短編 | ナノ

 
 
 ムロはホウエンのはしっこにある島である。ジムもあるし観光地だし、決して寂れているわけじゃあないのだけど、ただいかんせんホウエンの他の地から遠い、そして狭い。だから訪れる人は何らかの目的を持った人ばかりであり、何となくついでに、と言って訪れるような人はなかなかいない。
そんな島でも、時々はこうして船が訪れるのだ。前述したようにこれは珍しいことで、そのたびに私は大はしゃぎしたくなる。中でもとりわけ、ハギというおじいさんの運転する船が来た時は。


 待ちに待った船。それが来たと聞いたから、私は洗いかけの靴を屋外にある洗い場に投げ出したままでサンダルを突っ掛け、船着き場へと走ったのだ。慌てて駆け付けた船着き場には既に船が止まっており、船を運転してきたのだろうハギ老人が立っている。

そのハギ老人に頭を下げつつ、船から降りて来た白い帽子姿の男の子。潮風に煽られ、ふわりと白色が揺れた。ムロならではの強い日差しを受け、眩しい瞳を僅かに細める。そんな様子を見るうち、私は待ちきれずに名前を呼んでしまった。


「ユウキくん!」

 その呼び掛けでこちらを向いた彼…ユウキくん。私が靴洗いを中断してまで飛び出した理由は、実は彼にあるのだ。
彼は私の姿を捕らえると同時に「久しぶり」と仄かに笑って見せる。その笑顔に私も嬉しさのピークを迎え、どうしようもなく緩んでしまう頬を押さえつけた。


「ホントに久しぶりだね!私、嬉しくて走って来ちゃったよ」
「あはは、そんなに急いで出てきてくれたんだ?」
「うん、靴洗いも中断して」
「だめじゃん」


あ、ここ泡ついてるよ、と私の頬に指先を寄せる。靴を洗っていた泡が跳ねたものだろう。ユウキくんに見付けられたなんて恥ずかしい。突き刺すような日差しとは別の原因で顔が火照り始めた気がした。
恥ずかしついでにそれで思い出す。先ほど靴洗いを置き去りにして来た時のこと。


「あ、水出しっぱなしで来た、かも」

そう、飛び出した時に水道の蛇口を捻った記憶がないのだ。ユウキくんに早く会いたいが為に放ったらかして来てしまった、ような気がする。
当然ながら水道代もタダではない。止めておかないとママから怒られてしまうのは目に見えて明らかだ。従って、慌てて方向転換。


「ごめん、ちょっと止めて来る…!」

そのまま一歩踏み出す前に、用事があるなら先に行ってていいよと付け加えておいた。ユウキくんがどんな目的でこの町へ訪れたのかは分からないが、私の都合で彼の用を中断させてはいけない。彼と話していたいのは私のわがままだから。
それなのにユウキくんは小走りで走り出した私の隣に並び、笑ってみせるのである。


「いいよ、どうせ今日は特に用事もないし。一緒に行く」

そんなことを言ってしまうのだからユウキくんって私を喜ばせる天才だ。来てくれただけでもこの上なく幸せなのに、これ以上嬉しくさせてどうするんだろう。


 2人並んで向かう私の家。全く予期していなかったお宅訪問に自然と背筋が伸びる。靴を洗っていた洗い場は外にあるから、家が散らかっている、なんてことは気にせずに済んだけれど。

緊張しつつもたどり着いた水洗い場には水音が響いており、私の記憶が正しかったことを証明していた。

「あ、やっぱり出しっぱな、し…」


自分のうっかりを笑いつつそこへ駆け寄り、蛇口へと手を伸ばした私はしかし次の瞬間ピタリと固まることになった。


「え、」


もう一度言おう。私の家の洗い場は外にあるのだ。付け加えるなら地面に近く、靴を洗うときはしゃがみ込まないといけないくらい。そのためにどうやら背の低いポケモンでも簡単に入れてしまうらしかった。
水を止めようと手を伸ばしたその先ではなんと、野生のクラブが水浴びしていたのである。あまりの展開に、私もユウキくんも一瞬言葉を失ってしまった。


「…なにこれ、特等席ってか?」
「え、あ、…これどうしよう」

面白そうに笑ったユウキくんと顔を見合わせ、首を捻る。こんな場面に出くわすのは生まれて初めてのことであった。普段なら会話のネタになると大爆笑しているところであるが、今はユウキくんが一緒だ。バカ笑いをするわけにもいかず、何とも微妙な雰囲気。滅多に起こらないような珍しい出来事が、何もこんな時に起こらなくてもいいのにと神様を呪った。


「水につられたのかな?」
「かもね。今日暑いし」


 クラブが現れた理由は分からないが、とりあえずは蛇口を捻って水を止める。…と、それでクラブは機嫌を損ねたらしい。盛大に身体を震って飛沫を撒き散らし、すたこらさっさと逃げて行ってしまう。波打ち際の岩場の方へ向かったのだろうか。


「ユウキくん、濡れちゃってる!」
「ああ、ほんとだ」

わけもわからぬままとりあえずユウキくんに視線を向ければ、大変なこと。彼は先ほどのクラブが飛ばした水しぶきを全身に浴びてしまっていたのである。
着ている服に黒い部分が多いため被害の深刻さはよく分からないが、日に照らされる肌や髪がまんべんなく濡れてしまっている様子から見るにかなりの量の水がかかったのだろう。せっかく来てくれたのに、こんな目に遭わせてしまうなんて私のばか。


「待ってて、タオル持ってくる」


 何にせよ、まずは濡れた髪や服をどうにかせねばなるまい。ユウキくんには玄関のところで待っていていただき、家の洗面所へと走る。濡れた素足で踏みしめた床は足跡が残って見苦しくなってしまったけれど、今はそんなこと構っている場合ではないのだ。

手頃な大きさのタオルを2、3枚取って玄関へ。扉に背を預けた彼は「そんなに急がなくてもいいのに」とまたおかしそうに笑っていた。


「これ、タオル」
「ありがと」


 ユウキくんは受け取って、黒い髪を伝う淡水を拭い取った。被ったままの帽子から滴り落ちる雫は顔へと到達し、額を滑っていく。まるで海でダイビングでもして来たかのような様相だった。


「あれ、タオルこれだけ?」
「え?足りなかった?」
「いや、そうじゃなくて。きみは拭かないのかなって」


単純な気遣いの瞳が私に向いている。そういえば私も、ユウキくんほどではないにしろ水を浴びていたのであった。廊下が濡れる心配までしたのに、肝心なことを忘れていた。それだけ動揺していたのだろう。


「あ、…えと」
「ん?何、そんなにどもって」
「…なんでもない」

まさかあなたに気を取られ過ぎて自分のことを忘れていました、なんて言うわけにもいかず、私は気まずく目を逸らした。…が、彼が呼びかけるものだからまたすぐに視線を戻さざるをえなかった。


「これ、タオル。1枚返すよ」
「え、いいよユウキくん使いなよ!」
「大丈夫、これで足りるから」

差し出された未使用のタオルを受け取れずにいる私に、彼は頭からそれを被せる。頭上から香るそれはよく知った洗剤のにおいのはずなのに、この人が手にしていたというだけで何か甘酸っぱい香りが入り雑じっているように感じられた。


「でも濡れてる方が涼しいかもね」
「風邪引くよ」
「あー…だよな。うん。ちゃんと拭きます」


 額を伝った雫が、彼の目を縁取る睫毛を濡らす。濡れて縁取りの黒さを増した瞳はいつもより強い光を持っているようでどきっとした。先ほどは海で泳いできたような、と形容したが、実際は水道水だから塩水ではなく真水である。磯臭さは全くなく、仄かにするにおいは彼自身の持つもの。どきりとしてしまった心音のエネルギーが全身に回って、体温上昇。


「…暑いねえ」
「ほんとにな」


そのまま頬をすべり落ちる水分が白いタオルに吸い込まれていくのを眺めながら、私はその濡れた睫毛ごと彼を愛しいと思いました。







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企画:夏伯爵さまに提出。ありがとうございました。

20120505

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