08
「あんた馬鹿ァ?」
言い放ったのは我らがアスカ姐さん、ではなくZ組の猿飛さんだった。
「だってさー…」
「だってさーじゃないわよ新年早々何をやってるの!ナニをヤるくらいしておきなさいよ。せっかく深夜に二人っきりで良い雰囲気だったのに、馬鹿じゃないの?馬鹿でしょ?春一郎の半分は馬鹿でできてるでしょ?」
「この際馬鹿は認めるけど白昼堂々女の子がそういうこと言うな。…ってかさ、別に良い雰囲気っていってもそういう感じじゃねーし」
俺は、はあああああと溜息をついた。
センター試験が終わったある小春日の昼休み、俺は猿飛さんと屋上で昼食を取っていた。決して浮気ではない。入試関係行事が一つ片付いたところで、大晦日の晩のあのことについて、猿飛さんに相談してみようと話を持ちかけたのだ。…その人選が適切であったかどうかは、微妙かもしれないが。
「暗い」
「は?」
猿飛さんが、納豆巻を頬張りながら言う。
「春一郎って、普段はそうでもないのに、恋愛のことになると暗いわよね」
「……」
「ぐちゃぐちゃ考えすぎなのよ、あなたは。私なんて冬休み中銀八先生のお家にお邪魔したわ」
彼女は平然と言い放った。「え、」と俺は上体ごと猿飛さんに向き直る。
「クリスマスには自分をプレゼントしたし、年賀状にも先生への愛の気持ちを綴って手渡ししたわよ。葉書500枚分くらいになったけど」
「……警察呼ばれなくてよかったね」
「警察どころか、先生、私のこと心配してくれたのよ。『お前頭大丈夫か?』って、一晩中外でスタンバってたから風邪で熱出してないか気にかけてくれてたんだわ!きゃー!」
「それ違うような気がする!」
…やっぱり人選をミスったかもしれない、と思った。そもそも何故いきなり女子に相談?というのはさておこう。銀八の顔でも思い出したのか、頬を染めて盛大に身もだえする猿飛さんは恋する乙女らしいといえば乙女らしい。が、やっぱちょっとアブナイ。
それでも大晦日のことをぐるぐる考えているうちに体育祭の一件を思い出して、何となく頼ってしまったのだ。
こぼれた納豆が一粒、しなやかな糸を引く。猿飛さんはそれを器用に救い上げ、海苔の上に乗せた。
「春一郎は、ツッキー先生のことどう思ってるの?」
猿飛さんが、唐突に真面目な顔と声をする。
「は、え?」
勿論好きだけど、と言おうとしたら、いきなり、飲んでいたお茶が喉から逆流するような気分になった。バス停での年越しを思い出した。ひたすら月がきれいだったのに、自分が何をどうしたいのかさっぱりわからなくなった、奇妙な年越し。うまく日本語が出ない。
「す、……」
言いかけて止まって三秒の静寂。呆れたように溜息をついて、猿飛さんは、食べ終わった納豆巻のビニールをコンビニ袋に押し込んだ。そして、膝歩きで一歩、俺に近づいた。
で、俺の頬に手を当てる。
「え、な、何」
正直かすかに納豆のにおいがするのでアレなんだが、その、視覚的にはとてもドキッとする状態である。何しろ顔が近い。大晦日、先生と並んで歩いていたときの倍ほど近い。そして結構猿飛さんが可愛いという事実、…いやでも俺は浮気しません一生月詠先生を想い続けます。とは思うが、彼女の顔はどんどん近くなる。そして最終的に、
「………っっっ!」
…最終的に、俺の額と猿飛さんの前頭部がものすごい勢いで衝突した。つまり頭突きを食らった。それなりに痛い。今ので英単語が30ほど抜けていったような気がする。まだ2月の入試が残っているのにどうしよう。
「っっっってえええええ!痛てェ!なっなななな何すんねんドアホ!」
「あら、そのネイティブに怒られそうなエセ関西弁…あなた超パフュームに入らない?」
「いや意味わからん!なぜ今頭突き!?忘れかけてたけど猿飛さん保健委員だよね!?」
「うるさいのよ、この青緑男。『ムラムラします』くらい言ってみなさいよ。ほんっと情けないわね!」
「なさっ、」
言い返す前に猿飛さんに襟首を掴まれた。
「あなたがツッキーのこと好きならそれでいいでしょ!伝えればいいのよ!先生だから何?逆境だから何よ!むしろ興奮するじゃないのよ!」
「いやあの、」
大声で叫ばれて辟易する。幸い屋上には俺たちしかいないけれど、誰かに聞こえてしまいそうな、…全世界に俺が月詠先生のこと好きだって発信してしまいそうな、そんな勢いのある声だった。
「で、も」
俺は掠れ声を出す。
「そうじゃなくて、その、月詠先生、」
夕日に照らされた月詠先生の切なそうな顔を、またしても思い出した。銀八を見ている顔、あの顔。そして、体育祭で猿飛さんが俺を見上げたときのその目。
「ぎ、いや好きな人がいるかもしれなくて」
言った途端、予鈴が鳴った。二人とも無言のまま、動かないまま、能天気なチャイムの音を聞いていた。随分長いチャイムだった。鳴り終っても、余韻が耳にしつこく残った。
「……体育祭の時は私と『同じ』かと思ったけど、取り消すわ」
猿飛さんが急に静かに言う。
「一緒にしないで。あなたは現実見てるんじゃないの。甘ったれてるのよ」
そう言って、俺の襟から手を離した。猿飛さんの拳が僅かに震えているのが見えた。俺の首も震えた。
ストーカーまがいのアプローチをかける女子と俺とが同じだとはもちろん思わないけれど、それでも猿飛さんの声が胃に突き刺さった。
「ああ、もう」
まだ何か言いたげにしていたけれど、猿飛さんはそれ以上言わなかった。唇をかみしめるみたいに、口を真一文字に引き結んでいた。泣きそうな顔だった。目の前で女の子が泣きそうなのに、今俺はどうすることもできない。
日差しのあたたかかった屋上に、ぴりぴり寒い風が吹く。その冷たさに麻痺した頭で、ただ唐突に、月詠先生にキスをしたくなった。