなものが見えた。
「……えっ?」
俺は目をこすった。思わず声が出た。ああ疲れてるんだな俺、月詠先生の幻覚が見えてる。死に際には愛しい人の顔が思い浮かぶとかいうことを以前ドラマで聞いたけれど、なら俺死ぬのか。そうなのか。はははふざけんじゃねーや。
……いや、間違いない。あの後姿、ブロンド色の纏め髪、組まれた脚の長さ、絶対に月詠先生だ。本物だ。
先生は二人用の喫煙席に座っていた。立ち上がって見てみたら、何かの書類を出して作業をしている。仕事中なんだろうか。
声をかけるかどうか迷っていたら、視界に、またしても見覚えのある人物が入って来た。銀髪天然パーマに眼鏡の男。現国の坂田銀八だ。校内で見るような白衣ではなくスーツの上着をちゃんと着ていて、何だかいつもより社会人っぽく見える。この違和に僅かな不安を感じた。
そしてその不安を煽るかのように、坂田は月詠先生と同じテーブル、向かいの席に座った。俺に気づいた様子は無いけれど、彼の口が動いて何か喋っているのがちらちらと見える。月詠先生と会話しているようだ。ちきしょう、そこは俺の席なのに。
余計に話しかけづらくなり、あまつさえあの席から目が離せなくなってしまった。何話してるんだろうか、気になって仕方がない。勉強どころじゃない。いや、言い訳とかじゃなくて。
「………」
手からシャープペンが抜けた。反対の手に握っていた消しゴムも、テーブルの上にころっと落ちた。ああして二人でいるのを見ると、月詠先生の前にあった書類が本当に仕事のものなのかわからない。結婚式に関する相談でもしていたらどうしようか。そうでなくても、仕事以外のことで二人が一緒に何か話しているとしたら。内臓が煮える。
悶々としていたところ、一瞬だけ坂田がこちらを見たような気がした。本当に一瞬だけだが、目の逸れた次の瞬間に、坂田が少し笑ったような気がした。(馬鹿にしてやがる。)
「…と、……」
あ、何か聞こえた。と、俺が目を見開いたのと同時に、坂田が立った。月詠先生は俯いて書類に目を向ける。彼はカップを持って、こっちに向かってくる。
…って、え、こっち来んの?
「よーう、何やってんの春一郎君」
へラッと左手を挙げて、坂田が俺のテーブルに空のカップを置いた。
「お、受験勉強か。精が出るねえ」
彼はテーブルの上の日本史の用語集とノートを覗き込む。俺は一瞬迷ってから、「先生は何やってんスか」と聞いてみた。顔の上半分が力んでいた。
「何って、お前らの期末テスト採点してんだよ。国語科だから、お前んとこの担任に古典の採点手伝わされてるわけ」
坂田がしれっと言って、背後の月詠先生を親指で指した。
「………」
何だ、あの書類はテストだったのか。安心すると同時に先程の被害妄想が何だか恥ずかしくなった。しかし俺はそれを表情に出してはいけない。絶対に平静を装わなくてはいけない。
坂田銀八は暫くアンダーラインだらけの用語集をまじまじと見つめ、
「今回、古典難しかっただろ」
と、低い声で言った。俺は頷いた。実際そうだったからだ。
「月詠先生なんだよ。難しくしたの。お前も成績が上がってきたことだしな」
更に声を低めて、内緒話でもするように坂田が言う。
「え、」
どういう意味なのか聞き返そうとしたけれど、坂田が「いい先生だねえ」と特に何の感慨も無さそうに言って俺の声を打ち消したからやめた。俺はぽかんと口が開いているのに気づいて慌てて閉じた。
そこで訪れた三秒の無言の間に俺は計算をした。
そして、とても聞きたくないことを訊いてみるという大博打を打つことに決めた。
「あのー、」
声が少し上ずる。
「ん?」
「先生方って、付き合ってるんですか」
「は?突き合ってる?」
「いやいやいや何ヒワイな変換してるんですか許されませんよ(ていうか俺が許さん)」
坂田はきょとんとしている。冗談みたいなノリで訊ねたつもりだったのに、いつの間にかまた、睨み上げるようにして坂田を見ていた。月詠先生以外の教師と話していてこれほど心臓がでかく鳴っているのは、中二で学年主任に怒鳴られたとき以来だ。
神様、仏様、どうか。
坂田は眼鏡の奥から俺の目を見返して、長く長く溜息をついた。
「そんなわけねーだろ、馬鹿」
そう言って、俺の頭を軽く小突く。
そうですよねそんなわけねーですよね残念です。じゃあ俺全力で「ウェディング・ベル」歌うんで結婚式には呼んで下さ…………え?
そんなわけない?
少し遅れて意味を理解した俺の緊張の糸が、でろんと緩んだ。ガッツポーズが出そうになるのを必死で押さえ込んだ。
「え…え、でも仲いいじゃないスか」
すっかり安心して少し笑いながら続けたら、銀八は、ゴホン。とひとつ咳払いをした。そして口元に手をやり、俺の耳元でぼそっと話す。
「お前は知らねーだろうがなァ、あの先生、ああ見えてかなりの酒……」
「しゅ?」
その時だった。
耳のすぐ傍を、ヒュンッという音と鋭い風が過ぎていった。振り返れば俺の後ろの壁に赤ペンが突き刺さっている。つまるところ、俺の顔と銀八の顔との間隙をこの鋭い物体がすり抜けていったのである。
これほどまでに正確無比なコントロールで筆記具を飛ばす人間は、―少なくともこの場においては、C組担任にして俺の将来のお嫁さんたる月詠先生に他ならない。
月詠先生は、ハイヒールを美しく響かせゆっくりとこちらに歩いて来た。
「しゅ、……シュークリームが好きなだけじゃ」
先生が目を逸らして言う。可愛いが、絶対うそだ。うそが下手すぎる。
「嘘つけお前そんなカワイイ感じなわけねーだろ!どっちかっつーと寧ろシュープリーム・サンダーだるのあふっ!」
俺の世代にはよくわからない例えで抗議をした坂田銀八が、やや頬の赤く見える月詠先生のアッパーカットにより撃沈。(あーめん。)月詠先生がテーブルの上の勉強道具を見て、俺を見て、少しだけ優しい顔をした。
「頑張っておるな」
「はいっ。…今週末、模試があるんで」
顎を押さえて悶える坂田先生がちょっと心配になったがまあ別にいいや、月詠先生に誉められたから。
先生と目が合って、俺はほぼ反射的に口を開いた。
「あ、……あの、古典のテストなんですけど」
「何じゃ」
さっきのことを聞いてみようかと思って……やめた。
「………俺、何点ですかね」
「テストの返却は明後日の古典の時間に行う。それまで待ちなんし」
「えーっ」
「ぬし一人だけ特別というわけにはいかん」
「…………」
月詠先生は「坂田先生、そろそろ帰りんす」と言い、未だまともに動けずにいる彼をずるずると引きずってテーブルに戻っていった。坂田のコーヒーカップ(おかわりでもするつもりだったんだろうか)が俺のテーブルに残ったままだ。俺はそれを片付ける気にも、喫煙席まで返しに行く気にもならなかった。
「春一郎も遅くならぬようにな。風邪をひいては元も子もありんせん」
「はいっ!」
声を張った月詠先生に、俺は全力で返事をした。
用語集を鞄に放り込んで、思う。
あの二人は何だかんだで仲が良い。銀八は何か月詠先生の秘密(しゅ…?)を知っていて、それはきっと俺に知られたくない秘密。充分に嫉妬の対象である。何一つ進展は無い。
うーんでもまあ、付き合ってないだけ、いっか。
……いいのか?
複雑な気分で溜息をついて、俺は、すっかり冷めたコーヒーの残りを一気に飲み干した。