このまま死んでもいい極楽の

 はて、ここは何処だろうか。なんだか妙にだるく、体を動かす気にもなれず、閉じようとする目をぱちぱちと瞬かせる。見た限り、ここはどこかの部屋のようだ。私の寝ているのはベッドで、脇の小机に置かれた行灯の様なランプは、なんとなく中国を思わせる。
 まさか、天国に来てしまったのだろうか。という事は私は死んだのだろうか。あれだけ何度も刺されて無事で済むとは思えない。一瞬誘拐かとも思ったけれど、有り得ないだろう。そうだとすれば、とんでもない医療技術の持ち主だ。しかし天国にしてはいやに現実的だな、もっとふわふわした所なのかと思っていた。しかし、こうして寝かせてくれているのは有難いが、これからどうすればいいのだろうか。そう逡巡していると、不意に扉が開けられたのがわかった。

「あ、起きた?」

 そこに居たのは、白衣に三角巾という出で立ちの、切れ長の目をした男だった。誰だろう、と考えるよりも先に、男であるという所に勝手に体が反応する。今までは苦手なだけで拒否反応らしいものは出なかったのだが、今回のは相当堪えたらしい。そこまで考えて昨晩の事を思い出し、少し吐き気を催した。できるだけ遠ざかろうとするかの様に体は動こうとしたが、口の端からひゅっと息が漏れただけで、思うように動けなかった。

「ごめんごめん、怖がらないでよ。まだ体は痛む?」

 男は特に気にした風でもなく、その顔に柔和な笑みを称えてこちらへ近づいて来た。恐怖で体が縮こまったが、頭はやけにはっきりしていて、私は相手の様子を窺った。この人が私を助けてくれたのだろうか。その手に持たれたお盆の上には、湯気の立つ椀が一つのっていた。

「茶粥を持ってきたんだけど、食べられそう? サッパリしてるし胃に優しいよ」

 ベッド脇に椅子を引き摺って来て腰掛けながら言うその人には、邪気は感じられなかった。パニックを起こす寸前だった頭が、すっと冷えていく。何故かはわからないけれど、なんとなく、この人は私に危害を加えない気がした。
 もしも、ここが地獄だとしたら、きっと犯罪者で溢れているのだろう。しかし天国ならば、まさか悪い人は居ないはずだ。私は閻魔様にも会っていないし、舌もちゃんとついている。ということは、ここは地獄ではない可能性が高い。それならば、あまり警戒する必要はないかもしれない。
 ああ、私は何を言っているのだろうか。混乱し過ぎておかしくなってしまったらしい。天国や地獄がまさか本当にあると思っているのだろうか。そんな馬鹿げた事を冷静に分析してしまうなんて、いよいよ頭がおかしい。

「ありがとうございます、あの、その前にお聞きしたい事があるのですが」

「ん? なになに?」

 彼は笑顔で小首を傾げた。もし体が動かせていたのならば、きっと走って逃げていただろう。不思議と体に痛みはないが、やけにだるく、何もかもが恐ろしく見え動けない。どうやら昨日のあれは相当こたえているらしい、トラウマというやつだろうか。

「あの、ここはいったい何処で、私はどうなっているのでしょうか」

 震える声で尋ねる。わからないなら、聞くしかないのだ。寝起きだからか掠れたその声は、何だか自分のものには思えなくて気分が悪くなった。

「ここは僕の家だよ。昨日君が襲われてたのを保護して連れて来たんだけど、覚えてない?」

 そうだったのか。
 そういえば、意識を失う直前に、あの男の叫び声を聞いた気がする。私の具合が余程良かったのかと思ったが、どうやらこの人が割って入ってくれたかららしい。確かに、何か白いものが目の端に写ったのも覚えている。それはどうやらこの人の白衣だったらしい。ということは、私は生きているのだろうか。しかも私の貞操は守られたのか。

「そういえば、そうだった様な……。ありがとうございます」

「いえいえ。君みたいな子なら、助けるのが当然だよ。ところで、起き上がれそう? 少しは食べないと元気にならないよ」

 体に力を入れてみるが、少し痙攣しだけだった。やはり社会復帰は厳しそうだ。このまま寝たきりか、と思うと元々最低だった気分がさらに落ち込んだ。

「すみません、ちょっと無理そうです」

 そう言うと、やはり、といった表情で立ち上がり、すっとこちらに手を出してきたので、再び吐き気を催した。さすがに様子がおかしいと思ったのか、彼の手は微妙な場所で止まってしまった。

「あの、すみません、男の人が、少し」

 それだけ言うと、私が何を言わんとしているのか察したらしく、困った様な笑みを浮かべていた。
 素性のわからない、しかも公園で血塗れで襲われていた私を助けて保護してくださった優しい方なのはわかっている。それでも、男というだけで、体は勝手に反応してしまう。恐怖と申し訳なさでなんだか死にたくなった。

「あ、ちょっと待っててね」

 考える様に頭を掻いていたかと思うと、何か閃いたのかぱたぱたと部屋を出て行った。気を悪くさせてしまっただろうか、と落ち込んでいると、一分もせぬ内に再び扉が開いた。
 そこに居たのは先程の彼ではなく、たっぷりとした髪に、高そうな着物、帯の代わりに蛇を纏った、角のはえた女性だった。

夢を埋める雨の音


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