「こんにちはー」
そのまた次の日。例によってリョウくんの控え室を訪れた私は、入り口からぴょこりと顔を覗かせて中の様子をうかがった。
「…あれ?いない」
しかしそこに目当ての人物はおらず、きちんと整理された机やソファなんかが並んでいるだけであった。どうやらリョウくんはまだお仕事中みたいだ。四天王は名誉な肩書きだけど、仕事は大変。特にリョウくんは一番初めにいるから挑戦者さんの数も一番多いのだ。
どうしようかな。リョウくんが来るまで何をしていよう。空っぽの控え室でソファに座り、イトマルのボールを机の上に置いて考える。
おそらくリョウくんは30分以内に帰って来るだろう。そうしたらまた昨日みたいに撫でてあげられるかな。今日はイトマルとどれだけ仲良くなれるか、それが楽しみで仕方ない。リョウくんが喜んでくれるのも勿論嬉しいのだけれど、やっぱりイトマルが幸せそうにしてくれるのが一番嬉しい。何だかんだで私はイトマルのことを好きになりかけているらしかった。
そういえば廊下に自動販売機があったな。イトマルはジュース、好きだろうか。野生だったから飲んだことはないはずだけど。
「…よし」
私はお財布を持って廊下に走った。
***
自動販売機でミックスオレとサイコソーダを買って戻り、イトマルをそっとボールから出す。その黄緑の身体が現れた瞬間は少しびくっとしてしまったけれど、声を出すことは何とか抑えた。昨日のリョウくんの言葉が頭の中で反芻される。
「ジュース買って来たの。イトマル、どっちがいい?」
そう尋ねてパッケージを見せると、イトマルは私の右手にあるミックスオレを興味深げにじっと見つめてきた。どうやらサイコソーダよりミックスオレの方に関心があるようだ。
「はい」
甘い香りのするミックスオレをお皿に注いで(リョウくんの控え室から借りたものだ)イトマルの前に差し出せば、嬉しそうな声が上がる。
甘いものが好きなのか、ミックスオレを美味しそうに味わう姿は恐怖の対象というより可愛らしいものだった。至福の表情で目を細める姿が微笑ましく、私はついその子が"イトマル"であることも忘れて手を伸ばす。
「……」
が、その手はイトマルの小さな緑色の背に届く前に押し留められた。
撫でようとした瞬間に思い出された例の記憶が私に触れるのを躊躇わせたのだ。私はそっと手を引っ込めて、もう殆どミックスオレを飲み終えてしまったイトマルを見詰める。
この口が、この目が、あの日のアリアドスとは違うものだと、私はちゃんと知っているのに。身体に染み付いた反射レベルの抵抗感は随分と経った今もまだ消えてくれそうにない。
「…仲良くなるって、決めたもん」
小さく首を振って嫌な記憶を吹き飛ばした。それから少し息を吐いて、再びイトマルに目をやる。
「あれ?」
見てみれば、ミックスオレを飲み終えたイトマルはうつらうつらと大きな目を閉じかけていた。
上のまぶたが完全に落ちるたびに慌てて引き上げられるという行為を数回した後、とうとう持ち上がらなくなったそれはイトマル自身の瞳を隠し、お陰で私はイトマルをじっくりを見つめることができた。
「寝ちゃった」
しばらくすると規則正しい息の音も聞こえてきて、私はふっ、と小さな笑みをこぼす。
まだリョウくんが来ていないのにどうしよう、なんて考えは頭に過ったが、リョウくんならイトマルを責めることもないだろうと思い直し、閉じられたまぶたに向かって声を落とした。
「おやすみ、イトマル」
言葉と同時にゆっくりと伸ばした私の人差し指は、僅かにイトマルの背をなぞって私の膝の上に着陸した。思わず顔が緩む。
起きている時には触れることが出来なかったそこに、自分一人でも触れられたこと。しかも義務感からではなく自然にできたこと。それはあまりに些細な、だけど私にとっては奇跡みたいな進歩だった。思わず泣きそうになりながら、その涙が恐怖からくるものでないことがまた嬉しかったのだ。
***
「―――あれ、イトマル寝ちゃったんだ」
「あ、リョウくん」
予想通り30分に満たないうちに帰って来た彼は、イトマルが寝入っているのと、空になったミックスオレのペットボトルを見て全て理解したみたいだった。私を誉めるように優しく笑う。
「じゃあ、イトマルが起きるまで話してようか」
「うん!」
大きく頷いた私に、リョウくんはまたあたたかい笑顔をくれたのだった。