空のサカナ

ふわふわと無重力のように体が浮かぶ感覚。まるで綿に包まれているかのように、柔らかくて、苦しい。じわじわと殺されるかのような錯覚に陥り、私は思わず腕に力を込めた。それでもその妄執は消えず、堪らなくなった私は口を開いた。

「ねぇ」

ぼんやりと上の空で呼び掛ける。飴玉を口に含んだ時のような甘さが漏れ出したような声に辟易し、ちょっと顔を背ければ、脱ぎ捨てられた服が恨めし気にこちらを見ている気がした。それでも相変わらず現実感は無く、ただ目の前でさらさらと揺れる黒髪だけが事実を訴えるように存在を主張した。

「ねえ」

別に返事を必要としていた訳ではないけれど、なんとなくもう一度繰り返してみる。すると何を思ったのか、彼は私の口をその唇で塞いでしまった。特に力を入れていなかったからか、彼の舌はするりと私の口内に侵入し、まるで菓子でも食うかのように貪った。つうと銀色の糸を引いて離れた彼の唇は、不自然に濡れていておかしい。

「どうしたの」

いつもと同じ、余裕のある笑みに少し苛立った。そっと彼の唇を指でなぞる。そのまま指を口の中に少し突っ込めば、動揺した様子もなくべろりと舐められた。そのままなんとなく歯をなぞる、ああ、綺麗な形をしている。歯並びも良い。たらりと彼の口端から垂れる唾液が染みを作る。なんとなく喉に指を向かわせれば、さすがに気持ち悪かったのか手首を握られ私の指は彼の口内から追い出された。えづく彼の目に浮かぶ涙を舐めてみる、特に何の味もしなくてがっかりとしている自分に気付いた。甘ければよかったのに。

「ホントにどうしたの?」

心配そうな瞳が目の前で揺れている。その視線にまた殺されるような気がして、唾液塗れの指で彼の瞼をそっと閉じさせた。閉じた目が妙に綺麗で溜め息が出る。ふ、と一つ息を吐いて、なんだか億劫だったけれど、仕方なく声を発した。

「夢を見るの、毎日同じ」

目を瞑ったままの彼の耳元で囁く。まるでこの上もなく大切な事の様に、とびきり甘い睦言の様に。

「へえ、どんな夢? 僕は出てる?」

夢見心地のような声にちくりと心臓を針で刺されるような痛みを感じ、咄嗟に返事をする。

「いいえ」

いいえ、いいえと脳内で繰り返す。ぐわんぐわんと鳴るそれが鬱陶しくて頭を振ってみたけれど、何も変わらないどころか酷くなった気がした。
残念そうに、「そうなの?」と言った目の前の唇に人差し指を当ててみる。素直に黙ってくれる彼は、可愛いけれどちょっと憎たらしい。本当は残念でも何でもないんだわ。最初からそのくらい知っていたけれど。
唇から移動させ、前髪をそっと上げる。いつか、綺麗な目だと褒めたら喜んでいたっけ。露わになった彼の額に自分の額を寄せる。彼はどの目で夢を見るのだろう。もしかしてそれぞれの目に役割分担があったりするのかしら。聞いたって何も教えてくれないんだもの、ちょっとくらい妄想させてよ。

「空を泳ぐサカナの夢よ」

彼に合わせて、夢見心地な声で歌う。空を泳ぐサカナが見える場所に立っているの。そこには何だってあるのよ、綿菓子の雲も、金平糖の砂漠も、薔薇の雫の泉も、レースの洞窟も。海はいつだって星を写したかのようにキラキラ輝いて、お皿に乗った美味しい食べ物は消えない。空はいつも淡い紫色で、朝が来る事はないの。そこでは私の欲しい物はなんでも手に入るのよ。

「ふーん、素敵だね。僕も行けたら、そこでデートできるのに」

「無理よ」

冷たく言えば、傷付いたように口を尖らせた。残酷な人ね、そんなこと思ってもいない癖に。
ねえ、聞いて。願えばなんでも手に入る世界で、あなただけは手に入らないの。私はいつも、たった一人で、海を飛ぶのよ。
渇いた指で、残りの目をまさぐれば、優しくその手を掴まれて制止された。苛立って睨みつければ、穏やかな瞳と目が合って拍子抜けした。

「きっといつか、一緒に空を泳ぐサカナを見ようね」

どこまでも穏やかで深い色をした彼の瞳を見ると、諦めに似た後悔が襲った。私、彼と出会わなければ良かったわ。きっとこんな宙ぶらりんな感情を、抱くことなんてなかったはずよ。キスは今より下手だったかもしれないけど。

「そうね、見れたらいいのにね」

曖昧な返事と、微笑みを一つ。望みの深さに反比例して、実現する可能性は下がって行くから。
そっと彼の肩口に頭を押し付ける。まるで愛おしむように撫でる手を、振り払うことはできなかった。
ねえ、聞いて。空のサカナはひとつだけ人間の言葉が喋れるのよ。それがなんだか、あなたには絶対教えてあげないの。

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