短編 | ナノ

 
 
 「歌さん」


 仕事が終わり、帰り始める背中を呼び止めた。手には小さな紙袋。さあ今こそ、昨日の頑張りの成果を見せる時だ。

振り返った歌さんはなに?と小さく微笑んでみせる。派手さはないものの相変わらず、女の子なら思わず見とれてしまうほど思わせぶりな優しい顔。
しかし、見とれている暇はない。私は手に持った袋をぱっと差し出した。



 「あの、これ・・・!」
 「え?」


不思議そうに私の手元を見つめる歌さん。とりあえず受け取って欲しいという意思だけは通じたのか、ありがとうと言って紙袋をゆっくり取り上げた。


 「今日は不思議な日だね。朝からいろんな人に物を貰うんだ」
 「は、はあ・・・」


 この人。か、仮にも仕事でお菓子を扱っているのに、もしかしてバレンタインを忘れてる?・・・いや、有り得る。何故なら彼が歌さんだから。甘い笑顔や思わせぶりの発言とは裏腹に、その実肝心のイベント類は総無視とは。まったく、天然もここまで来ると呆れるしかない。

悔しいから、それはモテてるんですよ、とは言ってやらないことにした。言わなくても一ヶ月単位で彼女が入れ替わる彼のことだ、自覚くらい・・・いや、してないかもしれないけれど。



 「・・・今日、2月14日ですよ」
 「あ、バレンタインって今日だったんだ」


やはり忘れていたようだ。まあ、知っていただけ立派というか何というか。おそらくチョコレートであろう贈り物の、その理由にもようやく気付いたことだろう。今日、彼にチョコを渡した女の子達のことを思うと胸が痛む。
彼女達の健気な勇気はこの人の前には何の意味も成さないのだ。余りに報われない。虚しい勇気だ。・・・私を含め。


 「すっかり忘れてた」
 「・・・歌さんらしいとは思いますけどね」
 「ありがとう」
 「褒めてはないです」


 相変わらずのキラースマイルにわざとそっけなく答える。そうでもしないと打ちのめされてやって行けない。彼の一挙一動に逐一反応していたら身が持たない、と頭の中で言い聞かせた。



 「違うよ」


私の思考を遮って、彼は言った。

 「ええと、どういう意味ですか?」
 「チョコありがとう、って意味」


・・・そう来たか。
惑わされないようにと決めた決意が、一瞬にしてぐらつく。人並みの基準を彼に当て嵌めてはいけないとわかっているはずなのに、歌さんの笑顔は思考をぼやかす。



 「たくさん貰ったから、なまえさんにも一つあげるね」

 何て非常識な言葉なんだろう。バレンタインの意味をわかっているのかいないのか。わかってやっているならかなりの性悪である。

そして、自分のあげたチョコさえ食べてくれるならいいかと思ってしまう私もまた、性根が悪いのだ。先ほどは彼女らに対する同情と、仲間意識さえ抱いていたのに。歌さんの言葉がご都合主義の結論へと思考を導いたのかもしれない。




 「・・・女の子泣かせの歌さんだから、その中に毒入りチョコもあるかもしれませんね」


何とかそれだけ、厭味ったらしく言ってみたけれど、彼には効かなかったみたいだ。


 「じゃあ、安全ななまえさんのチョコだけ食べるね」



・・・本当に、ご都合主義。


20110214

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