【前の話がどこに行ったのかログを遡る根気がなかった…すまない…すまないと思っている!!!(ジャック・バウアーの声で)】
さいきん、調子いいですね。
羽生蛇村の一件からそれとなく俺の身を案じていた沖田が、朗らかに声をかけてきた。 仕事は以前と何ら変わらずこなしている。ただ、夜は良く眠れるようになり、三食を欠かさずに食べ、薬は飲まなくなった。 それを指して調子が良いというのなら、「調子が戻った」と表現するべきだろう。 「まあな」 つむじ風を巻いた思考を三文字の音にまとめて答える。 「いいことありました?」 「永井に睨まれなくなった」 沖田がバディを組んでいるほうの『永井』だ。 以前は、顔を合わせるたび、俺が幹部であるというだけであからさまな緊張を見せ、びびっていると思われたくない……という理由でもあるのか、いちいち身構えられていた。 それが、沖田の教育がよろしいのか近頃はそれなりに敬意を持って遇されている、ように思う。あいつも大人になってきたんだなと感慨に耽るほど付き合いは深くないが、現在の俺は、永井の生い立ち、好物、ちょっとした癖や、肌の感触まで知っている。 ……ただしそれは、家で待っている『もうひとりの永井』のものだ。 ここにいる永井と寸分たがわぬ姿かたちをして、俺以外の誰の目にも映らない、幽霊というには騒々しくて、足もあれば体温もあり、生身の人間としか思えない妙な存在である。 お前はドッペルゲンガーなのか、と訊ねたら「世の中には自分そっくりな奴が三人いて、見たら死ぬって話ですっけ」俗信が物騒な方向に捻じ曲がった答えがかえってきた。 曰く、彼はこことは違う世界の「永井頼人」であり、そちらで起きた異常事態に巻き込まれて、異世界にやってきた……らしい。異常事態とは一体なんだったのか、詳しいことはなにも話そうとしない。ただ、暗闇を恐れたり、自分が俺の目に映っているのかどうかをたびたび確認しては安堵する素振り、悪夢にうなされて、沖田や俺の名を呼んでは泣いている姿を見れば、だいたいの想像はつく。
俺が二年間もの間ずっと抱え込んでいた悪夢と、何らかの関わりがあったのだろうことも。
デスクワークがやけに立て込んだせいで、課業を終えたのは夜の九時を回ったところだった。 駐屯地の門を出たところで、私物の携帯電話を取り出し、片手の指に足りるほどの短縮登録から自宅を呼び出す。数コールで留守番電話のアナウンスに切り替わり「俺だ。起きてるか」問いかけが終わるか終わらないかのところで、アナウンスが断ち切られる。 『起きてます。ご飯冷めました。ハラ減りました』 不服そうな報告に、思わず頬が緩む。幹部の業務は、曹士に比べれば不規則なのはもうよくわかっているだろうし、律儀に待たなくても良いのにと呆れる反面、俺を待っている永井がお預けを食った柴犬のように思えてならない。 「先に食って寝てろ」 『今から帰りでしょ。待ってます』 「急ぐよ」 『……はい。待ってます』 「じゃあ、後で」 同じ言葉を繰り返す永井の、最前とは違ってやわらかな響きを持った声を温かく感じながら通話を切り、歩き出そうとして……目の前に永井が立っていたので、危うく、妙な声をあげるところだった。 「三沢三佐……」 「……永井士長か」 わかっていることをわざわざ口に出して確認してしまう。 これは、皆に見えているほうの永井だ。学生が着るようなパーカーにジャージ下のラフな格好で、手にコンビニの袋を提げているところを見ると、夕飯だけでは足らずに営外に食料調達に出ていたのか。 「ご苦労さま」 「お勤めご苦労様です」 決まりきった労いの応酬に、ぺこりと頭を下げた永井は―――好奇心の塊のような目で俺を見ている。どこから聞かれていたのか、これは、良くない兆候だ。 「三沢さん、奥さんいたんですね」 無意味に反発しなくなり扱いやすくなったぶん、遠慮なく踏み込んでくるのはうちの永井に似ている、さすが、同じ人間だ。 「女房じゃないよ」 まんまるく見開かれた目の奥に『現地妻』という……いや、永井ぐらいの年なら「愛人」あたりか?……文字を読み取って、首を左右に振る。 「俺は、独り身だ」 「あっ……じゃあ、カノジョさんですか」 「……そうだな」 お前のドッペルゲンガーだよとも言えず、曖昧に頷く。永井は「だから三沢さん、ちょっと明るくなったんですね」たいそう無邪気に、じゃあ以前はどうだったんだと問い詰めたくなるようなことを口にした。 明るい場所だけを気楽に歩いてきたような暢気らしい顔で、感情を外に出すことを躊躇せずにいられるこいつが羨ましくも憎らしい気分になっていたこともある。 今にして思えば、そんな内心の屈折が態度に出ていたなら、刺々しい男だと嫌われるのも道理だったろう。 永井個人に恨みつらみはまるでない、むしろ、いまどきの若者にしては根性のある部類だと好感を持っていたのだが、俺の気も知らねえではしゃいでやがる、と、『健常』な人間に向けるやっかみは、悪夢に蝕まれた俺の心に食い込んで離れない業病だったのだ。 いつか、うちの永井には、あの悪夢がなんだったのか聞き出すべきだろう。きっと、答えを持っている。 「あ、の……他の奴には、話しませんから……詮索するようなこと言って、すいません」 「ん? ああ……」 俺が他所事を考えていたのを、不機嫌になったと勘違いしたらしい。永井は居心地が悪そうに肩をもぞつかせ、上目遣いに俺を窺ってくる。うちの永井が、おかしなことを考えてるときと同じ態度だ。いや、うちのほうがもっと図々しくて馴れ馴れしいが。 恐縮している永井を見ていたら、ふと、悪戯心が動いた。 「俺も、お前が実家の本棚の後ろに、五年生のときにもらったラブレター隠してるのは内緒にしておいてやるよ」 「えっ……えっ!? なんで三佐がそれ……えぇっ!?」 こぼれ落ちそうなほどに目を見開き、すっとんきょうな声をあげる永井に手を振って歩き出す。
玄関を開けると、明かりがこぼれる居間から軽い足音を立てて永井がやってくる。いつものことだ。 「お帰りなさい、ご苦労様です」 「ただいま」 いつもより神妙な顔をしている永井の、もうひとりよりも少し長めの髪をくしゃりと混ぜると、肩口に顔を埋めるようにして抱きつかれた。留守番が寂しかったのだと、少し苦しいくらいの力が伝えてくる。 友人や家族、路傍の人々にも一切認識されない人間の孤独というものを、俺は推し量ることすらできない。ただ……俺の目に映り、触れて、感じることのできる体を抱き返してやるだけだ。 じわりと沁みてくる体温に吐息をついて、こめかみのあたりに顎を擦りつけてやる。生えかけの髭がくすぐったかったのか、ん、と小さく声を漏らして身じろぎ、離れていくのを少しだけ惜しいと思った。 「腹減ってんだろ。俺も、腹ぺこだよ」 「……用意できてますから。お風呂もあります」 食事?風呂?それとも……、という、所帯をもった人間の理想として語られるフレーズが脳裏を過ぎる。 「飯食ったら、一緒に入るか」 「了!」 ありきたりのユニットバスだが、大の男ふたりがぎりぎり入れる程度の広さはある。 嬉しそうな永井の表情は、俺の中に知らず澱んでいた一日の疲労を掻き消すようだった。
さすがに、二人で入ると寿司詰めになる浴槽の中、俺の両足の間に尻を置いて、胸に背中をくっつけ、肩に頭を乗せてきた永井は心地良さそうな顔でいる。 なんとなく、湯の中に沈む脚や腹を掌で撫でると、くすぐったいですよと笑いながら言われた。 「三沢さん」 機嫌の良い猫か犬っころのように湿った頬を首に押し付け、甘えた声で呼んでくるのは、昼間のあいつとは別人のようだ……いや、別人だったな。 改めて、こいつはこいつでしかない、と当たり前のことを思いながら応じる。 「なんだ」 「好きですよ?」 靄のかかった浴室で、永井の声はとがったところのない、やわらかな形になって俺の耳の奥に滑り込む。 「ああ」 「そこは、『俺も』って言うところでしょう」 軽い頭突きを食らって、苦笑する。 「俺も好きだよ」 「思いっきり棒読みじゃないっすか。もっと愛情籠めてくださいよ」 「お前だって適当に言ってたろ」 「ひでえ」 拗ねる男を両腕で抱え、軽く揺さぶって告げる。 「時々な、思うことがある。目を閉じて、開けるまでの三秒の間に、お前が消えていなくなってたらどうしようかってな」 息を飲む気配がして、永井の膝が沈んでいるあたりの湯が跳ねた。 「もう、お前が来る前にどうやって眠れてたのか、思い出せないんだ。……消えるなよ、永井」 しばらくの沈黙の後、永井は湯の中から浮かせた腕を俺の腕に絡めてうつむいた。 「俺は……三沢さんが目を閉じて……開いたらもう、俺のことが見えなくなってて、俺がいたってことも忘れてたらどうしようって、寝る前はいつもそんなこと考えて」 永井の指先に力が篭る。 「どんなに呼んでも、さわっても、俺のこと見えてない……見てくれなくなったら……自分が生きてんのかもわからなくなりそうで……こわいです」 低くつぶやいて、口を閉じた永井は、小さく縮こまっているように見えた。こいつを見ることができるのは俺だけであり……この世界にはもう一人の、皆から見えている、いわば「本物の永井」が存在している、という状態は、永井にとっては辛いものなのだろう。 ただ、二人とも似たような不安を抱えているのだと知ることは……永井には悪いが、些かならず安堵の種にはなる。 俺がこいつを見ている限り、こいつは他の何処にも行かない。 「永井」 少し強引に上向けてやった永井の額に、唇で触れる。 ついでにお望みの言葉を告げてやれば、永井は喉の奥でぐう、と唸った。 まともに言われて恥じ入るくらいなら、仕掛けなければ良いものを。面白いからいいんだが。 「のぼせないうちに出るぞ」 「っ……了」 濡れた髪をぐしゃぐしゃと掻き回して促すと、良い返事がかえってくる。
余計なことなど考えられないほど、現実で手いっぱいで夢も見られないほど、抱いてやろうと思った。
255548
|