11/20

【恋は七転八倒】
【些細なはじまり】


 身を切る風に吐き出す息は白く熱い。
 昨夜の雨で散った落ち葉が、未明の薄闇にぽつぽつと浮かび上がって見える路面に響く足音はふたつ。
 先方を走る黒いパーカーの背との距離は五メートル、縮まらない空間を広げることもなく、永井は足を前に踏み出し続けた。
 土曜日の早朝に走り込みを始めてから、三沢もこの時間に同じコースを行くのだと知った。
 なにも休日にまで走らなくてもいいだろうと仲間には呆れられたが、土砂降りか大雪でもなければ欠かしたことはなく、三沢の姿を見ない日も、滅多になかった。
 殆ど息を乱さず、まったく変わらないペースで駐屯地を四周、おおよそ十キロを軽々とこなす。それがいつもの三沢だ。
 始めた頃は無理に追い越して体力を削り、しまいには半周以上の差をつけて置いていかれたりもしたが、今ではぴったりと着いていける。
 示しあわせたわけではない。会話もまったくない。三沢が永井の存在を認識しているかさえ怪しい。
 しかし、黙々と走るあの大きな背中がないとどうにも張り合いが出ないほど、永井にとっての日常になってしまった、奇妙な時間。
 陸士長になってから訓練幹部である三沢との接点はいくらか増えたが、あくまで業務上のことであり、私的に言葉を交わす機会はまず生じない。
 永井が心酔する沖田のかつてのバディで、今もなお沖田に信頼を寄せられる男、地位と権威に見合った実力を持つ大人。
 そんな評価と、何を考えているのか解らない偏屈な態度と寡黙を通り越した無愛想はどうにも噛み合わないし、訓練指示もただの嫌がらせとしか思えない時がある。
 実力はあっても人格は最悪だ。
―― なんで沖田さんがあんなに尊敬してんのか、わかんねえ。
 内心で覚えた反発と対抗心は、いつしか、三沢への密かな執着にすりかわっていた。
 こいつを越えてやる。
 そう思う毎に、三沢の……たしかに評判通りの、有能な面が見えてくる。理不尽だと感じた指示も、後から見ればきちんと理にかなったもので、不満を持った自分の未熟さが胸に刺さるばかりだ。
 永井の反抗など歯牙にもかけられていないことも、その都度、痛感する。
 なんとか認めさせたくて躍起になるうちに……三沢個人の気を引きたいと、そんなことまで思うようになった。

 これは、好意じゃない。
 意地だ。

「お早うございます、三佐」
 足を早め、横に並んで声をかける。無感動な目がこちらをちらりと見た。
「……ああ」
「雨、上がって良かったですね」
「滑らないように、気をつけろ」
 半長靴は、濡れた落ち葉を踏んだところでびくともしない。
「問題ありません」
「靴紐、左。切れかけてる」
 出てくる時はなんともなかったのに、何を言っているのだろうか。見下ろした靴紐は、緩みもなくきちんと結ばれている。
 確認している間に先に行ってしまった三沢に、もう一度並ぶ。
 互いに無言のまま、白い息だけが後ろに流れていく――薄らと汗の滲んだ太い首筋に触れて、温度を確かめてみたいような気がした。
「替えは、あるのか」
 三沢が口を開く。靴紐の話が続いているらしい。
「購買に行ってきます」
 なんともないのに、三沢にからかわれているだけかもしれない。素直に無いというのも悔しいので、つっけんどんに応じると、三沢は無造作に上着のポケットに手を差し込み、取り出した物を永井に差し出してきた。
 薄い紙のこよりで封をされた、編み込みの紐。
 なんとも反応しかねていると、「替えとけ」と、胸の前に差し出される。促されて、走りながらの不安定な姿勢で触れた三沢の手のひらは堅くかさついていた。
 永井が真新しい靴紐を取ると、三沢は何事もなかったように前を向いた。
「あの、」
「余ってるから。やるよ」
「……ありがとうございます」
 礼を言うと、仏頂面のまま、三沢の足が少し速まった。
 いつも持ち歩いているのか。偶然、持っていただけか。永井の為に持ってきたということはないだろう。
 まさか。でも。もしかしたら。
 まとまらない思索が頭の中で渦を巻き、ペースが乱れる。
 三沢との距離がひらいて、置いていかれてる、と踏み込んだ左足が靴のなかで滑った。
「うぁ、」
 地面が近付いて、転ぶと思った瞬間、咄嗟に突きだした掌をアスファルトに打ち付ける。
「ってぇ……」
 無様に倒れ伏すことにはならなかったが、打った膝は鈍く痛み、左の掌底は赤く擦りむけている。
 三沢の指摘通り、靴紐が切れたらしい。
「……あ」
 新しく貰った靴紐は右手に握ったまま、こちらは拳を着いてしまったので指の関節あたりが赤くなっていた。
―― だっせえ。
 あの三沢が、こちらに塩を送るような真似をするから調子が狂ったんだと責任転嫁して立ち上がる。
 ……と、左腕を掴まれた。
「打ったのか」
 わざわざ引き返してきた三沢が、永井の傷を無遠慮に検分している。
 予想していなかった接触と、近すぎる距離に生じた混乱を飲み込みきれず、永井は目を瞠って三沢の不機嫌そうな顔を見つめた。
「足は」
 短く問われ、反射的に背筋を伸ばす。
「問題ありません」
 靴は脱げそうだが、足首や膝は打撲以外の痛みはない。
「処置してやる。来い」
「掠り傷ですから、大丈夫です」
 三沢に指摘された不注意で勝手に転んだだけだ。これ以上の世話はかけたくないと拒むと、三白眼にじろりと睨まれた。
「素手だろう。破傷風にでもなったらどうする」
 駐屯地に菌がいるとは聞いたことがないが、訓練中にこの程度の傷を作るのは日常茶飯事。泥の中を這いずり回る訓練メニューを他ならぬ三沢が組むこともあるのに、今さら何を言うのか。
「舐めときます」
 相手が上官なので手を振り払うわけにもいかず半ば意地で言い張ると、三沢の濃い眉が寄せられ、口角が下がった。
「舐める、か」
 掴まれた手首を持ち上げられ――三沢の舌が傷口を覆い、ひりつく痛みと柔らかく濡れた熱に撫でられるむず痒さを与えてくるのを、茫然と見守る。
―― なにしてるんだ、このひと?
 突拍子もない行為に、思考が追いつかない。
「いっ……!」
 皮のめくれた部分をこそげるように舐められ、あげかけた悲鳴を噛み殺す。
 運動のあととは違う動悸がせりあがり、半袖の運動服を着ただけ、吹く風に汗を冷やされて寒いはずの上半身がやけに暑さを増した。
 三沢は動けない永井の手を離すと、道の端に寄り、唾を吐き出してから戻ってきた。
「石が入ってた。よく洗え」
「了……」
 命令口調に反射的に応じて、困惑がひしめく目で、用心深い動物じみた無表情を見上げる。厚い唇がまだ濡れているのが、どうにも現実離れしている。
「ちゃんと、消毒もしろ」
「……」
 喉元まで来ている、靄がかった気持ちが声にならない。
「返事は」
「了」
「……よし」
 鋭い目がふと和み、三沢は片頬だけでちらりと笑った。曇り空に射す光のような鮮やかさが、永井の網膜に焼き付く。
 なんとも言えずにいる間に、もう走る気をなくしたのか、三沢は幹部宿舎の方向へ悠々と歩き去ってしまった。
「なっ……んだ、あれ」
 動悸が収まらなくて胸が苦しいのも、耳まで熱くてしかたないのも、三沢がらしくないことばかりするからだ。
「反則……」
 右手に靴紐、左手に生々しい感触を握りこんでしゃがみこんだ永井を、雲間からさした朝陽がスポットライトのように照らした。


 困難な恋の自覚は、やけに劇的な演出でもって、永井を落ち込ませたのだった。





11/30
【恋は七転八倒】
【ギブアンドテイク】

 冬場の荒天続きときたら、洗濯場はちょっとした紛争地帯だ。
 泥と埃に汚れた戦闘服と下着を洗わずに着続けることはできず、予備を使うといっても数に限度がある。
 洗える時に洗って干して、翌日にはからりと乾いた物を身につけたい。
 の、だが。
「あーもう、誰だよ入れっぱなしの奴!」
 分隊の訓練が長引いたせいで、争奪線に完全に出遅れてしまった。
 汚れた衣服一式を抱え、宿舎を上に下に右に左に空いている洗濯機を探してさまよったあげく、最後の頼みの綱だった、宿舎の外に置いてある、骨董品レベルの二層式洗濯機までもが満員御礼であることを知って、永井はがっくりと肩を落とした。
「生乾き決定かよ……」
 太陽を遮る灰色の空を恨めしげに見つめても状況は何も変わらない。
 中に戻って順番待ちをするかと踵を返した背中を、「おい」低く呼びとめる声があった。
 首だけで振り向く先には、常と変わらぬ三沢の無表情。
「どうした、永井」
「あ……ご苦労さまです」
 答えになっていない挨拶を返したことで、三沢の眉間に僅かな皺が寄る。
 しまったなと思う間もなく、三沢の鋭い眼差しが、永井の持つ汚れ物に注がれた。
「洗濯か」
「はい」
「洗わんのか」
「……洗えない、んです」
 尋問を受けている気分で事情を話すと、三沢は幹部宿舎の乾燥機つき洗濯機を使えと告げ、遠慮のえの字を出す暇もないまま永井を宿舎まで連行した。
 永井の二十年と少しの人生、ここまで緊張しながら洗濯に挑んだことはない。
 泥だらけの戦闘服もシャツも下着もいっしょくたに洗濯槽に放りこみ、幹部といっても曹士と変わらぬ備えつけの洗剤を投入し、……その間もずっと、寒々しい廊下に腕組みで立ち、こちらを見守る三沢の存在がどうにも重たい。
 男が下着を洗う場面を見て何が楽しいのかと苛立つ一方で、幹部宿舎にお邪魔している以上、三沢がここで監督していないと事情を訊かれた時に少々面倒なことになるのも承知している。
―― 俺のために、いてくれてる……とか。
 忙しい佐官、それもあの三沢が自分をここまで連れてきて親切を焼いているのだと思うと、体の内側がむずむずとくすぐったくなってくる。
―― このひとは、そんな気ないんだろうけど。
 こちらは、いつのまにか好きになっていたと自覚したばかりなのだ。ついこの間まで反発しか覚えなかった相手だというのに、こんな風に優しくされるとどうしたらいいかわからなくなる。
 空回りする自分の心に足を取られて転んでしまいそうだ。
―― だから、優しいとか、そういうんじゃねえんだ、たぶん。
 三沢さんは下の人間のことをすごくよく見ているよ、と、沖田が言っていた。だから、永井のことを特別に思っているわけではなく、たまたま行き合ったからちょっとした世話を焼いている、上に立つ者の義務として引っ張っている、ただそれだけ。
 特別なことのように思いたがってしまう自分の心を閉じ込めるためと、気まずい空気をどうにか壊したくて、永井は唸りを立てはじめた洗濯機から三沢に目を移し、口をひらいた。
「三佐は、洗濯しないんですか」
「済ませた」
 会話終了。
 ここで折れるほど、根性なしではない。
「……たたみましたか?」
「アイロン掛けはまだだ」
 ふたたび、会話終了の気配が漂うことに焦り、永井は「自分がやりましょうか」と口を滑らせた。
 は?と物問いたげに眉をあげられて、余計に思考が沸騰する。
「その、アイロン掛け……洗濯機貸していただいた恩返しに……どうかと思いまして……」
 言い訳の語尾が小さくなっていくのが自分でわかる。
―― ないよなー……。
 馬鹿なことを言ってしまったと唇を噛む永井の前で、三沢は思いもかけない反応をした。
 小さく吹きだしたかと思うと愉快そうに笑いだした姿は、普段の三沢を思えばかなりのレアな光景だが、自分が笑われているとなるとのんびり鑑賞する気にはなれない。煮えるような羞恥に拳を作り、永井は低く唸った。
「聞き流してください」
「恩返しはいいのか」
「他のこと考えます」
「ワイシャツとハンカチ二枚。やってみろ」
「は?」
 今度は、永井が唖然とする番だ。
 目を見開いた永井に、三沢は「男に二言はないだろう」と、まだ笑いの名残を残した顔で駄目押しをしてきた。
 初めて踏み込む三沢の部屋は、予想通り、隅まできちんと整頓されて、生活のにおいというものがほとんどない。
 それでも、渡されたシャツは洗い晒しの皺がついていて、三沢のプライベートに踏み込んでいるのだと実感が湧いてくる。
―― 偉いひとなんだからクリーニング出せばいいのに。
 きっとそれで、幹部宿舎の洗濯機が空いているのだ。
 しかし、自分で身の回りのことを片付けてしまうのが、三沢らしいとも思える。
 あれこれと考えながらも、永井は目の前の作業に集中することにした。
 ……そうしないと、三沢の部屋に存在してい呼吸している自分を意識しすぎてしまう。
 これでも、中学高校と制服を着てきたのだし、ワイシャツの扱いはマスターしているつもりだ。自分のできるところを三沢に見せてやろうと、よし、と気合いを一つ、アイロン台に広げたワイシャツに向かってスプレー糊を構える永井の真剣な様子は……傍から見ると悲壮感すら漂う滑稽な姿だったが、本人はそれどころではなかった。
 折り目はきっちりと、皺を寄らせず綺麗に伸びていく白い布地と、ほかほかとした湯気、独特の糊のにおいが心を高揚させる。
 あとは袖だけというところで、奥で着替えていたらしい三沢が後ろから覗きこんできた。
「意外とできてるな」
 感心した風に言われると、面映ゆいのとあわせて、馬鹿にすんなと反発心がわいてくる。
「どうも」
 つい、ぶっきらぼうに応じる永井の内心など見通したように、三沢は「その調子だ」と上官のような口をきいた。
 ……実際、上官だが。
「終わりました!」
 とにもかくにもどうにか失敗せずに済んだワイシャツと、角をきっちり合わせて畳んだハンカチを差し出すと、三沢は永井の力作を改めもせず、
「じゃあ、行くか」
 と軽く応答した。
「行くって、どこにですか」
「アイロンの礼だ。晩飯は奢らせろ」
 これは、天変地異の前触れだろうか。
 頬をつねるかわりに、幾度も瞬いてみたが、目の前にいるのは三沢で、それは変わらない。
「俺に御馳走してくれるってことですか」
 三沢が、自分に。
「御馳走ってほど大したもんじゃないがな。……都合が悪いなら、無理にとは」
「大丈夫です、行けます!」
 慌てて、かぶせ気味に返事をすると、三沢はまた、永井の内側がくすぐったくなるような顔で笑った。



 外出届けを出し、駐屯地を出て十分あまり。三沢の後にくっついて店に入ってやっと、二人の食事だと実感する。
「こんな店があるなんて、知らなかったです」
 落ち着いた雰囲気の小料理屋は、永井が普段入っている店とはだいぶ趣が異なり、物珍しさについきょときょとと見渡してしまう。
「若い奴は来ないだろうな。飲めるようになったら、こういう場所も覚えて損はないぞ」
 三沢の口から出るとは思えない発言に、目を丸くする。
「なんだ」
「……三沢さんが、普通のおっさんみたいなこと言うから…………あっ、すみません!」
 失言に気付いて青ざめた永井に、三沢は呆れ顔で「俺をなんだと思ってんだ」と眉を上げた。
「お注ぎします!!」
 ちょうど運ばれてきたビール瓶を持ちあげ、ごまかすように三沢のグラスに注ぐ。
「お前も飲むか」
「え、あ、はい!」
 背筋を伸ばして差し出したグラスに片手でビールを注ぐ三沢の指は、存外に長い。
―― あの手に。
 腕を掴まれて、掌を舐められたのだと余計なことを思いだしてしまって、飲む前から頬が熱くなってきた。


 緊張のあまり味もわからなかった……などということはなく、毎日通うには値が張るが、三沢の言葉通り、週に一度くる程度なら永井の財布でも問題のない、「覚えておいて損はない」店の飯はどれも美味しいものだった。
 三沢も永井も、食事中はほとんど無言になる性質で、交わす言葉も少なかったが、最初の緊張が嘘のように居心地は悪くなかった。
 駐屯地に向かう帰り路、上空の風が強いのか、ちらちらと瞬く星の下を歩く永井の気分は、ふわふわと気持ち良く浮いている。すこし前を行く三沢の大きな背中を眺めていたら、今なら言えると思えた。
「あの、三佐」
「なんだ」
「靴紐、使ってます」
 それを告げたかっただけだ。
「ああ」
 会話は、ここで途切れてしまっただろう。いつもなら。
 三沢の表情はわからない。
 それでも、先を言うことを許されている気がした。
 ……そうならいいと、自然に思うまま、口が動く。
「恩返しは、アイロン掛けでいいですか。食事のお礼も兼ねてってことで」
「晩飯に付き合わせるぞ」
「きりないですね」
 笑いながら並んで見上げた横顔は、やはり、少しだけ笑っていた。



そしてアイロン掛けやら掃除やらに通い、沖田さんに「通い妻みたいだなwww」言われて、そういえば――!!!になるまで、三週間。



12/2

【恋は七転八倒@だいぶ進展したあとの話】
【ひとかけの日溜まり】

 いつも元気に動き回っている永井だが、その分、良く眠る。
 三沢が本を読んでいる間、隣で雑誌を見ていたはずが、いつの間にかソファの背もたれに頭を乗せて寝息を立てていた。見ていて痛くならないのか心配になってくる角度で仰向いているが、口を半開きにした寝顔は幸せそうなものだ。
 ちょうど永井の体の上、三沢との境まで差し込む陽射しに照らされた額の産毛が金色に光っているのに、やわらかな桃を連想した。……実際はけっこうな石頭だ。拳固を食らわせる時は加減しないとこちらの骨を痛めるんじゃないかと思う。
 日溜まりにふわふわと漂っているような太平楽な顔から下に目線を動かす。膝から床に滑り落ちそうな雑誌は、三沢には縁のない若者向けの情報誌らしい。
 手を伸ばして取り上げると、折り目のついたページが目についた。
『このラーメン店がアツい!』
 駐屯地にも近い食堂が紹介されている記事に、こいつはつくづく色気より食い気だな、と苦笑する。
 連れていってやろうかと頭の隅に入れて、雑誌をテーブルの上に置いたところで、永井が首を起こした。
「うー……首いてえ……」
「妙な体勢で寝るからだ。寝るなら布団に行け」
「三沢さんは?」
「昼間から寝るわけがないだろう」
「自分も、暇だったから寝てただけです。本はもういいのかって聞いたんですよ」
 事実を述べただけだが、馬鹿にされたと思ったのか露骨に苛立った表情で睨み付けてくる永井の、いかにも小生意気そうにつんとした鼻を軽く摘まんでやると「なにすんですか」と腕を掴まれた。残念ながら、寝起きの永井の片手程度ではびくともしない。
「離してくださいっ、このやろ……!」
 恋人に対しても上官に対しても不適切な罵声を鼻声で出しながら、両手で引っ張る永井の力に今度は逆らわず、引かれるままに体重を乗せてやると、下敷きになって倒れた永井が潰れた悲鳴をあげる。
「重っ……三沢さん、太ったんじゃないですか」
「てめえが薄いんだよ」
「ウェイトしてます、よっ」
 押さえつける体の下でじたばたと暴れ回る感覚に、誰かが餌をやっているらしくいつからか倉庫に住み着いている野良猫が、獲った蝉を腹の下に閉じ込めて楽しんでいたのを思い出す。なるほど、なかなか楽しい。
「何キロだ」
「六十……っす」
「話にならないな。最低八十からだ」
「レンジャー基準じゃねえか、ふざけんな」
 暴言はこの際、聞き流す。
「お前は体力はあるが、狙撃の精度が甘いんだよ。ウェイトより先に体幹を鍛えて、ぶれをなくせ」
 年齢と年数を考えたら十分すぎるほど優秀だが、それだけに惜しい部分が目につく。指摘すると、永井はぴたりとおとなしくなった。
「それ、沖田さんにも言われましたよ」
「だろうな」
 永井の癖や欠点を一番把握しているのはあの男だ……自分が注意すると反発する癖に、沖田に言われると素直に聞き入れるのだからたまに腹が立つ。
 悔しげな上目遣いで、永井の指が三沢のシャツの胸元を引いた。
「三佐が、沖田さんに言ったんですか」
「見てわかることだ。言う必要はないだろう」
「……なんだ。じゃあ、いいや」
 ほっと肩の力を抜いて、手を離す永井の軽い言い草が、苛立ちを刺激する。
 よくはない。
 沖田が気付くのは良くて、三沢からだと受け入れがたいと言っているのと同じだ。
 眉を寄せて永井を睨んでいると、逆に険の取れた顔つきで、じっと見つめ返される。
 そのまま、沈黙が十秒ほど続いた頃に、永井はくすぐったそうに目を眇め、声をあげて笑いだした。
 最前まで彼が身をさらしていた陽光をきらきらと散らしたような笑いに、毒気が抜けていく。
―― わけがわからんな。
 そもそも、今は上官と部下という立場で相対しているわけではないのだから、先刻の会話は自分が無粋に過ぎた。
 急に馬鹿らしくなり、永井につられて口元が緩む。
「あーあ……」
 永井は笑みの名残を残したまま溜め息をつき、躯をもぞつかせて三沢の下から抜いた腕を背中に回してきた。
「三沢さん」
 甘えの丸みを帯びた声で呼び、目を閉じる彼が何を要求しているか知らぬふりをするほど、三沢も意地は悪くない。
 ご期待通り、腕のなかにある日溜まりの欠片を余さず堪能することにした。



 まさか、口付けの最中にクロスガードの体勢からわざと床に転がり落ちてマウントを取り、こちらの関節を極めようとする馬鹿だとは予想外だったが。
 鍛練不足を思い知らせてやるのにさほど時間も労力もかからなかったので、不問に処してやった三沢は、たいそう慈悲深い恋人である。永井の所感は別だとしても。



(※クロスガード=俗に言う「だいしゅきホールド」ですね。)
(相手してもらいたくてじたじたする永井くん。)
(やっと相手してもらえたから有頂天でだいしゅきホールドしてしまったものの何やってんだ俺!と我にかえりギャアアア恥ずか死ぬ!と寝技に持ち込んだものの返り討ちでタップ。)
(ワカゾーの七転八倒がエキセントリックすぎて三沢さん幻覚見てる暇がないよ。)



2013/01/04 19:27
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