資料室は好きだ。 時代はデジタル、ありとあらゆる情報が個人の所有するハード機器から見られるのが普通であるため徐々に存在意義が失われつつあるが、それでもこの独特の雰囲気は私を妙に落ち着かせる。あまり人気がない、というのも私にとっては嬉しいポイントだ。目の前のやるべきことに熱中できるから。
そんな訳で度々この資料室を利用する私は、今日も今日とて目の前の画面に映るデータに目をやりつつ、提出期限の差し迫ったレポートを埋めていた。もっと早くに準備をしていれば良かったのだが、他の課題と重なってギリギリになってしまったものだ。しかしこのペースなら、恐らく間に合わないことはないだろう。安堵のため息を吐いた。実戦もペーパーテストもあまり得意でないのだ。提出期限くらい守らなければ成績はガタ落ちだろう。頑張らなければ。その一心でひたすらに指を動かす。
そのレポートも3分の2ほど書き上がった頃だろうか。ふいに背中に視線を感じて振り返った……ら、思っていたよりも近くに立っていたその人とばっちり目が合ってしまった。
「相変わらずマメだねえ」 「……ミストレ、くん」
胸の前で手を組んで、小さく笑いながらこちらに近付いて来るのは同じクラスのミストレくん、ことミストレーネ・カルスだ。相変わらず美しい。 彼はその、少女と言われても納得できてしまうくらい繊細な造りの顔で、浮かべた微笑みとは裏腹にシャープな視線を私に向けていた。その視線が身に突き刺さるように感じて自然と、一瞬だけ背筋が伸びる。彼の放つ視線には私を畏縮させる何かがあるのだ。それが具体的に何であるかは説明できないのだが、何となく苛立ちかな、と思っている。才色兼備の彼のこと、おそらく私のようにのろのろとした人種は理解できないのだろう。
それにしても、どうしてこんな所にいるのだろうか。いつもは周りにいる女の子達も連れず、滅多に人のいない資料室なんかにいる理由が分からない。
「ミストレくん…は、何か用事?」 「まあね。ちょっと調べもの」
軽やかな足取りで床を蹴る彼。調べものなら教室でもできると思うのだけれど、指摘するのは憚られて「そうなんだ」と曖昧に笑って見せた。そうしたら彼からの視線が更に痛くなったから笑うのをやめてその痛みから逃れるように下を向く。どうやら私はミストレくんを不快にさせるのが得意らしい。
これ以上イライラさせてしまう前に早くどこかへ行って欲しかったのだけど、彼はわざわざ私の隣の席に座って自分で持って来たらしいパソコンの電源を入れる。…ますます意味が分からない。自分でパソコンを持っているなら、ここじゃなくたって学校中どこででも使えるのに。 私が首を捻っていると、既に調べものを開始したらしいミストレくんが口を開いた。
「ねえ。あのレポート、もう書いた?」 「あ……ううん、まだなの」
話題は私達のクラスに課されたレポート。つまり、私が今現在進行形で書いているこれのことだ。
「へえ。実はオレもなんだ。まあ課題多かったし仕方ないよね。あ、ひょっとして今やってるのがそう?」 「ええと、…一応、」
キーを叩きながら発せられる彼の問いに小さくなりながら答える。私は彼のように器用でないから、レポートを書きながら会話なんてできないのだ。
「確かクラスで回し読みするんだったね。君のレポートを読むのが楽しみだよ」 「や、そんな…ことは…」 「どうして?君のレポートはいつも素晴らしいと思うけれど」 「……」
そんなことを言ってくれるミストレくんの方が何億倍も、いや比べるのも申し訳なくなるほどすごいレポートを書いて来るのに。私は期日に間に合わせるので精一杯だ。彼が褒めてくれる意図が分からない。リップサービスってやつだろうか。
私が黙ってしまったために生まれた沈黙の中で、ミストレくんが使うパソコンの音だけが資料室に響く。そうだ、私も続きをしなくては。そう思ってキーボードに手を伸ばすと、狙ったかのようなタイミングでミストレくんが「あ」と小さな声を上げた。
「…どうかしたの?」 「いや、今植物図鑑を調べてたんだけど。この花、君に似てるね」
くすくす笑いながらディスプレイをこちらに向けて見せてくる。そこに大写しにされているのは小さな白い花の画像だった。マツユキソウ、と名前が添えられたその花は葉の付いてない茎の先に地味な白色の花弁を付け、まるでそのことを恥じるかのように自信なさげにうつむいていた。
これは確かに私に似ている、と思った。似すぎていて笑えない。現に今、ミストレくんの目の前で座る私はこの花と同じく、彼の隣に座ることすら恥ずかしくてうつむいているのだ。
「……」 「……」
ミストレくんは始めこそ笑っていたが、私があまりにも何も言わない為にその笑い声を少しずつ小さくしていき、ついには苦い声で「…冗談だよ」と言い添えた。
「君さ、何か言い返してよ。なんだかオレが女の子を虐めてるみたいだ」
そんな無茶な。 しかし彼がそう言うのなら何か気の利いたことでも言わなければならない。彼をこれ以上不快にさせたくない。あまり待たせるのもいけないと、私は咄嗟に頭に浮かんだことを口にした。
「………み、ミストレくんは水仙、だね?」 「何、ナルシストだって言いたい訳?」
ナルキッソスの神話をほのめかした苦しい冗談だったが、さすがは博識な彼のこと、あっさりと意図に気付いて非難めいた問いをこちらに向けてくる。から、慌てて「ごめんなさい」と謝った。つまらない上に、少し調子に乗りすぎてしまったらしい。この辺の案配が上手くいかないのも私のダメなところだ。
「…別に責めてないけど。いくらオレでも、湖に映った自分に見惚れたりなんかしないさ。まあ鏡は嫌いじゃないけどね」
水仙もマツユキソウも、同じように白くてうつむいた花なのに、ミストレくんにかかれば自信に変わってしまうから不思議だ。きっと、そういう才能があるんだろう。自信を持つ為にはそれに見合うだけの素質が必要なのだ。
あるいは、彼のように周りに褒められて、大切に大切に水をあげて肥料をまいて育てたならマツユキソウもナルキッソスになれたのかもしれない。しかし私は――マツユキソウは、ただのマツユキソウだ。自信に変わるだけの努力も、能力も持っていないちっぽけなマツユキソウに褒めるべき場所はなく、だから私は自信なくうつむくしか出来ないのだ。
「……」
重力に従ってだんだんと下がっていく頭。落ちていく視界が、私と彼の軍靴の爪先を捕らえた。その時だった。 私の頭を、がしっと固定する腕があった。こめかみの当たりを左右から挟み込むようにして伸ばされた二本の腕は、そのまま力が込められて下を向いた頭を持ち上げた。その細腕のどこに隠していたのかと思うほどの力を加えられ、首のあたりが悲鳴を上げる。重力に逆らった首から上は、いつの間に立ち上がったのだろう、少し高い位置から私を見下ろすミストレくんと目が合う角度で再度固定され、動けない。自然と上を向く形にされてしまった。…やっぱり意味が分からない。
「ええと、あの。ミストレ、くん?」 「君は」 「うん?」 「君はもっと、君に向けられる視線に敏感になればいいのに」
私を見下ろすきれいな顔が、私に残酷な命を下す。 ――視線に、だなんて。そんなのとっくに分かっているというのに。彼から私に向いた苛立ちの視線になど、とうの昔に気付いてる。それでも彼はまだ私に周りを見ろと言うのか。もっと傷付けと、まだ足りないのだと言うのだろうか。
「オレは自分に向けられる嫉妬の視線が心地よくもあるのだけれど、君は君に向けられるそれを蔑みからくるものだと思うんだろうね」 「…だって、本当のことだよ」 「いいや嘘だね。事実君はオレの視線にも気付かなかった」
鋭さの幾分か消えた瞳が私の顔を映した。深いアメジストの目に堪らない居心地の悪さを感じたが、目を逸らすことは物理的に不可能だ。仕方なくそのまま、彼からの視線を痛いくらい真っ直ぐに受け止めながら話す。
「気付いてたよ。ミストレくんが、その…私を、睨んでること」 「ほら、気付いてない」
彼が身を屈めて、顔と顔との距離が少し近付く。顔がじわじわと熱を持って赤くなるのを感じた。
「オレが君を見て視線を険しくするのは、君が自分を認めないからだ」 「そんな…、こと」 「そんなことあるよ」
少し高めの、耳に心地よく響く声が私の言葉を遮って続ける。
「君は自分を取り柄のない人間だと言い張ってオレや他人の言葉を聞き入れようとしないけれど、そんなのは君のナルシシズムさ。…だって考えてみなよ。君の意見がオレの意見を否定できるなんてこと、あっていいはずないだろう?」 「……」
否定は、できない。
「それを踏まえた上で、それでもまだ君がオレを否定したいと言うのなら、いくらだって論破してあげる。ディベートなら多分君より得意だよ」
そう言ってきれいに、きれいに笑うのだ。自信に溢れたその言葉に反論できるだけのスキルを、私は持ち合わせていない。
「…ミストレくんがそう言うなら、きっとそうなんだね」 「当然だよ」
私の頭を解放して、彼は自身のパソコンのディスプレイに映る小さな花の画像を柔らかく指先で撫でる。
「ねぇ、知ってる?」
マツユキソウは別名スノードロップと言うのだと、そう呼んだ方がキレイでいいだろうと笑う彼はくらりとするほど美しくて、私は泣きそうになるほどに強く、胸の奥を締め付ける想いを感じたのだ。
君はスノードロップと呼んだ
*** ∴企画花契りさまに提出 ありがとうございました。
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