かわいいくちびるに
「ハー、マイ、オ、ニー」
彼女の名前は難しい。長い上に、発音しにくい。
イギリス人でさえ難しいと言うのだ、英語圏出身でもなんでもない私に発音できるはずがない。
かといって諦める訳にはいかない、大切な人の名前だ、正しく、綺麗に呼びたい。
「なあに、さっきから私の名前ばかり呟いてるけど。そんな事してる間に魔法薬の作り方でも覚えなさいよ」
量の多い髪がちらりと目の端に映る。相変わらず、今日も大量の本と一緒だ。また図書館から借りてきたのだろう。
彼女は寮の部屋よりも、図書館に住んだ方が良いと思う。毎日の移動は無くなるし、合理的だ。図書館の妖精、なんて呼ばれたりして。
「ちょっとアシュレイ、なにニヤニヤしてるの。気味が悪いわ」
ちらりと彼女の顔を見れば、眉間に皺を寄せ、唇を引き結んでいる。なんだかマクゴナガル先生みたいだ、と思うと笑えてきた。
なるほど、彼女は確かに先生らしい。相手を思うあまり、厳しい言葉を浴びせてしまう。不器用な子だ。
「発音がね、難しいの。でも、ちゃんと呼びたいから」
そう言いつつ笑顔で彼女を見やると、近くの机にどさりと本を置き、こちらへつかつかと歩み寄った。
本を置いた時よりもずっと軽い音で、どさり、と私の隣に座る。
ふわり、とシャンプーの匂いがする。私と同じ匂いだ。彼女のシャンプーは少し前に無くなって、買い置きするのを忘れていたとかで、最近は私のものを使っている。
「ハー、マイ、オ、ニー」
面と向かって、彼女が自身の名前を声に出した。
凛とした、綺麗な声。大勢の中に居ても、それとわかるだろう。
「うん、知ってるけど」
どう反応していいかわからず、それだけ言うと、彼女は馬鹿にした目でこちらを見た。
なんだなんだ、馬鹿にされるとは心外だ。
「馬鹿ね、当たり前じゃない。真似しろってことよ」
そう言って彼女は何度か自身の名を口にし、私は必死で真似をした。
彼女の唇の皺の数まで覚えそうな程に、まじまじと口の動きを見つめた。
ああ、柔らかそうだ。かわいいなぁ。なんて思っていると、自然と体が動き、彼女の唇に、自分のそれを押し当てていた。
「……ごめん、つい」
かわいくて、とは言えなかった。
彼女は真剣に、私の練習に付き合ってくれていたのに。
怒っているのだろう、顔が真っ赤だ。しばらく口を聞いてもらえないかもしれない。
「アシュレイ、あなた、何を」
耳まで、赤い。
心臓がうるさいのはどっちだろう。
こんなに近いと、私の鼓動が、あなたの鼓動が聞こえてしまう。
「ハーマイオニー、ごめんね」
何を言っていいかわからず、出てきた言葉は謝罪だった。
ファーストキスだったらどうしよう。ごめんで済まない。ハーマイオニーなら、罰として吸魂鬼とキスをしろなんて言いかねない。
「はぁ、もういいわ。呆れた。私の借りてきた本は全て無駄になったってわけね」
真っ赤な顔のままそう言って、本の置いてある机に寄った。
彼女が腕に抱えた本の題名を盗み見ると、なるほど、どうやら怒ってはいないらしい。
「女の子を振り向かせる魔法」、「幸福薬の作り方」、「同性との恋愛に役立つ50の魔法」なんて、きっと期待してもいいだろう。
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