雨が降るのはあまりよろしくない。じめじめした湿気が髪を跳ねさせるからだ。 現在位置は学校。誰もいない廊下、窓の近く。私はうんざりした気持ちで窓の外を見て、冬のくせに雪にもならず頑なに液体であり続けるその水分にため息をついた。
地球温暖化の影響だろうか、今年は近年まれに見るほどの暖冬らしい。おかげで寒くはないのだけど、この雨だけはいただけない。せっかくの楽しい冬休みなのに、どうしてこんなに憂鬱な思いをしなくてはならないのか。
「補習か……」
冬休み、というワードで思い出してもうひとつ、ため息。期末試験の結果のせいで言い渡された補習のことだ。今日はそのためにわざわざ登校をして、こんな寒い廊下を歩いているのだ。 ―――今回は割と頑張ったのに。自業自得と言えばまあ自業自得なのだけど、やはり腹立たしいものがある。補習の日程を渡してきた担任には些か申し訳なさを感じるが、それ以上に貴重な休みが消えたことによる苛立ちが勝っていた。
そんな訳で、私は朝30分ほど格闘してやっとまとまった髪を揺らしながらのろのろと廊下を歩くのだった。冬休み中ということもあり、廊下には私以外の人影は見えない。ただ、どこからともなく運動部の掛け声が反響して聞こえてくるくらいだ。どの部活かは分からないが、こんな日にご苦労なことである。 ぼんやりとそう思って先を急ぐ。そろそろ言い渡された時間になる。このままだと遅刻だと思ったからだった。
「――あ」
そこからしばらく行った所。それまでまっすぐだった廊下が急に右折している辺りで、私は本日初めての他人を見た。 角を曲がってすぐの窓の前に立ち、たそがれるでも雨の様子を気にするでもなく、その人ただまっすぐに外を見つめる。服装は制服ではなく、白いダッフルのコートに茶色のパンツだ。校内はコート禁止だと言うのに、知らないのだろうか。
「あの、」
その立ち姿に興味と不審に思ったのとで、私はそっと声をかけてみる。私の声に反応して、その茶色頭がゆっくりと振り返った。うちの生徒ならば校則違反間違いなしの茶髪の、その向こうに隠れていた顔があらわになり、それを見た私ははっと息を飲む。 ―――何この子、めちゃくちゃ可愛い。
透き通るような肌、細められたセピアの瞳はそれでもかなり大きいことが伺える。この湿気にも負けないさらさらの髪は染めているようには見えないから多分地毛なんだろう。完璧なパーツが完璧なバランスで配置されたその顔は、もしかしたら私が今まで見てきたどの女の子よりも可愛かった。 それにしても、後ろ姿を見た時はてっきり男の子だと思ったのだが、どうやら違っていたようだ。思わぬところにとんだ美少女がいたものである。でも、こんな可愛い子がいて噂にならないのはちょっとおかしいな。となると、もしかして三学期からの転校生なのだろうか。
声を掛けたきり黙り込んでしまった私を不審に思ったのだろうか、その少女は細めた目を更に鋭くして「何?」と返す。せっかくの可愛い顔が台無し、いや、確かにそんな顔をしていても可愛いのだけれど、いろいろと怖がられそうな態度である。美人が睨むと怖いよね。
「ええと、ごめんなさい。何してるのかなって…」 「ああ、」
どうやら私の意図を察してくれたらしい美少女は、君この学校の生徒?と幾分柔らかくなった表情で尋ねる。自然と私の声も弾んだものになった。
「はい!クラスは2年1組で、……」 「ああ、名前はいいよ。覚えられないから」 「え、…あ、はい、わかりました」
―――覚える気がない、ってことかな。少し傷ついたけどまあ憎まれてはいなさそうだから気にしないことにした。
彼女は私に興味が無くなったのか、それともそれだけ夢中になるものがあるのか、再び私に背を向けて窓の外へ目を向ける。あのくらいの会話では大して仲良くはなれなかったようだ。もしくは彼女が凄まじくマイペースなのかもしれない。とりあえず彼女が自己紹介を続ける気がないということは分かったので口をつぐむ。 流れ出した微妙な空気に居たたまれなくなっていると、今度は美少女の方が口を開いた。
「寒雨って微妙だよね」 「え?」 「日本人って雨好きみたいで梅雨とか時雨とか五月雨とかやたら雨の種類あるけど、寒雨って微妙じゃない?響きとかそのままだし」 「ええと……カンウ」
彼女の言った言葉を復唱してみるけれど、私にはその意味どころか、その言葉が漢字なのかカタカナなのかひらがななのかの予測すら付けられなかった。なんたって冬休みに補習の生徒である。
「僕なら絶対別の名前付けるけどね」 「ふーん…」
私はそんなことより彼女の一人称が僕だったことに衝撃を受けたのだけれど。僕っ子なのかな。こんなに可愛いと何を言っても受け入れさせられてしまうモノがある。美人はそれだけで何かもう無罪なのだ。羨ましい。私も美人に生まれたかったな。そんな思いで無罪な美少女に目を遣ればにっこりと微笑まれた。不覚にもときめいてしまう。
「あさじゅうの」 「へ?」
そんな素敵な笑顔の後でそんなことを言うものだから、何かの呪文なのかと身構えた。
「おののしのはらしのぶれど?」 「え、え?」 「落ちたね」 「何、……あっ」
彼女が笑顔で指した先には私が補習で使うはずの古典のプリントが落ちていた。和歌が何首か書かれていて、各時間の最後にその中から暗唱テストをする、と端にある。面倒なことこの上ないプリントである。
「ありがとう、プリント落ちてたね」 「…それもあるけどもう1つ」 「え?」 「テスト」 「あ、そっか」
さっきの落ちるねはテストに落ちる、って意味か。可愛い顔してなかなか辛辣なことを言う。
「ばかだからね」 「そうらしいね。プリントの和歌も覚えてないみたいだし」
そう言われてプリントを覗けば、なるほど確かにあさじゅうの、の文字が見える。浅茅生の小野の篠原忍ぶれど。
「あまりてなどか、人の恋しき?」
おそるおそる読み上げて美少女の様子を伺うと、それが何、とばかりに鼻で笑われた。これもまた可愛い子にやられると地味に傷つくのである。
「暗唱は?」 「できないよ」 「あーあ」
落ちたね、と彼はまた言って笑う。私は、遅刻しそうな補習の存在を思い出してぎょっとした。
「あ、遅刻!」 「あーあ」
楽しそうにくすくす笑う彼女の「頑張ってね」に見送られ、私は最早完全に遅刻の補習へと嫌々足を進めたのだった。
結局35分遅れで着いた教室で、担当の先生はぶりぶり怒って私に何をしていたのか尋ねられ、自信満々に「妖精さんみたいな女の子に会ってました」と言ってみた。
勿論怒られました。
20111209 和歌は百人一首の39首目、参議等の作
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