イトマル | ナノ







 朝。窓から差し込む光に目を細め、私は小さな欠伸をひとつ落とした。
カーテンの隙間に見える空は薄い青で、少しだけ冷たい空気が寝起きの頬を撫でる。そんな爽やかな朝ではあるけれど、私の気持ちはどよんと曇っていて全然爽やかじゃない。


 昨日はあれから何も言わずに家へ戻った。ポケナビへは、ゴヨウさんとの用事を終えたらしいリョウくんからの着信が絶えなかったが私はそれを無視した。とても話せる気分じゃなかった。リョウくんからの連絡を無視するなんて、私には全く初めてのことである。何しろ、今までケンカすらしたことがないのだ。私はリョウくんに腹を立てるなんてことはあり得なかったし、リョウくんも私が腹を立てるようなことはしなかった。よくできた幼なじみだったのだ。


 「……散歩にでも、行こうかな」

 こんな嫌な気持ちを断ち切りたくて、できなくて、私は現実逃避を選んだ。

朝食も取らずに適当な服を着て、靴を引っ掛けて家を出る。カバンの中のモンスターボールが気にかかったが、結局何も持たずに足を進める。行き先は特に決めていないけれど、何となくハクタイの森の方へ進んだ。ソノオの花畑を見ていたくなかったのだ。


 「はあ……」


 ため息をつきつつハクタイの森にそっと足を踏み入れる。こんなに辛気くさい顔でこの場所を訪れる人もなかなかおるまい。この森に来る人は大抵森に住むポケモンが目当てか、もりのようかんに用がある人だ。まあ最も、後者である話はあまり聞かないのだが。

 「…スボミーだ」


 草むらを横切っていくポケモン達を眺めながらぼんやり。あんなに急いでどこへ行くのだろう。私は彼らとは反対に、何をするでもなく立ち尽くしてそれを見送った。
ここは静かで落ち着くところだ。木の葉が風に揺れるたびに溢れる日差しが暖かい。だけど同時に暗いところでもある。…まるであの日の、あの森のように。

 「……帰ろ」

そう思ったら突然怖くなって、慌てて踵を返す。そういえば私はポケモンもモンスターボールも持っていないのだ。今ここで野生のポケモンに襲われでもしたらひとたまりもない。急いで帰らなければ。それで、帰ったらまずイトマルに、リョウくんに謝って―――。
そう考えれば知らず知らずのうちに駆け足になっていたらしい。私がそれに気付いたのは足元に生えていた草に躓き、転んでしまった後だった。

 「いた…」

膝に鋭い痛みを感じる。幸か不幸か私が倒れたのは草むらの上で、その為に擦りむきはしなかったのだが、どの草かの葉で少し切ってしまったらしい。つくづくダメダメだ。


 そしてそういう時に限って、不運は続くのだ。つまり先程草むらに倒れてしまったことは幸ではなく、不幸の方だったのだろう。


 「―――!」

しゃがみこんだ私の目の前に現れたのは赤い身体に黄色と紫の脚を持った――

…そう、アリアドスだったのだ。
今度は夢でも幻覚でもない、現実世界のアリアドス。先ほどから小さなポケモン達がしきりに走っていたのはもしかして、このアリアドスから逃げていたのだろうか。今更気付いても仕方のないことに気付いて絶望する。

 私の怯えを感じたか、アリアドスはこちらを威嚇するように鋭い鳴き声を発した。口も、目も、脚も、あの頃よりずっと大きくなった私には見下ろせる大きさだったけれど、実際のそれよりも遥かに、私の目には大きく見えた。逃げなくてはと思うのに身体が言うことを聞かない。頭の中では食べられるバタフリーの映像が何度も何度もリピートされていた。


 「来…ないで」

通じるはずのない拒絶の言葉を呟くが、アリアドスは私の方へと歩みを進める。あの日バタフリーに掛けられていた口が、今度は私に向いているのだ。


 「やだ、やだぁ…っ」

 泣き出しそうになった。その瞬間に、赤い視界に小さな緑色が飛び込んで、来た。


 「――イトマル…」

家に置いてきたはずのイトマルが、そこにはいた。自分よりずっと大きな進化形を前に、私を庇って立ち塞がっていたのだ。

 「なんで、」

 何でこの子はこんなに、こんなに優しいんだろう。
私なんか、初めは下心だったのに、酷いことを言ったのに、あんなにダメなトレーナーだったのに。それでもイトマルは守ってくれるのだ。

…ならば私は、イトマルのトレーナーとして何ができる?私の前で、こんなに小さな身体で立ち塞がってくれるこの子に何をしてあげられるのだろう。

 果敢に足を踏ん張るイトマルが、私の方を見た。合図を待っているみたいだった。


 「イトマル、いとをはく!」

初めて指示したわざによって吐き出された真っ白な糸は、昨日と違って暖かい春の花の色だった。ソノオにぴったりの優しい色だった。
優しいその糸はあまり激しくはなく、しかし正確に相手を目掛けて飛んでいく。

 不意討ちを食らったアリアドスはまともにそれを浴びてしまい、身動きが取れなくなった。しかし、やったと思ったのもつかぬ間、その糸はアリアドスの8本の脚によってあっさり破られてしまう。怒ったアリアドスはイトマルに向かって倍返しとばかりに攻撃を放とうとした。その刹那。

 「ハッサム、つじぎり!」


後ろから私とは異なる声がして、アリアドスとはまた違う赤がイトマルと私の横を通り抜けた。それは指示通りに鋭い攻撃を繰り出し、アリアドスにダメージを与える。つじぎりを浴びたアリアドスは慌てて逃げて行った。

 「ナマエ、大丈夫?」

振り替えればそこには私が彼を好きになったあの日と同じ、大好きなひと。


 「リョウ、くん…?何でここに…」
 「イトマルが連れてきてくれたんだ。イトマルは多分、ナマエがここに入るのを見たんだと思う」
 「イトマルが…?」

アリアドスが去って尚も座り込んだまま動けない私の前に立ち、心配そうにするイトマル。本当にほんとうに、優しい子なんだ。そんなこと初めから分かっていたのに。

 「イトマル、ごめん、ごめんね…!」

私は夢中で手を伸ばしていた。手を伸ばして、イトマルに触れて、そして。
その小さな身体を抱き上げて、そっと胸に抱いていたのだ。トラウマのはずの真っ白な糸を吐いたその口に頬ずりでもするかのように顔を寄せ、私は今まで言えなかったことを小さく囁く。

 「イトマル、ありがとう。大好きだよ」


 口に出した瞬間、イトマルに寄せた頬を伝うものがあった。先ほど、アリアドスを前にした時は流れなかった水だ。水分が嫌いなイトマルを濡らすわけにはいかないと、慌てて顔を離す。
…すると、今度は目の前に立つ黄緑色の瞳がこちらを向いているのに気付くのだ。


 「ナマエは泣き虫だなあ」

 呆れたような、でも優しい表情をしたリョウくんが、ハッサムをボールに戻して私に手を差し出した。私はイトマルを地面に下ろしてその手を取り、ぐちゃぐちゃの顔で笑って見せる。


 「リョウくんが甘やかすからだよ」
 「ボクのせい?」
 「うん。私ホントに、リョウくんがいないと全然ダメだなあ」

自嘲気味にそう言えば、リョウくんも少し笑って繋いだ手を引いた。

 「じゃあずっと手が離せないね」


力強く引かれるままに立ち上がった私は、言葉通りに繋いだままの手の意味を考える。そしてずっと、と言った彼の頬が僅かに染まっているのを見て堪らない気恥ずかしさを覚えるのだ。

足元で見守るイトマルが、付き合い切れないよとボールに戻った。次に会うのは早くて明日だ。きっと今日はもう、気まずくて顔を合わせられないだろうから。



end

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テーマ「人外ファンタジー」
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