短編 | ナノ

 
 
 幸せだった時の話をしようか?つい数日前までのことだ。わたしはただの一般生徒で、帰宅部で、帰り道にある練習場で偶然見かけたクラスメイト達。普段の、教室で見せる優しい顔と打って変わって真剣な表情でボールを追いかけるきみに目を奪われた。

きみはけしてスーパーマンというわけではなくて、一年生なのに一軍でレギュラー入り、なんて噂が流れてるわけでもなくて、特別目立った必殺技を使うわけでもない。だけど何事にもすごく真面目に取り組んでいて、二軍ではキャプテンという名誉だけど大変な役割を貰って。いつも穏やかな彼は休み時間も教室で大騒ぎをするようなタイプではなく、触れたら壊れてしまいそうな、儚い笑顔を浮かべる優しいひとだった。そんなきみに知らず知らずのうちに惹かれてしまうわたしがいる、というのは仕方のないことで。

ある日話しかけてみたのだ。「おはよう」と。少し照れたような笑顔で「おはよう」と返してくれたきみは誰よりうつくしく思えて、わたしはもうどうしようもなく、きみにならばどれだけの想いを向けても後悔はないと、そう本気で思ったのだ。



***


 わたしがその事実を知ったのはかなり遅く、この雷門中に入学してから二度目の春が終わろうとしているときだった。彼とは2年になってからもクラスメイトになったけれど、お互いそんなに積極的に異性と会話をするタイプではないのでほとんど話したことはなかった。
だけどその事件の原因はなんとなく分かる。入学式の日、体中に傷を作ってぼろぼろの姿で教室に現れた彼の姿を思い出す。聞けば、入部もまだの新入生にサッカーでぼろ負けしたらしい。そしてそのせいで2軍の子たちは全員退部してしまったのだ、と。もちろん彼も2軍の例外ではなく。

「…サッカー部、辞めたんだって?」


久しぶりの彼に向けた言葉は、そんな責めるような尖ったセリフだった。彼の友達とすら呼べない、ただのクラスメイトのわたしにそれを責める資格なんてないのに、「ごめん。応援してくれてたのに」と悲しそうに笑ったきみの本当の気持ちを、わたしは知らない。そもそもまともな会話すら久しぶりなのだ。会話のなかった少しの間にいろんなものが変わってしまったようだった。焦った。だからこんな言葉を吐いてしまった。


「―――ちょっと一年生に負けたからって何なの。そんなの、今までだってあったじゃない」

…違ったのだ。負けることが問題なんじゃない。わたしは入学式当日の彼の傷だらけの体のことをすっかり失念していた。


「何度だってあきらめない、そんな一乃くんが好きだったのに」

そんなことを言うわたしはそんなにお偉い身分なのかと、そう責められてもおかしくないくらいに身勝手な発言だった。彼のことを何も考えてはいなかった。



 そうとも知らない愚かなわたしは、それからサッカー部のマネージャーになった。サッカーのことはもともと好きだったし、あの一件以来マネージャーがみんな辞めてしまって大変だと耳にしたからだ。部を辞めてしまったきみへのささやかな当て付けのつもりでもあった。きみができないならわたしがやってやると、徹底的に対立してやるのだと、そう思い知らせてやりたかった。だけど。


「今のサッカーは管理されている」


そこで知らされた真実に、思い知ったのはわたしの方だったのだ。

彼は入学式の一件よりもずっと前から戦っていた。彼だけではない。サッカー部のみんなが戦っていたのだ。体中の傷は入学式の時についたもの。だけど心にはもっと、あれの何十倍もの傷で埋め尽くされているのだろうと思った。彼は傷つきやすい人だから。


「一乃くん…」

 ごめんね、知らなかったね、傷つけてしまったね。どうにもできない敵と出会って、優しいきみはきっとすごく傷ついて、もう立っていられなくて、それなのにとどめを刺したのはわたしだった。まぎれもなく、わたしだった。わたしは彼の、大好きな彼の最後の敵になってしまったのだ。今更許されない、大きな罪。もう謝ることもできなくなってしまった。

優しいきみはもうしばらくサッカーから離れた方がいいのかもしれない。ここにいたらまた思い出してしまうだろうから。ああ、でもどうしよう。そのあとは、少し休んだ後にはまたボールを追いかけてほしいよ。自分勝手かもしれないけど、でも、きっときみも心のどこかでそれを願ってる。わたしにはわかるよ。だって、ずっときみのこと見てたもの。きみがサッカーを好きだって、ちゃんと知ってるもの。


 今だけはここにいてあげる。きみの敵でいてあげる。だから思う存分、帰れない理由をわたしにしてもいいから、そこで休んでください。だけどしばらくしたらまたここへ戻って来て。そしたらわたしはちゃんと、きみの前から消えるから。きみがもうサッカーボールに傷つかなくなったとき、心置きなくそれを追えるように。







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企画「うるおい」様に提出

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