短編 | ナノ

 
 
 私、神童くんと結婚したい。

ぽそりと言った一言に、霧野は数学のノートを写す手を止めてこちらを見た。珍しくも数学の授業中寝てしまったらしい霧野に自分のノートを貸してあげたのは他でもない私である。
数学は今日宿題が出たから霧野にノートを持って帰らせることもできず、ただ見ているだけ。そんな時ついつい口をついて出たのはそんな彼の幼馴染みの名前だった。

シャーペンを机に転がして肘を付く霧野の興味は完全に私の話へシフトしたようだ。私としてはノートを写すことに真剣に取り組んでいただきたいのだけど、気まぐれな彼はそう簡単には行動を予測させてくれない。たった一瞬前には熱心に書き物をしていたはずなのに、今はもう興味津々といった目で私の顔を覗き込んでいるのだ。


「なんで神童?」
「…ノートは?」
「こっちの解明が先だろ」

ノートの上に手をついて身を乗り出すようにして聞こうとする霧野に苦笑しつつ、それならばと私は口を開く。


「何でって、普通に、お金持ちだから」
「ああ」

神童くんがここにいたら失礼過ぎて言えない理由をぽっと出せば、霧野は途端に納得のいった顔で頷いてみせる。神童くんのお家がお金持ちだなんてことは幼なじみの霧野がいちばんよく知っているのだ。彼は神妙に頷いたりしながら返事を返した。


「それなら俺も昔思った。神童んちの子になりたいって」
「やっぱり考えるよねー」


 もしも自分がお金持ちなら、頭が良ければ、スーパースターなら。誰もが1度は考える妄想のはなし。お金持ちの旦那さんが出来たらきっと、好きなものに囲まれた幸せな生活が送れるのだろうと信じた。
もちろん現実はそんなにいいものでもなくて、きっと彼は彼なりにいろいろな苦労を強いられているのだろうし、もし仮に私のような一般市民がお金持ちの家に嫁いだ場合、身分不相応だとか何とか陰口を叩かれることは目に見えている。所詮は例え話だ。


「まあ、いくら夢みたいな話でも言うだけならタダだしね」


けらけら笑ながら言ったら「だな」と笑い返された。私たちは現実にそんなことを考えない。私はそんなに夢見がちな子供じゃない。今まで一度も話したことのない人が自分と結婚するはずなんかないのだ。霧野が神童くんといるのだって、彼がお金持ちの家の子だというのとは無関係。例え話はあくまで例え話だ。


そんな風に考えていたら、霧野は全く別の方向から考えていたらしい。何か思い付いたように笑ってみせた。


「でも俺、今は神童にはなりたくないな」
「ふーん、何で?」
「だってさ、」

霧野が笑った。なんとなく理由は予想できたけど、霧野が聞いてほしそうにするから尋ねてやることにする。


「せっかく、いちばん大切な人が俺を選んでくれたのに、他のやつになったら勿体ないだろ」

乙女な顔に似合わず、随分と男前で気障なことを言うものだ。そんな台詞はむしろ神童くんの方が似合うのに。


「霧野」
「…何だよ」
「恥ずかしいセリフをありがとう」
「…ん、ドウイタシマシテ」


だけどそういう私は彼のそんな気障な台詞にときめいてしまったりするのだからやはり私もどうしようもなく恥ずかしいやつで、2人を比べるならばおあいこ、なのかもしれない。



20120817

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