あいつはすぐに泣く。ポチエナのいかくを見たり、ガーディに吠えられたり、アリアドスなんか見ただけで瞳を潤ませるのだ。小さい時から何も変わらない、弱い奴。そして、そのすぐに泣く弱い奴を泣き止ませるのは昔からいつも自分の役目だった。
ポチエナやガーディやアリアドスの前で足がすくんで、泣きながら動けないあいつの前に立って、それらを追い払ってやった回数は数え切れない。あいつを泣かせた他人にやり返した数も、同じく。あいつはその度に僕に抱き着いて「ありがとう」と言った。それがお決まりのパターンで。
だから、今日も同じようにしようとした。それだけのこと。
「何、泣いてんのさ」 「っ、ヒビキ、くん・・・」
しかし、僕の服の袖のところを掴んで、馬鹿みたいにボロボロ泣くなまえは、いつものように甘えて抱き着いてはこない。 せめて手を握るだとか、腕に顔を押し付けるだとかしてくれればよかったのに。そしたら遠慮なく抱きしめてあげるのに。
頑なに僕に触れることを避けたなまえは、腕のぶんだけの距離をおいたところで一人で泣く。最低限だけ触れた指は震えているのに、それでも僕を頼ろうとはしない。 全く、迷惑な奴だ。そんな中途半端なことをされて困るのは僕だというのに。いつものようにいかないことに対する少しの困惑を乗せて、僕はなまえに再度問い掛ける。
「・・・どうしたの」 「っ、・・・く、っヒ、ヒビキくんの、せいよ」 「はあ?」
僕?何故に僕。 僕が一体何をしたと言うのだ。なまえが泣く度に必死になって慰めて、報復までする僕に何の不満があると。感謝されこそすれ、泣かれる理由はないと思うのだが。
「何か、僕に不満でも?」 「そこ、そういうとこっ・・・」
なまえは袖を握っていない方の手で目元を拭い、指を雫で濡らした。それも、いつもなら僕の役目だったはずで。
「ヒビキくんの、その・・・いつも慰めてくれるとこが、いや」 「はあ?!」
先程よりも大きくなった「はあ?」に、なまえは肩を大きく跳ねさせた。その仕種が僕に対して本気で怯えているように見えて、そのことがまた癪で、思わずその肩をぐいと引き寄せた。僕よりずっと細くて白い肩は少しの抵抗を見せたが、構わずに抱きしめる。震えていた身体が固くなった。
「やだやだ、やめて!」 「・・・」
止めてほしいのは僕の方。どうしてこんなに嫌がられなくてはならないのか。
それに、「慰めてくれるとこがいや」なんて。いつも泣きついてくるのはそっちじゃないか。自分はただ、それを受け止めていただけだ。泣いている女の子を前に、他に何をしろと言うのだ。甘ったれるなと説教でもすればいいのだろうか。それとも、いっそ冷たく突き放してやれば満足なのだろうか。矛盾してる。そうしたらそうしたで泣くくせに。
「放してよぅ・・・」 「何で?」 「だって!」 「・・・だって?言ってくれるまで放さない。泣いてる理由もね」
耳元で囁いてやれば、抱きしめた身体が更に固くなった。離れようとして抵抗も強くなる。涙の量も、増えていく。
「・・・放して・・・」 「却下」 「・・・」 「なまえ、黙ってちゃわかんないよ」 「・・・」 「ちょっと」
そんなに僕に話したくないのか。なまえにそこまで嫌われる理由がわからない。わからないからなまえの顔色を窺って手がかりにしようと思ったけれど、下を向いていてそれすら見えない。どうしようもない状況にため息をつくしかなかった。
「・・・」
はあ、と吐いた息に釣られるように俯いていた顔が上がる。ようやく見えた顔は、やはりくしゃくしゃに泣いていて、真っ赤になった潤んだ目が僕を睨みつけた。
「・・・面倒くさいって思ってるんでしょう」 「は?」 「今、面倒くさいって思ってるんでしょ・・・!?」
言ってるうちに涙が盛り上がって、ついにはうわーんと幼い泣き声が上がった。確かにこれは面倒くさい。面倒くさいが、泣かせてしまったのが自分だということが分かったからには何とか泣き止ませなくてはならない。それが僕の役目だ。
「なまえ、別に面倒くさいなんか思ってないから」 「思ってるもん!いつも!慰める時はいつも思ってるもん!」
すごい剣幕だ。こんなに声を荒らげるなまえを見るのは数年ぶりかもしれない。数年ぶりの怒りを引き出させるなんて、一体自分は何をしたのだ。皆目検討もつかない。とりあえず謝るしかない。
「思ってないって。なまえが泣いたら、慰めるのが僕の役目だし」 「思ってるじゃない!役目だって言った!」
それって"義務だから仕方ない"と同じ意味じゃない、と嗚咽を漏らす。抱きしめた身体は泣くことに体力を使ったからか、大分緩んで、そのかわり再び震え初めていた。
「ヒビキくんは、役目だから慰めてくれるだけだもん。他の人が慰めてくれたら、慰める理由が無くなってほったらかしにするくせに」 「・・・」 「ヒビキくんなんて、だいっきらい!」
うわあああん、わあああん、目をぎゅうっと閉じて全身で泣くなまえ。こんなに泣いているのも数年ぶりだ。 しかし、僕の頭の中を支配する感情は哀れみではなく戸惑いでもなく、他のものだった。
「・・・誰?」 「え?」 「慰めてくれる人って、誰?」
自分でもそうだと分かるほど、冷たい声が出た。その声色に、なまえはまたびくっとして身を強張らせる。その様子がむしろ僕の声色をより冷たく大きくさせることになってしまうのだが。
「ね、誰?」 「っ、ぐ、グリーンさん、とか、シルバーくん、とか・・・?」
弱々しい声で呼ばれた名前に苛立つ。先程までの戸惑いとか呆れとかじゃなくて、確かな怒りが生まれてきたのを感じた。なまえはそれを察知して、力無く眉を下げた。
「何、なんで怒るの・・・」 「怒ってない」 「怒ってる・・・」
確かに僕は怒っている。なまえだけじゃなくて、グリーンさんとかシルバー、僕自身に対しても。
「ごめ・・・、もう、泣きついたりしない、面倒かけないから、怒らないで・・・」
――――ふざけんな。
「ヒビキく・・・、やっ!?」
片手で腰を思い切り引き寄せた。互いの腹が密着してピッタリと隙間が埋まり、ぶつかった腰と腰。なまえは必死に身体を反って離れようとしていて、端から見たらまるで性交でもしているかのような怪しげなシルエットになっていることだろう。時折なまえから漏れる嗚咽もまた、"そんな雰囲気"を際立たせていた。
「や、ヒビキくん、いたい・・・っ」
ボロボロ涙を零しながら言うのが癪に障って、空いたもう片方の手で頭も引き寄せた。腹筋を使って必死に抵抗しているけれど、所詮は男女の差だ。少し力を入れたら動かせないことはない。
「や、ヒビキく、んうっ」
ムカつく口を嗚咽ごと塞いでやれば、抵抗が止んだ。苛立ちの原因が2つ減って、少し気分が良くなる。何だ、初めからこうすればよかったのか。 唇の端を舐め取れば塩の味。薄く開いたその間に舌を押し込んで歯列をなぞっていると、抵抗どころか身体の力すら抜けてきた。・・・ダメだ、笑いそう。
口を放して、銀の糸がひいて光を反射した。唇と頭を解放されたなまえは腰に回る僕の手を頼りに何とか立ち、もともと不安定だった呼吸を更に乱して苦しそうに酸素を求めた。この表情も、気分がいい。
「―――ダメだよ」 「っ・・・は、」 「グリーンさんにもシルバーにも、慰めて貰っちゃダメ」 「・・・な、・・・っは、なん、で・・・、」 「だって、それは僕の役目でしょ?」
僕の、僕だけの役目だから、他の奴に慰めてもらうのは禁止。
目を丸くして聞いているなまえの瞳からは、新しい雫が溢れてこなくなっている。さしずめ、先程のキスで止まったとかそういうことだろう。
すっかり泣き止んで、「もっと早く言ってよぅ・・・」なんて笑いながらふて腐れるなまえがかわいくて、僕は目尻に唇を寄せた。 唇の端に流れた涙は海の味がしたけれど、まぶたに滲む雫は妙に甘くて、これはもしかしたらなまえの味なのかもしれないなんて頭の隅で考えた。
泣き虫少女と欲しがり少年
20110629
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