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廊下は静かだ。静かだから寒い。そこそこヒーターのきいた教室とは空気の差がありすぎる。そして窓の外の木枯らしはもっと寒そうだ。凍るだろうな、今そこに出て行ったら。
少しの沈黙のあと、頭をコツンとやられる。痛くは無い。月詠先生は顔を逸らす。俺の方を見ない。先生のこぶしが俺の頭を離れて1秒、
「…もう渡してある」
「え、誰に」
「……さあ、のう」
動揺しながらも先生の目を見た。ぼんやりしているように見えるのは気のせい?上の空みたいに見えるのは、目の錯覚か?いやそんなことない。俺、すっげー目いいもん。両目2.0だもん。
先生は俺の方を見ないまま、職員室に向かって歩み去る。階段を降り、足音が遠のいていく。胃を冷やした俺が立ちつくしていると、入れ替わるように坂田銀八がC組の教室に近付いてきた。そういえば一限は現国だ。坂田は俺を見て、ひょっと手を挙げる。
「よー、お前何やってんのこんなとこで。一人隠れんぼ?」
「誰が野原しんのすけですか。………」
辛うじてツッコむと、坂田から目を逸らしていた。消火栓の上の薄い埃が朝陽に光るのを見ていた。すると、坂田に頭をガシッと掴まれる。そしてぐいっと下げられる。後ろに。
「痛だたただ」
「何だよー、上の空じゃねーかよ春一郎君。チョコでも貰ったのか?告られちゃったのか?」
「ちげ、ちが、つーか離せし」
言うと、案外パッと坂田の手が離れた。海老反りから普通の姿勢へ、俺はゆっくり戻る。(部活引退してから体固くなったな。いかんいかん。)
「…オメーが何気にしてんのか、何となくわかるけどよ」
彼が面倒くさそうに言いため息をつく。
「気を揉んでも事実は変わんねーし、これから誰が誰に何渡すかも変わんねーよ。揉むのは婆ちゃんの肩に留めとけ」
「……はァ…」
そこで下ネタには持ってかないんスね、今日は。とは言わない。坂田銀八の眼鏡の淵が、振り向きざまにキラリ。あー、この男、この余裕。何なんだよ。
ウザいとかムカつくとかジーラスとか通り越して、何だかむなしくなる。
「さっさと教室入れ。授業始めっぞ」
坂田が戸を開け、教室の中が少し鎮まった。それでものヒーターの効いた教室はあたたかい。というか生ぬるい。
アララギ派だの、カメハメ派だのの説明を生ぬるい姿勢で聞き流し、その間日本史を内職し、それでも生ぬるさにまかせて頭の中には月詠先生のさっきの顔が何度も登場する。そこに坂田の声がかぶさる。
午前中の授業は愚図愚図に終わった。
4限終了のチャイムが鳴ったとほぼ同時に、どどどどっとものすごい勢いで走る音が聞こえた。そしてその音はこちらに近づいてくる。
バンっとドアが開いた。(引き戸なんだけどなあ。)
…息を荒げ、顔を真っ赤にし、必死の形相の、猿飛さんが立っていた。
「あれっ?さっちゃんじゃん!どうしたの」
入口付近で彼女に応対した女子の声を聞いたのか聞いてないのか、つかつかと教室の真中少し後ろの俺の席まで歩み来て、俺の腕を掴み、猿飛さんはそのまま教室を出た。その間無言。俺は引っ張られるがままに廊下へ出る。そのまま階段を下りて一階、保健室前を通って、人気のない美術準備室前。
それなりに人目を引いたと思う。何せ怒ったような顔した女子が豆鉄砲くらった鳩みたいな男子を引っ張ってかなりのスピードで廊下を渡っているのだから。目立っただろうと思う。
そんなことをボンヤリ考えながら、目の前で俯く猿飛さんに「どーした?」聞いてみた。
返事、なし。
しかし、ただの屍には見えない。ちゃんと息してる。息荒い。泣きそうに荒い。
「・・・どーしたんだよ、いきなり」
2回目の問いかけ。猿飛さんは顔を上げる。やっぱりだ、目がうるんでいる。
俺の腕を掴む手の力がちょっと強くなった。
「・・・言えない。やっぱ言えない」
「え?」
真っ赤になった両頬に、涙がなめらかな曲線を描いた。
「銀ぱ、ち先生にね。チョコ、渡そ、うと、思ってね」
「・・・うん」
「だけど、ダメ。無理。言えない。渡せない」
猿飛さんの頬から水滴がふたつ落ちる。
「何で?何かあったの?」
「何もないけど、」
今朝の勢いはどこへやら、彼女は手で顔を覆う。そして、すずず…と衣擦れの音を立てて、その場にへたり込む。
「…渡し方わかんないの」
「…うん。……うん!?」
「何言ったらいいかわかんない。何て言ったら好きになってくれるかとか、どう渡したら可愛いって思ってもらえるかとか、考えてたら、わかんなくなって」
顔を隠したまま、彼女は喋り続ける。こんなに悩んでいても、自分の悩みをきちんと把握しているから、彼女は饒舌なんだろう。
「でね、本当に馬鹿みたいなの。私の半分は馬鹿でできてるの。もうダメ。こういうの考えだしちゃったから、今日はもう渡せな、い、」
それ以上の言葉は続かず、猿飛さんは黙りこんだ。泣く音だけが美術準備室前に響いた。
「……だいじょぶだって」
しゃがみこんだ俺は、何の考えもなしに、慰めっぽい言葉をかけた。
「普通でいいんだよ」
「普通ってどんなのよ」
猿飛さんが目から手を離して、俺の目を覗き込む。俺は目を覗き込まれる。どきっとする。そうだ、体育祭で、包帯巻かれたときと同じ。きれいだけど、真剣に切実に坂田銀八のこと大好きな目。
「……俺もわかんねーけど、でも、普通で大丈夫だよ」
「……私普通じゃないもん」
声が霞む。
「普通だろ」
「先生のこと毎日毎日追っかけてても?」
「普通、普通。俺だって、目では追っかけてる」
「先生のこと全部全部知りたくて、独占したくても?」
「…そーいうもんじゃねえの?」
俺のこと好きでも何でもないくせに、彼女はまた学ランの袖を掴む。左腕を掴まれ、猿飛さんに見上げられ、何の勘違いも起こらないように、俺は深呼吸をする。
それでも、何故だろうか。猿飛さんの問いかけに答えるたび、自分の胸中の錘も、少しずつ取れていく気がするのは。
「だいじょぶだから、行って来なって」
何の解決にもアドバイスにもなってないだろう俺の言葉に、それでも、猿飛さんは、静かに頷いた。
カタルシス、
という言葉をいつだかの現国で聞いたことがあって、確か「浄化」の意味だった。