→ もくじ。
<前回までのあらすじ> 母胎に名前から「人」の字を奪われ、人でなしのバケモノとして赤い異世界で働くことになった「頼(より)」。 ずっと昔にどこかで会った気もする、謎めいた闇人、オキタは頼に何やら含むところがあるようで……。 右も左もわからぬ異界で健気に生き延びる頼に、オキタは塩にぎりを差し出してくれる。 握り飯を頬張りながら号泣する頼を、オキタは優しい目で見つめるのだった。
という話じゃなかった気もするけど、大体あってるんじゃないかなって気もした。
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一体何をする気か、振りむこうと体を捻った拍子に傷が痛み、奥歯を噛み締める。 ぐ、と硬直した肩を押さえられ、動けなくなった背中に冷たく濡れたものが当てられた。ゆったりと肌を擦る動きに、布で拭かれているのだと知れる。 前に水浴びをしたのはいつだったか、潮風と埃、汗で汚れた身を清められる感覚は心地よい。永井が力を抜いたことを悟ると、オキタは少し笑った。声を出さず、息だけで笑うやり方まで沖田と同じで、目を閉じると自分が何処にいるのかわからなくなりそうだ。 首筋を撫でられて、上向いた喉も丁寧に拭われる。 傷に障らないように永井を清拭する動作はてきぱきと手際よい。ひょっとして看護に慣れているのではないかと考えた先で、オキタの手が肩から胸の方へと滑った。 「そっちは、自分でやりますから!」 鎖骨のあたりを動き出した布を掴んで奪い取る、それだけの動きで目眩がして前のめりになった体を、オキタが難なく支える。咎める調子で呟きながら永井から布を取りあげたのは「言わんこっちゃない」とでもぼやいているのだろう。 着物は半脱ぎのまま、背中を支えられて布団に横たえられる。 「―――」 じっとしてろ。 嫌になるぐらい、わかる。……怪我の処置中、無理に動こうとした永井を注意する沖田とそっくりのしかめつらと声音で言ってくるのだから。 永井がおとなしくなると、オキタは床に膝をつき、いったん木製の洗面器……湯桶というのか、永井は温泉旅館でぐらいしか目にしたことがない……に浸した布を洗い、水気を切って体の前面を拭き始めた。 胸や臍の上あたりを撫でられる感覚は、どうにも居心地が悪い。闇人相手になにを意識しているのかと思うが、永井は唇を引き結び、そっぽを向いてオキタと目を合わせないようにした。 腰の方まで伸びかけた手は、さすがに、掴んで止める。 「そっちは、いいです。自分でできますから、ほんとに」 「―――、―――」 オキタは『わかったわかった』というように永井の頭にぽんと手を置き、背中を抱き起こし、着物をきちんと合わせて湯桶を手に立ちあがった。どこまでこちらの意思が伝わっているのかは判然としないが、遠慮はわかってくれたらしい。 板床を踏む足音が遠くなって、大きく息をつく。 ――― 沖田さん……オキタさん。 理由はさっぱりわからないが、彼は永井を助け、匿う気らしい。 それを疑う気は、微塵も起こせそうもなかった。
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火にかけた薬缶の前で、オキタは先ほどの“ナガイ”の反応について考え込んでいた。 あれは明らかに、恥ずかしがっていた……と、思う。腰の方まで拭こうとしたら目をまんまるに見開いて慌てていたので、思わず笑いそうになってしまったぐらいだ。 着替えさせる時にも大雑把にだが全身を拭いているし、実際、見ていない場所はほぼないのだが、そうと知ったら怒り出しそうな気がする。 ―― 本当に、変わらないんだよな。 食器の使い方もちゃんとしていた。もしかしたら、箸だって使えるかもしれない。それに、ナガイが身につけていた様々な道具は見たこともない素材でできているものもあったが、初見のオキタにも用途の見当がつくものが多かった。 名前があり、知性があり、感情がある。少しだが、意思の疎通もできる。ナガイは……肌の色と体温以外は、闇人とほとんど同じだ。 そんな彼がなぜ、女子供に容赦することもなく、一集落を全滅させるような大殺戮を行ったのか、やはり、ぴんと来ない。 ニンゲンは化け物だから。 そう言ってしまえば簡単だ。だが、少なくとも、今のナガイは危険な生き物ではない。 「ナガイ……ナガイ、か」 呟いた名前は、不思議としっくり舌に馴染んだ。 ナガイの名には、なくしてしまった大事な物を取り戻した子供のように、胸のどこかが満たされる慕わしく懐かしい響きがある。 ――― つがいの莢、だったりしてな。 ふと浮かんだ考えがおかしくて、唇の端を持ち上げる。 闇人の子は、殻をくるむ莢に入って海から運ばれてくる。お母さん、母なる者、太母、母胎……様々な名称で呼ばれる創世の女神が、そうして、全ての闇人に命をもたらしてきた。海から遠い集落には、『鳩』と呼ばれる使い女が莢をもたらすこともあるというが、それは三十余年を生きているオキタも見たことがない。 莢の中には、ごく稀に、対となって生まれてくるものがあるのだという。 同時に現れるとは限らず、時には数十年を離れて生まれることもあるが、つがいの莢から生まれたふたりは必ず出会い、伴侶となるのだと、そんなお伽話だ。 要するに夫婦仲の良いものを冷やかして出来た逸話だろうと思うが、ナガイに対する親しみの源泉は、そうでもなければ説明がつかない気がする。 ……もっとも、ナガイはどう見ても男だし、自分の気持ちも男女の情とは趣を異にしている。 ―― そういうんじゃなくてな……。 では何かと自問しても答えは曖昧模糊として輪郭が見えない。 「うーん……」 しゅんしゅんと湯の沸く音がしてようやく、オキタは黙考から覚めて現実に戻ってきた。
少し熱いぐらいの温度に調整した湯を張った桶を持って板の間に戻ると、ナガイは布団の上で膝を抱えて座り込んでいた。 オキタの顔を見て、ほっと表情を緩めるのが少し可愛い。 「ちょっと待ってろよ」 先ほどと同じようにナガイの傍に膝立ちになり、湯に浸した手拭いを絞る。興味深そうに眺めているナガイに笑いかけてやって、素早く首の後ろを掴み、顔に手拭いを当てた。 「―――っ!!!」 熱い、と言っているのはわかる。 ぐいぐいと拭ってやって、布巾を下ろすと、ナガイの赤くなった顔が現れた。 「気持ち良かったろ?」 「―――……!」 先ほど、オキタに注意されたことを覚えているのか、行儀よく低くした声で怒るナガイに愛想の良い笑顔を向けると、眉を顰められた。 「オキタさん、――ー」 「ごめんな、ちょっと驚かせたくなってさ」 眉と肌の色がずいぶんと違うせいで、表情がわかりやすいのが面白くて、ちょっとした悪戯心が湧いただけだ。 「でも、体温高いのに熱いのは熱いんだな」 『当たり前ですよ』 「だから、ごめんって」 オキタの耳には全く聞き慣れない言葉でぶつけられた抗議が、表情と声の調子で、なんとなく意味が伝わってくる。 もちろん、実際にはオキタの勝手な想像で、ナガイはまったく違うことを言っているのかもしれないが、あまり外れていないような気がした。 「お詫びに気持ち良ーくしてやるから。じっとしてな」 単衣の上からでも浮きだした骨がわかる痩せた肩を軽く叩いてなだめ、もう一度湯に浸した布で、今度は耳の後ろから頭を包むように拭いてやる。 ふぁ、と気の抜けた嘆声がナガイの唇から洩れて、丸い目が細くなった。 「な、気持ちいいだろ」 気絶している時は手応えを得るどころかじっくり拭いてやる余裕もなかったので、素直な反応にオキタの気も良くなる。 「もう少し傷が良くなったら風呂に入れてやるから、それまではこれで我慢な」 声をかけながら、短めの髪に絡みついた泥や埃をこそげ落とすように丁寧に拭っていく。すっかり気を許した風情のナガイがやたらと可愛い。 仕上げに、濡れた髪を乾いた手拭いでごしごしと擦る間も、ナガイは洗われる犬のように眼を閉じておとなしくしていた。 「はい、おしまい」 湿って束になった髪を撫でつけて、もう一度、布団に寝かせる。 「オキタさん……」 不服そうなのは、眠くないというつもりか。 「さっきもふらふらしてただろ。横になってるだけでいいから、ちゃんと休めよ」 掛け布団の上をひとつ叩いてなだめると、ナガイはぱちりと目を瞬かせて、「りょう」と呟いた。 「……その『りょう』って、わかったってことか?」 問いかけには、不思議そうな眼差しだけが返ってくる。 「んー……まあ、いいや。飯の時間には起こしてやるから、おとなしくしとけよ」 噛んで含めるように言い聞かせたところで、ナガイは何か慌てたようにもぞりと身を動かした。 「あ、こら、起きちゃ駄目だって」 オキタの制止も聞かず、せっかく掛けてやった布団も剥いで起き上がる。 「―――、――……」 焦ったような顔をしている。肩を押さえるオキタの腕に手をかけて、早口に何かを言い立てるのは、よほど大事な何事かがあるのか。 「ああ、―――!」 忌々しそうに舌うちをして、首筋を掻き毟り、また体をもぞつかせるあたりで、ようやく、思いいたった。 「厠か?」 闇人とほとんど同じ体をしていて、食べ物を必要とする生き物ならば、当然、生理的欲求はあるはずだ。救いを求める眼差しが若干潤んでいるのを見ると、だんだん切羽詰まって来たらしい。 オキタの手を払いのけ、立ち上がりかけてよろける体を慌てて支える。 「待て待て、ちゃんと連れてってやるから」 「うう……」 心底情けなさそうに呻くナガイはやはり、化け物でもなんでもない、ただの弱った青年にしか見えなかった。
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「あの、オキタさん、トイレどこですか!?」 食べて飲んで、気が緩んだところで訪れた身体の緊急要請はどうしようもなく、分厚い言葉の壁に向かって必死に訴えた末、とにかくここで粗相するわけにはいかないと立ち上がったところで、奇跡的に思いが通じたらしい。 オキタが永井を連れて来たのは、薄暗い廊下の突き当たりの小部屋、永井にも用途がよくわかる陶器の容器が置かれた場所だった。 ここにも照明はなく、明かり取りの用途には満たない、換気のための小窓が天井近くにあいているだけだが、この家の暗さに慣れた目にはぎりぎり、物の形が見分けられる。 「いや、見てなくていいんで。倒れたりしませんから」 心配そうに見守ろうとするオキタを押し出し、扉をしっかり閉めて、和式なんだと妙な部分で感心しつつ、軋む体でどうにか用を足す。高い壁に取り付けられている貯水タンクから伸びる、陶器の飾りがついた鉛棒を引くときちんと水が流れることに文明を感じてしまうのは、サバイバル生活に慣れ過ぎたせいか。 ――― ここって、この家の中でいちばん文明開化してる場所じゃないのか? 永井もそれほどこの世界に詳しいわけではないが、集合住宅には換気扇がついていたし、忍び込んだ家に箱型の冷蔵庫やガスコンロがあったのも見たことがある。つまり、照明らしいものがほとんどないだけで電気やガスのインフラは整っているということだ。 ここが、数十年ほど昔の日本、文明の波が押し寄せきっていない田舎のような環境なのは承知している。 ――― ……オキタさんがローテクな生活しすぎなんだよな。 正気づいた時から感じていたが、寝かされていた部屋にあった物は、総じて古色蒼然とした品物ばかりだった。 彼のポリシーなのか、何か理由があるのかはわからないが、オキタは闇人の平均に比べても文化の恩恵から遠くに位置しているらしい。居心地が悪いわけではないのでそれはそれで構わない。 ――― ここに住みつく気かよ、俺は。 すっかり居着くことが前提の思考に、自分で突っ込みを入れる。しかし、現在の永井に他に何の方策があるわけでもない。 人心地ついたことで、今までは何も考えていなかったことが改めて頭の中に渦を巻き出す。 「ヘンなことになってるよな……」 ぼそりと呟いたところで、扉が叩かれた。 「ながい、ながい?」 心配そうな呼び声は、もちろん、オキタのものだ。 「あっと、大丈夫です! すぐ出ます」 慌てて応答し、入った時は気付かなかった隅に据えつけられた小さな水道で手を洗い、着物で適当に手を拭って扉を開ける。 あからさまに安堵した表情のオキタが差し出した手に掴まることに、躊躇はなかった。
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