センニチコウ
とうとう、異動届を書いた。張り裂けそうな気持を、ゆっくり丁寧に文字に込めて、まるで自分の気持ちを隠すように白い封筒に包み込んだ。
衆合地獄に就いて、もうどの位経つのだろうか。初めは単に、良い上司だなと思っていた。優しくて、綺麗で、仕事も丁寧に教えてくれる、素晴らしい上司だと思っていた。いつからだろう、彼女の姿を見る度に胸が高鳴るようになったのは。その挙動に一喜一憂し、自分が男でない事に毎夜枕を濡らすようになったのは。
彼女にそんな気はさらさらない事くらいわかっている。けれど、右も左もわからない新卒だった私に、手取り足取り親切に教えてくださり、上手くできたときはいつだってとびきり褒めてくださった。髪型を変えたらいつだって一番に気付いてくださったし、ミスした時は一緒に残業してくださった。下っ端の私の悩みや意見を真剣に聞いてくださったし、危ない目に遭いそうになったときは助けてくださった。これが好きにならずにいられようか。
褒められたくて必死で働いたし、会えないのが辛くてわざとミスをした事もあったっけ。けれど、もう疲れた。不毛な恋は、終わりにしよう。
「お香姐さん、私、衆合地獄辞めます」
驚いたように目を見開くお香姐さんに、思わず笑みが漏れそうになる。今だけは、きっと彼女の心は私で占められているはずだ。未だに想いを捨てきれずにいる自分に気付き、自己嫌悪に陥った。
「随分と急ねェ、何かあったのかしら?」
困ったような笑顔で異動届を受け取る手は細く白く、そのまま握りしめてしまいたい衝動に駆られた。
ああ、何かあったのかだなんて、あなたがそれを聞くのですか。いっそ言ってしまえたらどんなにいいか。私、あなたのことが好きなんですよ。ずっと隣に居たいって、他の誰かに取られたくないって、ふわふわの髪に触れたいって、色っぽい瞳を独り占めしたいって、そのふっくらとした唇に噛みつきたいって、こんな事を言う私はお嫌いですか。
「何にもありません、よ」
そんな事言える訳がない。臆病者だと自分でも思う。それでも、彼女に拒絶されるのが怖い。気持ち悪いと思われるなら、いっそ良い部下のままでいた方がましだ。傷つきたくないから逃げるなんて、やっぱり卑怯だろうか。
「そう? 柏木ちゃんが居なくなるなんて、寂しくなるわァ」
「あはは、私もですよ。お香姐さんに会えなくなるなんて寂しいです」
誤魔化すように笑いながら、しくしくと痛む胸を抑えた。これで良かったんだ、と自分自身に言い聞かせる。元々叶うはずのない恋だったのだ、それはわかっていたじゃないか。
ああでも、許されるなら、最後に一つだけ。
「私、お香姐さんのこと、大好きですから」
今までも、これからも。
何度も諦めようと思ったし、嫌いになろうと愚かな努力をした事もある。それでも、未だに私は彼女を恋い慕ってやまない。だからこそ、私は愛しいこの場所を去るのだ。これ以上ここに居たら、きっと私は死んでしまう。愛しさと独占欲と、憐れな嫉妬心に塗れて溺れて、息ができなくなってしまう。血の池地獄なんかよりも、相当性質が悪い。
「あら、嬉しいわ。アタシも柏木ちゃんのこと大好きよ、異動先でも元気でね。柏木ちゃんは優秀だから、きっと上手くいくわァ。本当はちょっと惜しいんだけど、頑張ってね」
ぐずぐずと心臓が疼く。ああ、私、馬鹿だなあ。
ねえ、お香姐さん、私は優秀なんかじゃないんですよ。あなたの役に立ちたくて、少しでも近づきたくて、必死で働いてきたんです。滑稽でしょう。焦がれて焦がれて、憎いとまで思ったけれど、それでも愛することをやめられなかった憐れな私をどうか笑ってください。それとも、もしあなたが本当に優しいなら、どうかその手で殺してください。
そんな私の思いを知る由もない彼女は、何でもない様に異動届を懐にしまう。ひらひらと手を振って去っていったお香姐さんの後姿は悲しい位いつも通りで、なんだか無性に泣きたくなった。
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