10
雨である。
入試当日というと降雪で電車が止まってオーマイガッ!なイメージがあるが、雨である。豪雨なう、である。
勿論受験票やら何やら大切なものは鞄の中のクリアファイルに入れてしっかり保護してある。電車の方も今のところ通常通りの運行をしている。だから問題はない。
が、何となく嫌だ。雨は嫌い派だ。風流とかわかんねーもん。嫌なもんは嫌だもん。それに、無駄に寒いし。
電車を降りて、人ごみに揉まれながら改札を抜け、既に雨でべしゃべしゃの傘を広げた。サアアアと降る雨の音に、背後からの駅のアナウンスが霞む。
いよいよ本番だ。入試当日。
ステバにこもって勉強し、家でも勉強し、学校の授業も超まじめに聞き…と、以前の俺ならビックリな生活を送って4ヶ月弱。
うん、行ける。多分行ける。
俺は男だ。
それにツッキーのご加護もある。大丈夫だ。
制服の胸ポケットに入れたお守りに、ダッフルの上から手を当てた。
……前日。2月14日。
2月14日と言えばアレである。菓子業界の陰謀とか何とか云いつつ日本男児なら皆心の奥底でちょっと期待している、例のアレだ。聖ヴァレンティヌスが恵まれない人たちに恵みを与えたことに端を発するというアレだ。
事前に義理チョコをひとつゲットしていた俺は、本命がいつ来るかいつ来るかとそわそわせずにいられなかった。キャナットヘルプビーイングそわそわだった。もちろん目当ては月詠先生である。
朝のSHR前、C組の教室に猿飛さんが来た。そしてまっすぐ俺の席に向かい、開口一番「私今から行ってくるから。」と律儀にも報告をくれた。「ウン、頑張れ」と月並みな励ましをかけると、「ええ、頑張る!」と真剣な表情でガッツポーズを入れ、彼女は去って行った。右手と右足が同時に出ていた。
ふうん、普段から派手にアタックかけてる猿飛さんでもこういうの緊張するんだ。意外。
と思っていたら、
「お前いいの?」
喋っていた友人が声をかけてきた。
「は?いいって、何が」
「春一郎、最近さっちゃんといい感じだったじゃん。坂田に取られていいのかよ」
「…ナンデスカソレハ」
突拍子もない言葉に唖然としていると、奴は教えてくれた。俺と猿飛さんが噂になっているのだということを。ここ何日か、一緒にいる場面を何度も見られているということを。猿飛さんが俺にチョコらしき包みを渡す場面について、目撃証言があることを。
ちょっと笑えるが、誤解が広まったら面倒くさい。ので、しっかり否定はしておいた。そんなことより月詠先生だ。
システム英単語をぼうっと見つめながら悶々としていたら、当の先生が教室に入ってきた。うん。いつも通りの先生だ。ビシッとしたスーツで、髪もまとめている。いつもよりお化粧に気合いが入っているという感じでもない。ざわめいていた教室が、「はじめるぞ、日直」の一言で鎮まる。
挨拶を終えて着席。先生何話すんだろう、と緊張が走る。よもやチョコレート持ち込み禁止だなんてお堅いこと……いや、考えてみたら言いかねないぞ。だって月詠先生だもの。
「2点連絡事項がある。まず1つ目、先週配った卒業記念DVDの申込書は明日が締切じゃ。購入希望で未提出の者は今日明日中にわっちに提出するように」
「2つ目、今日は世間でいうバレンタインらしいが、………」
バレンタイン、という言葉にクラス内の空気がフワッと浮く。
「……授業中にチョコを食う阿呆が毎年いる。それだけはやめなんし」
ここで教室がドッと湧いた。空気が和んで、ストンと落ち着いた。多分、ここで落ち着かなかったのは俺のみ。
「以上。」と言って去ろうとする先生を教室入り口でつかまえる。
「先生!」
先生が振り返って、「春一郎」と呼び返す。
「む、どうした」
「これDVDの申込書ッス」
紙切れを先生に渡した。渡した瞬間に指先が少し触れた。先生の指は今回も冷たかった。
月詠先生は「了解」と言って申込書をファイルに挟む。
その所作が、超どうでもいい所作が、なぜかすごくきれいに映る。ああわかった指がきれいだからだ。なるほど。
……今日バレンタイン、だよね。
「提出はぬしが初じゃな。あのDVD、毎年半分くらい校長の映像らしいが」
「うわマジすか。どうしよう止めようかな、………」
言いかけて、………バチッ。と音が聞こえそうなくらい強烈に、先生と目が合った。表情筋の使い方を一瞬忘れる。
吐く息が震える。
「って、ていうか先すぇは、」
うわ噛んだ。
「チョコとか…………………」
言いかけて止まった。どうしよ、チョコ下さいなんて言うのも情けないし、チョコ好きなんですかと程良く的外れなこと言うには空気が固い。
月詠先生の目が2割増しで丸くなる。
「……渡すんですか。誰かに」
結局、聞きたくないことを聞いてみた。語尾が低く小さくなった。
教室の賑わいが、廊下の静けさに霞んだ。