短編 | ナノ

 
 
 まさか雨が降るなんて、思ってもみなかった。玄関の扉の前に立ち、どす黒い空からぼたぼた落ちる不愉快な水滴を眺めながら、今さらどうしようもないことを考えた。
天気予報を見る習慣なんてついてない。故に夕方から雨が降る確率が70パーセントを超えていたことなんて知るはずもないのだ。

美術部に所属している私は先ほどまで美術室で絵を描いていた。そりゃあもう熱心に。窓の外で雨が降り出したのにも、他の部員が次々に帰って行くのにも気付かないくらい。

ようやくハッとして我に返った時にはすでに遅く、美術室には人がほとんどいない状態になっていた。自分以外にいる唯一の生徒は今までに挨拶くらいしかしたことのない後輩のみ。同級生など頼れる人はみんないないのだ。それだけでもショックだったのに、加えてこの雨。そりゃあ憂鬱にもなる。



「ほんと、嫌になる」

湿気で朝より広がった髪の毛先とか、濡れたらきっと下着が透けてしまうだろう薄いカッターシャツとか、日常のすべてが忌々しい。これだから雨ってやつは嫌いなのだ。本当は作品作りに熱中し過ぎていた自分が悪いのだが、こんなじめじめした気分の悪い空を見たら当たらずにはいられなかった。


「あれ、先輩?」
「え?……あ、」

 ふいに後ろから聞き慣れた声が聞こえて、つられるように振り返るとそこには黒髪の男子生徒の姿が。

私は彼を知っている。いや、というよりむしろ彼こそが先ほど美術室で声を掛けられなかった唯一の居残り部員だったりするのだが。毎日顔は見ているけれど、普段学校で声を掛けられたことがなかったものだから驚いてしまった。


「…黒沼くんも終わったんだね」
「ええ、まあ」

にこ、と人当たりのいい笑みを浮かべる彼は世渡り上手なタイプなのだろうな、と思う。しかし彼はまた、必要以上の会話をあまりしない人だ。部活での様子を見る限り話しかければ返してくれるようだが、わいわいおしゃべりをするよりは1人で作業をする方が好きそうな人物に思われた。別にそれが悪いとか、そういうことが言いたいんじゃないのだけど。


「雨、すごいですね」
「だよね。私、傘忘れちゃったんだ」
「ああ、それはきつい」

私の答えにハハ、と笑ってみせる彼。いつもならこのあたりで「じゃあ俺はこれで」とか何とか言ってさっさと消えてしまいそうなものだが、何故だか今日はそうならなかった。何か理由でもあるのかと不思議に思って尋ねてみる。


「ええと、黒沼くんは傘持ってたりしないの」
「残念ながら。忘れました」


きぱっと言い切った彼はもうふんぞり返る勢いだが、それは全くもって自慢できることではない。しっかりしていそうに見えていたのだけど、実際はそうでもないらしい。

しかし、それでようやく分かった。彼もまた私と同じで帰りたくても帰れないのだ。だからいつもは弾まないおしゃべりをだらだらと続けているのだ。そう思うと何だかおかしくなって、話しかけ辛かった後輩がかわいらしく思えた。


「…黒沼くんて、意外に抜けてるんだね」

そんなことをついついぽそりと呟くも、黒沼くんは気に留めず「先輩こそ、ここは女子の方が持ってて相合傘するところでしょう」と意地悪な笑顔で応戦する。今日初めてまともに話す後輩のくせに、先輩にケチをつけるとは。一体何事なのだ。ますますおかしくなった。


「先輩とちゃんと話すの、多分初めてですよね」
「そうだよ。黒沼くんがあんまり喋るの好きじゃなさそうだったから」
「別にそういうわけじゃないんですけど。作業が邪魔されるのが苦手なだけです」


今は別に作業中じゃないですし。制服のポケットから携帯を取り出して黒沼くんが苦笑を漏らす。カチカチと操作して、だけど文字を打ち込む様子はないから何かを探しているようだった。


 しばらくして後、「あ、あった」と呟いた黒沼くんはほう、と息を吐いて視線を画面から私の方へと移した。女の子みたいにぱっちりとした瞳と目があって、何だかすこし落ち着かなくなる。


「なんか、6時ぐらいに止むらしいですよ」
「え?」
「雨」

そう言って画面をこちらに向ける。そこに表示されているのは今日の天気予報で、なるほど、18時からの降水確率は10パーセントと記されていた。よかった、助かった。どうやら濡れて帰る必要はなさそうだ。
現在時刻は午後5時13分。6時になるまでこんなところで立ち尽くしている必要もないだろう。


「なら、それまで美術室で待ってようか」
「ですね」

私の案に黒沼くんも同意し、2人並んで元来た廊下を歩き始める。初めて話す彼だけどなんとなく、これからすごく仲良くなれるような、そんな気がしていた。


 しかし私は知らない。傘を持っていない黒沼くんがわざわざ玄関まで出てきたわけ。今日の降水確率を確認したのは本当にあれが最初だったのか。それから、しっかりしているように見える彼が本当に傘を忘れていたのか、ということを。



title:自慰
20120614

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