05
雨の音だけがうるさかった。先生の両手を自分の両手で包んだまま、どのくらいの時間が経ったかわからない。
ヒーターが再びブーンと静かに唸って、送風を始めた。
「……春一郎…」
月詠先生が俺の名前を呟いた。低い声だ。手の中の手が少し動いた。
それまでグッと息の詰まるような気分だった俺は、急にハッとして、慌てて手を離した。目が覚めたような、水中から顔を出していきなり呼吸が自由になったような感じだった。
…………………………………っていうか、俺何やってんの!?
手とか、握っちゃったりとか、いや俺グッジョブといえばグッジョブだけど、何してんの!?
「せっ、せせ先生…」
すみませんっ!と、謝るべきだろうと思った。だって今のは明らかに教師と生徒との間柄の範疇を超えてしまってた。いやある種興奮するけど……でも、やっぱりマズい。というか気マズい。
バクバクバクバク鳴る心臓を押さえつけながら「す、」発音しかけた。が。
「…済まん」
先生が先に謝った。一瞬、また息が出来なくなった。
「い、いえ…」
「気にしないでくれ」
月詠先生は机の上の書類をファイルに収めた。そして膝元の赤いマフラーを椅子の背に掛けた。いつもの先生の顔だった。
「時間が押している。また後日、改めて進路室に来なんし」
「…はい」
「進学するなら、どこで学ぶかより何を学ぶかの方が重要な問題じゃ。成績の心配も大事だが、そちらもよく考えておけ」
「……はい」
失礼しました。と大人しく言って、俺は進路指導室を出た。先生は目を合わせてくれなかった。
ドアを閉めた瞬間、次に面談が入っていたらしい河上と目が合った。彼は廊下の壁に寄りかかって、iPodで何か聴いていた。互いに「よっ」と手を挙げる。
「長かったでござるな」
「ああ、うん、まあ」
俺は曖昧に返した。
河上はイヤホンを外してサングラス越しに俺を見つめて、
「何かあったでござるか」
確信したように言い、少し口角を上げた。
「はは、…何もねーよ」
少したじろいで俺は返す。河上はすれ違いざま俺の肩をベシンと叩いて、進路指導室に入っていった。
察しの良すぎる奴って、時々、空気の読めない奴より困る。
でも、俺、決めた。
駅の近くの予備校に「ご自由にお取り下さい。」と置いてあった進路パンフレットを二種類三種類かっぱらって、雨の中、走って家に帰った。そして確認した。○×大も、●△学院大も、ある。どちらも免許を取れる。
それから教科書と英単語帳と辞書を出した。そして、自分史上かつてないほど集中して勉強した。……集中しすぎて、いつの間にか寝てしまっていたことにも気づかなかったらしい。
ハッと気づいたら、とんでもない時間だった。
「はざっす!」
「何じゃそれは」
「おはようございますの短縮形です!」
「……とりあえず、完璧に遅刻でありんす」
進路面談の翌朝。電車を降りてから走って走って教室に辿り着いたのは八時三十八分。朝のSHRはとっくにはじまっていた。教室の前のドアから勢いよく入ったけれど、月詠先生には出席簿に×らしきものをつけられた。ええええー!と大げさに嘆いたら笑いが起きた。
よたよたと自分の席に向かいながら、河上と目が合った。頬杖をついていた彼は、また無言のまま口端を吊り上げる。俺は河上の二つ前の、自分の席に座る。座って、机の上にへばる。
「これ春一郎、おはようを言った矢先に寝るな」
「起きてまーす」
ちろっと顔を上げれば、先生と目が合う。大丈夫だ、いつもの先生だ。昨日の辛い顔なんか微塵も引きずってない。大丈夫だ。
だからSHRが終わって先生が教室を出てすぐ、俺も廊下に出た。
「先生!」
「む、どうした」
「俺、進路決めました」
自分の声がちょっとかっこよく聞こえた。…って言っても、いつものアホっぽい声なんだけどさ。
月詠先生は丸く目を見開いている。昨日の今日だからそれもそうだろう。俺は深呼吸してから、
「高校の先生に、俺はなります」
「…は?」
「理由はまだ内緒ッス。でも、ルフィが海賊王になるのと同じくらい確実に、先生になります」
言い切った。
月詠先生はきょとんとしていた。俺の心臓が大きく鳴っている。先生が薄く口を開いた。
そして、……いつものクールな微笑じゃなくて、本当に、ただの女の子みたいな笑顔を出した。
どうしよう、可愛い。どうしよう。
「先生」
「何じゃ」
「昨日みたいに辛くなったらいつでも言って下さい。春一郎のココ、空いてますよ」
どこかの芸人よろしく脇の辺りをぐるぐる指してヘラっと笑ったら、馬鹿者。と、出席簿で頭をはたかれた。
職員室の方へと消えていく先生の足取りは軽やかだった。俺はあくびを噛み殺しながら午前中の授業を受けた…つもりが、三限の現国でやっぱり寝てしまった。