次の日、お昼過ぎにリーグへ行ってみるとリョウくんは既に入口のところにいて、私に気付くと片手を挙げて挨拶してくれた。私も手を振って、急いで駆け寄る。
「お待たせ!」
「ううん、大丈夫。ナマエはもうお昼食べた?」
「うん!」
話しながらリョウくんの控室へ。扉を開けて入るよう促したリョウくんに従って、ポケットの中に握りしめていたモンスターボールを取り出す。後ろでバタンと音がして、同じように部屋に入ってきたリョウくんがソファに腰掛けた。
「じゃあ、今日はとりあえず触ってみよう」
「う、うん…」
私は浮かない相槌を返して、手の中にあるボールを見た。そっとボタンを押してそれを開けば、昨日と同じ黄緑色。イトマルは小さく鳴き声を漏らすと、うーんと伸びをしてこちらを見つめてくる。
その姿に少し身構えてしまうが、私は昨日のように避難したりはせず、少し息を呑む程度で踏み留まった。
「……」
無言になってしまった私に焦れたのだろうか、「ほらナマエ」と急かすようにリョウくん。うう、待ってよ。心の準備をさせてください。
すう、と息を吸って心臓を落ちつけ、目を閉じる。
そうだよ、触ればいいだけなんだから!それくらいならできるはずでしょう。自分に言い聞かせ、そっと目を開けた。行くぞ!と心を決め、イトマルの方を見る―――と、あのがさがさ動く8本の足が目に入ってしまった。
同時にフラッシュバックする、幼い日の記憶。動くほどに絡みつく糸と、近くに寄る顎。蠢く8本の足……。
「――っ」
だめだ。
私は、勢いよく顔を逸らしてしまった。「ナマエ、」とリョウくんが咎めるような声を上げる。
「うん、…ごめん、大丈夫」
私は答えて、再び目を閉じた。大丈夫。あの子はあの時のアリアドスではないし、私を食べられるほど大きくもない。糸だってない。それに、近くにはリョウくんもいるのだ。不安になる要素なんかこれっぽっちも無いというのに。
「……」
臆病な私の握りこぶしは小さく震え始めていた。
なんで、私決めたのに。苦手を克服するって。だっていつまでも逃げ回る訳にもいかないのに。イトマルやらアリゲイツやらバチュルやらデンチュラやら、森や草むらに行けばそこかしこにクモポケモンがいる。全てを避けて生きていく訳にはいかないのだ。せっかくリョウくんも付き合ってくれているのに。
「―――ナマエ、無理するならやめた方がいいよ」
ソファに座ったリョウくんが私を見つめて言った。
「でも、」
「苦手を無くそうとして無理をして、ナマエが今よりもっとトラウマを持つ方が辛いと思うから」
なんて。
相変わらず、彼は私にすごく甘い。
小さいときからいつもそうだった。私が人として駄目なこと…ポケモンにいたずらしたりだとか、捨てたりだとか、そういうことをしないように、彼は私をうまく誘導するのだ。私をいい人になれるように道筋を示してくれる。
そんな優しさにどうしようもなく甘えてしまう私は、本当にリョウくんのために何かお返しができるのだろうか。とりあえず今は、苦手をなくすところから始めてみたけれど。
私の中のそんな気持ちなど知らず、「それにね」。リョウくんは続ける。
「ナマエがそうやって嫌そうにしているのを、イトマルは全部見てるんだよ」
私はハッとしてその小さなポケモンを見つめた。大きな黒い目で、頼りなくこちらを見上げてくるイトマル。…そうだ、この子にだって心はあるんだ。私ばかりが辛いんじゃない。リョウくんにお返しできる自分になる、なんて言ってはいるけれど、この子と仲良くなりたいのだって本当だったのに。それにしては私は気遣いが足らなすぎる。リョウくんとイトマルの優しさに甘えすぎている。
「ごめんね、イトマル」
私は床にしゃがみ込んで、その背中をゆっくりと撫でた。臆病な私はそれでもイトマルの目を見ることはできなくて、視線を脇に逸らしながらでないとできなかったのだけど、リョウくんはそれでも笑ってくれたのだ。
「よくできました!」
…ああ、やっぱり、彼は私にとてつもなく甘い。