短編 | ナノ

 
 
 部活後、教室に明日までの提出課題を忘れてしまったことに気が付いた。
サッカー棟から教室まで歩いて15分。取りに行くのは果てしなく面倒だが、課題が期限に間に合わないのはできれば避けたい。せっかくのオール5のチャンスを、課題ごときに崩されてなるものか。その一心で重たい足を引きずった。

下校時刻間近だからか、校舎内に人は見当たらない。誰もいない真っ暗な教室が続き、明るい廊下の方がむしろ不気味だった。…さっさと取って帰らなければ、日番の教師に「早く帰れー」なんて注意されるのも面倒くさい。少しだけ足の回転を速めた。


 そうしてやって来た自分の教室。何故かこの部屋だけまだ明かりが着いている。日直か誰かが消し忘れたんだろう。仕方ない、消しといてやるか。ため息を吐きつつ教室の戸を開けると、そこには予想に反して生徒の後ろ姿があった。


 「みょうじ?」
 「あれ、南沢くん」

振り返ったのはクラスメイトの女だった。机の上にはワークブックと参考書を広げ、手にシャーペンを持っている。…どうやら勉強、していたらしい。


 「こんな時間まで勉強?頑張るね」
 「うん、でも30分前までりっちゃん達いてお喋りしてたから、あんまり頑張れてないんだけどね」


学校だと楽しすぎて全然出来ないねー、と笑う。そんなことを言っているが、確かみょうじはこの辺りで最難関の高校を受けるって話だった。普通に友達もいて、楽しそうにやっているのに最難関校だ。やっぱり雷門ぐらいの規模になると、中には頭の構造が違う奴はいるもんだ。

教室の蛍光灯に照らされて、彼女の小さな唇がてらてらと輝く。みょうじがいつも、校則で禁止されたはずの色つきグロスを塗っているのは周知の事実であった。こいつは服装検査の時いくら叱られたとしてもそれを拭わず、全く悪びれずに「スミマセン」と呟くのである。それを見るたびに俺は何か、苛立たしい気分がする。でも多分それは俺だけじゃなくて、このクラスのほとんどが思っていることだと思うが。
…やはり彼女ほど成績がいいと、多少の内申の悪さは関係なくなるんだろうな。まあ内申は結構酷いことになってるはずだし、推薦は止めた方がいいだろうけど。俺には関係のない話だ。

 自分の机の中からプリントを取り出してカバンにしまう。するとみょうじの机の上に無造作に置かれた、今日のホームルームで配られたプリントが目についた。町のゴミ拾いか何かのボランティア募集についてのプリントだ。こういうのは参加すると内申の校外での活動の欄が埋まるから、大抵の奴が参加する。かくいう俺も、一応は出る予定だ。

 「…それ、参加すんの?」


無言の空気を破る意味も兼ねて、みょうじに近付いてみる。こいつがボランティアに興味を持っているならば驚くべきことである。というのも、今までのボランティア系の活動でみょうじの姿を見たことは一切ないのだ。その度に口悪い奴なんかは「いいよなあ、勉強できる奴はよ!」なんてバカみたいな陰口を叩いたりしていたものだが。
しかしみょうじは俺の指したプリントを一瞥すると、「ううん、しないよー」と首を振った。「今から捨てようと思ってた」から机の上に置いていただけなのだと。

 「いいのか?これ、クラスの半分以上参加するらしいぜ?」
 「えー、だってボランティアとか面倒くさいもん」

 私そんないい人じゃないよと笑うこいつに、ただバカだと思った。このクラスの奴らが、んな聖人君子みたいな理由で参加するわけねぇじゃん。大抵俺と同じ、内申目当てだぜ。まあ中にはそんなお人好しもいるけどな。三国とか三国とか。
頭いい奴の中にも世渡り下手なバカとうまくやる奴と二種類あって、分類するならばみょうじは間違いなく前者だ。確かに頭はいいけど、世の中を知らなさすぎるバカ。何故だかやけに苛立った。俺には関係のないことのはずなのに。


 「みょうじ部活とか委員会もやってないだろ。内申不利じゃねぇ?」

気付いたら口がそんなことを発していた。なんだこれ、お節介とか気持ち悪い。こんなことをしたって、俺には何の得もないのに。
気まずい思いでみょうじを見れば、彼女は小さく笑って、それから意味ありげに口元を歪ませてみせた。


 「ね、知ってる?」
 「何を?」

前髪を気にしながら、口を開く。


 「…私ってね、通知表の服装の欄がA評価から下がったこと、ないんだよ」
 「は?」


 間抜けな声が漏れる。こいつがA評価、だなんて…嘘だろ?だってみょうじは毎回毎回飽きもせず怒られている、というのに。

 「検査の時ね、先生、怒るけどバツはつけないの」

だからリップは落とさないの、と髪を指先に巻きながらみょうじが笑った。得意げに笑ったのに、どこか泣き出しそうに見えたのは何故だろう。えこひいきじゃないのかと彼女を責め立てたかったのに、何も言えずに黙っていた。


 「だから私は自由にやりたいことをやるの。その為に勉強するの。点数さえあれば、あとは数字が私を守ってくれるから」


 なるほど、生徒がいい高校に入ればこの学校の評価も上がる。ついでにその生徒を育てた教師の評価も。自分の評価を上げたい教師が、みょうじのような生徒を保護するのは自然な流れだったのだ。そしてそれを、みょうじも知っていたのだ。どうやらみょうじなまえという人間は、思ったよりはバカじゃないらしい。

だけどそれで、楽しくもない勉強を頑張るみょうじはそんなのでいいのだろうか。ある程度の自由のために無理して頑張るなんて、考えなしの行動よりかはマシとしても、やはり愚かな行為だと思った。こいつはそんなので虚しくないのか。


 「もっと賢く生きる方法も、あると思うけどな、俺は」
 「そうだね…南沢くんにはね、分かんないと思う」
 「それは俺だけじゃないと思うけど」
 「じゃあきっと、私にしか分からないんだ」


みょうじは頭がいいけれど、決して賢いわけではないらしい。その姿が、似ているはずもない後輩の姿に重なって頭痛を感じる。皆して自由自由って、一体何だって言うんだ。


 「…そんなに、自由って大事か?」
 「大事だよ。私にとっては。勉強もそこまで好きじゃないけど、いいの、私は精一杯楽しむの。だって子どもだもん」

 小さな見返りの代わりに捨てる沢山のものを諦めた笑顔。そんな笑い方を、子どもはしない。彼女は知っているんだろうか。そこまでして小さな自由を守ることに、果たして何の意味があるというのか。


 「俺には、分からない」
 「…そっか。じゃあ仕方ないね。価値観の相違により破局、ってことで」

さらりと言って、ボランティアのプリントを破り捨てた。びりびりと勢いよく裂かれた紙切れが机の足元に散らばる。重なりもしないそれらがまるで、解り合えそうもない自分と彼女のようで、得体の知れない敗北感を感じた。何故かは分からないけど。


 「…まず、付き合ってないし」
 「あはは、ちょっと言ってみたかっただけ!」


 何故なのだろう。バカなのはみょうじなのに。俺は間違ってはいないはずなのに。何故か自分が虚しく思えて、シャーペンをしまうみょうじから顔を逸らした。



20120206

‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐

戻る