<前回のあらすじ>
オキタさんがこじらせはじめた。

→ もくじ。

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 潮と、錆と、血の臭い。
 どこか似通って、生臭くまとわりつくそれらに鋭い火薬の臭いが混ざり、鼻腔を刺激する。
 濃密な不穏の気配に息苦しさを感じ、前に進もうとした足に泥がまとわりつき、思うように進めない。足下も行く手も一面真っ赤な泥沼を前のめりに歩くうちに、半長靴の底が沈みはじめた。
 柔らかい泥に足首が、膝が沈んで行く。
 それでも、進まなければならないとわかっていた。
 でなければ――追いつかれる。
 泥の中を泳ぐように手を動かし、途方もなく重たい一歩を無理矢理に進む背中に、気配を感じた。
 暗く禍々しく、肌の上を這いずり回る圧迫感に、焦燥が湧く。捕まってはいけない。囚われてはいけない。
 この気配に絡めとられたら、闇の底に引きずり込まれて、かえれない――――。
 一歩でも遠く逃れようともがけばもがくほど、泡を吐き出す赤い泥が足を押さえつける。泡がはじけるごとに、呪詛の声が響く。
『どうしてたすけてくれなかったの』
 眼窩を押し拡げ肥大する片目で見つめる少女がつぶやく。
『おれをころしてまんぞくしたか?』
 迷彩の男が笑う。
『ながいもつめたいよなぁ』
 血まみれのあのひとが嗤う。



 悪夢の中で押し殺した悲鳴の名残が、喉の奥で軋む。
 冷たい汗がこめかみを伝い落ち、枕に吸い込まれた。
―― ここは、どこだ。
 目をあけた時、永井は自分の置かれた状況がわからずに鼓動を早めた。薄暗い部屋、装備は解かれ、武器もない……危機感に身を焼かれたのは一瞬、すぐに、オキタの厄介になっていることを思い出す。
 どれだけ眠っていたのか、空気抜きの窓から射し込む光の角度が違う。
 この部屋で眠り、目を覚ましたのは、はっきりとした意識を保っている時だけを数えておそらく三度め、そのたびに同じように焦っているのだから世話がない。今回は、悪夢からの覚醒という要らない付録もついているが。
 永井はわななく息を吐き、こめかみでどくどくと脈打つ動悸が落ち着くまで、薄掛けの中で身動きせずに深呼吸を繰り返した。食糧を得るために真昼の家に忍び込み、住人を絞め落とした時だってこんなに緊張はしなかった。
―― 逆かな。
 気が弛んでいるから、状況を忘れてしまうのだ。オキタの元にいると、自分がこの世界の異端だということを失念しそうになる。
 つくづく、おかしな人物だ。
 永井がこの世界を荒らし回った存在だと承知しているだろうに、ここにかくまって世話を焼き、親しげなそぶりさえ見せる。たった数日で、彼を信頼の気持ちを持たせている。
「どこ、行ったんだろ」
 彼には彼の生活があるのだと、この家を見ればわかる。仕事に出ていったのか、待っていれば戻ってくるのか。
 オキタ以外には答えようのないことを考えているうち、腹が空腹を訴え出した。家主のいない間に家探しをするのは気が引ける、と、数週間ぶりにまともな思考を持つ……すこし前まで、住民がいなければこれ幸いと漁っていたのだが。
『衣食足りて礼節を知る、だよ』
 不意に、愚痴をこぼす友人の声が耳の奥に甦った。訓練の後片付けで夕食にありつき損ね、腹を減らしたあまりに小隊の仲間とラーメンを食べに行こうと語らい、柵を抜け出しかけた時のことだ。
 運の悪いことに、下っ端いびりが趣味のような警衛に見つかって、空きっ腹のまま説教をされ腕立て伏せまでさせられた……規律で腹は膨れないと、文句を言い合う気力も尽きたあたりで、どこからか話を聞きつけた沖田が「内緒だからな」と握り飯を差し入れてくれなかったら、餓死していたんじゃないかと、あの時は思った。
 どん底だと思っていた日々のことも、今となっては遠く懐かしい。
「……腹減った」
 握り飯のことなど思い出したら、よけいだ。
 オキタには後で謝ろうと決めて、布団を抜け出す。腕の痛みはあるし、体はだるく熱っぽいが、家の中を歩き回る程度は問題ない。
 薄暗い部屋で何かを蹴り倒さないよう、足下に注意して壁伝いに廊下に出る――廊下の端は片方は玄関、その逆は、オキタに案内された便所だ。
 飯の支度をしてくれたオキタは、玄関の方から来ていた、となると、あのあたりが台所だろうと見当をつけて進む。板床が微かに軋むたび、外に聞こえるのではないかと落ち着かない気分になった。
 せめて、ナイフの一本でも持っていれば幾らか心強いのだが。
 間口の広い玄関の脇、藍染めの暖簾に隠された板戸を引くと、細い煙突のついた竈と、真新しくはないが他の調度に比べると格段に新しい印象を受けるガスコンロとホーロー引きの流しが目に入った。
 ついでに、小さな冷蔵庫と、やはり年代ものらしい食器棚がある……古い家に新しい設備を追加していった、というところか。
 コンロの上に置かれた鍋の蓋をあけると、朝食に出された汁ものの残りらしい液体が入っているのが見えた……なにしろ暗いので細部はわからないが、美味かったのは確かだ。白飯はないかと釜の蓋を開けてみたが、こちらは長く使われている形跡がない。
 冷蔵庫はといえば、油紙に包まれた塊が幾つか、無造作につっこまれているだけだ。扉を開くと明かりがつくような機構ではないので、暗い箱のなかを手探りで荒らす気にはなれず、諦める。
 今までは首尾よく民家に押し入ったところで、冷蔵庫らしきものの中身はおおかた食材だろうと見当をつけて手掴みに持ちさり、口に入れて異常を感じなければ胃の腑に収めるような行為を平然と繰り返していたのに、人心地ついた途端にこれなのだから、本当に獣以下に成り下がっていたと自嘲する。
 どうやらひとりでこの家に暮らしているらしいオキタが、駐屯地の近くで独居していた沖田とどうしても重なってしまう。
 遊びにいくと手料理やつまみを手早く作って振る舞ってくれて、魔法のようだと感心していたら「お前も一人暮らしすれば嫌でもこうなるぞ」と笑っていた。「そしたら、俺が沖田さんにご馳走しますよ!」と……その日が必ず来ると、あの頃は思っていたのだ。
 ひとつ吐息をついて首を横に振り、視線をさまよわせる。
 換気窓から差し込む細い光の中に浮かぶ、古風なガラス戸つきの食器棚を漁り、四つ揃った湯呑み茶碗をひとつ取り出した。水道の蛇口を捻り、茶碗に注ぐ。
 乾いた唇を湿し、煽った水の生ぬるさが喉を滑り、胃の腑にじわりと染みていく。
 一気に飲みほして、まだ渇きを訴える喉をなだめるため、もう一杯と水を注ぎながら、当たり前のように流れ出す水に、改めてオキタの暮らし向きを思う。
 いったい、何をしているひとなのだろうか。
 この世界の一般市民、と言って良いのか、普通の闇人は銃火器など持っていない。彼は猟銃を扱い慣れているようだったし、抱き締められたとき衣服から微かな獣臭さを嗅ぎ取った……となると、猟師の類かもしれない。
「まさか、自衛隊ってことはないだろうしな」
 あの島で、かつての仲間達の死体を操って襲いかかってきた【彼ら】を思い出して、気分が暗くなる……今は着ていない迷彩服の胸についた階級章を握り締めるように手を動かし、着物の襟を掴む。 
 腕の傷が、じくりと痛んだ。
―― ここはもう、あの島じゃない。あいつらはいない。
 ここは新しい地獄だ。ずっとそう思っていた。思うことさえ放棄して、悪夢と同じように泥の中を這い回っていた。
 今の状況は――まだ、なんともいえないが、少なくとも地獄よりはだいぶマシだ。
 水を出しっぱなしだった蛇口を捻り、流しに片手をついた行儀の悪い姿勢で湯呑みに口をつけると、板戸が勢いよく引き開けられた。
 いつのまにか帰ってきていたのか、オキタが立っている。それも、随分と慌てたような顔付きだ。
「ナガイ……!」
 切迫した調子に、一瞬、自分の存在が他の闇人に露見したのかと嫌な予感が走ったが、大股に寄ってきたオキタが腕を引き、永井の身体を抱え込むように抱き締めてきたのでわけがわからなくなった。
「え、ちょっと、オキタさん……?」
 ものも言わずさらに強く抱かれて傷が微かに痛んだが、押し退ける気にはなれなかった。オキタの手が、小さく震えていたからだ。
 永井の背中を撫でる掌も、凍えるように揺れている。長身のオキタの肩口に顔を埋める格好になるとあの懐かしい匂いがして、ますます動けなくなった。
「―――……」
 喉奥から絞り出すように囁かれた声は優しいもので、温度は低くとも、生きた身体の温もりが布越しに伝わってくるのとあいまって、わけもなく泣きたい気分になる。わななく息を吐き、永井は手にしたままだった湯呑みをそろりと流しに置いた。残っていた水が床に零れてしまったが、沖田の責任でいいだろう。
 そろりと手を伸ばし、オキタの纏う上着の背を指先で掴む。
 引き寄せる腕に逆らわず身体を預けると、奇妙に安らいだ気分になった。オキタの震えはもう止まっている。
 彼も、同じような安堵を覚えているのだろうか。
―― なに、考えてんだろ。
 悪感情を持たれていないのはもう疑いようもないが、これでは、まるで……特別に、好かれているみたいだ。
 浮かんだ考えの突拍子もなさに頭を抱えたくなった瞬間、流し台で水滴が跳ねる音が大きく響いた。思わず肩を揺らすと、ややあってオキタの腕の力がゆるむ。
 少し身を離して見上げたオキタの顔には駆けこんできた時の思い詰めた色はなく、やけに優しい目をしていて、やけに気まずくなる。かといって、目をそらすのも変に意識しているようでどうしようかと思っていると、永井の困った顔が面白かったのか、オキタの唇の端がやわらかく持ちあがった。
 抱擁を解かれはしたが、まだ十分に近い距離でそんな風に微笑まれると、ますます身の置きどころがなくなる。永井は口角を下げ、眉根に力を籠めて床に目を向けた。そのタイミングを計ったように永井の腹が鳴って、気まずい空気が壊れる。
 ぽんと永井の肩を叩き、メシにしようとでも言っているのだろうオキタの笑い含みの声に、口を尖らせてふいと顔を背けた。
「なんだよ……ほんと、わけわかんねえ」
 突拍子もない思いつきが本当らしく思えて、それが、身体の内側がむず痒くなる感覚を連れてくるのがいけない。それとも、闇人というのは親愛の情を示す相手には誰でもこうなんだろうか。思惑がわからないうちは何とも判断をつけかねる、などと御託を並べてみても、もう、久しく見失っていた他人の好意を向けられて、落ち着いてなどいられないのだ。
 沖田と同じ顔で、声で、名前で……たぶん面倒見の良い性格も似ていて、そういえば、肩を抱かれたり背中を叩かれたりと親密なスキンシップの多いところも似ていて、そんな相手であっても、これは闇人なのに。
―― だとしても。
 永井の腕を引いて、厨房の隅にあった煤けた丸椅子に座らせるオキタのやけに楽しげな様子に、つられて浮き立った気分になってしまっている自覚はある。
 いったん姿を消したオキタを手持ち無沙汰に待っていると、部屋着らしい、作務衣に似た服の袖を器用にたすき掛けでまとめながら入ってきたので、物珍しさにしげしげと眺めてしまう。
 剥き出しになったオキタの二の腕は、薄闇に茫と浮き上がるように白いが、永井の知る沖田同様、よく鍛えられたものだ。
「オキタさんって、どんな仕事してる……ひと、なんですか」
 言葉が通じないのは承知で話しかけると、オキタはぱちりと瞬き、何を思ったか、永井の傍まで寄ってくると、頭をくしゃくしゃと撫で、にこりと笑って何事か諭すように言ってから流しに向かった。
『今すぐ作るから、待ってろよ』
 ……たぶん、そんなところだろう。
 飯の催促をしたわけではないのだが。
 少しはここの言葉を覚える努力をすべきだろうかと、初めて、そんなことを思った。


+++++


 支度をする間、ナガイは大人しく座って待っていたが、オキタが冷蔵庫にしまっておいた肉を取り出すと興味深そうに寄ってきた。
「これか? 鹿肉だよ」
「しや……?」
 自信がなさそうに反復されて、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 ナガイが鹿肉を指して軽く首を傾げたので、自分の言葉を真似たのだと、すぐに気付く。
「鹿、しー、か」
「……しか」
「そうそう、鹿」
 わかっているのかいないのか、「しか」と真剣な表情で繰り返すナガイがやけに可愛くて頬がゆるんでしまう。
「栄養あるからな、口に合うなら食べてくれよ」
 体を拭いた時に触れた、ナガイの骨の浮いた肩や背中を思い出しながら声をかける。
 弱っていたのは、腕の傷のせいというよりは、栄養不足と疲労が祟った部分が大きいのだろう。……それでよく、あの重たい装備一式をつけて動いていられたものだと、殺されかけた身にも関わらずいっそ感心する。
「―――――」
「ん?」
「―――、―――――」
 包丁を動かすオキタの手元を見つめながら、何事か話すナガイの声は落ちついているが、内容はさっぱりわからない。
 目顔で問うと、ナガイは首を横に振り、なんでもないというように元の椅子に戻っていった。横目で窺うと、軽く息をついている。
 ……やはり、あまり長時間は立たせておかないほうがいいだろう。ナガイ本人に自覚は薄いようだし、オキタも医者ではないから確実なことは言えないが、いくら怪物だといっても、歩き回っていい体ではない。
「食欲があるなら、そのうち、元気になるよな」
 我ながら能天気なことを呟いて、オキタは包丁を動かした。あれこれと考えるよりも、そこにいるナガイの様子を見る方が建設的で実際的だ。
 それと、手を動かすのもいい。
 誰かのための料理は作り甲斐があるし、向かいあって摂る食事は、ひとりで食べるよりも味わい深い。ひとまずは、その実感を得るために。


 変わり映えのしない粥と汁物、それと鹿肉を濃い味で煮付けたものを少し。
 そんな食事でも、ナガイは手を合わせて何事か呟いてから箸を動かす。おそるおそるといった風情で鹿肉を摘まみ、覚悟を決めた顔で口に入れて咀嚼する……どうやら口には合ったらしく、噛み締めているのが愉快だ。ともかく、思った通り、箸は当たり前のように使えるらしい。
「人間って、どういう暮らししてたんだ?」
 オキタの問いに、ナガイは箸を止めて顔を上げる。
 行儀が悪いのは勘弁してもらうとして箸の先でナガイを指すと、幾度か瞬き、鹿肉の皿を持ちあげてオキタに示してくる。
「しか? ――――」
 真面目な顔で頷くのは、味の感想でも言ってくれたものか。
「ああ、それは鹿だけど……いや、美味いかって訊いたんじゃなくてな……まあ、いいか」
 どうも、先は長そうだ。
 ナガイも同じことを考えたのか、眉を上げて苦笑めいたものを浮かべる。
「これ、美味いよな?」
 皿を示して笑いかけると、ナガイもぎこちない笑みを返してくる。
 焦ることはないだろう。今日は身振り手振りからひとつ前進した。少しずつでも、積み重ねていけばいい。
 その時間は、たっぷりあるはずだ。




2013/12/13 23:50
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