カップリングは特にないかもあるかも曖昧。
鬱い。 駆け足気味。
元ネタはアーカイブのアレ。 最初書こうとしてた話とズレました。
【還ってきた男】
死者一名、負傷者十数名を出した輸送訓練機の事故から、二ヶ月余が過ぎようとしていた。 しつこく列島に居座っていた残暑は秋風に押し退けられ、季節は確実に移り変わりつつある。 時間は過ぎていく。 現実を拒絶する者の上にも、やがて忘却が訪れるだろう。 あと、どれほどかかるのかはわからないが。 「……永井」 薄闇に包まれ始めた部屋の中、膝を抱えて蹲る小さな影は動こうとしない。 「電気、点けるぞ」 三沢の声に応じないのはいつものことだ。白茶けた蛍光灯の下、永井はまたひとまわり小さく、薄くなったように見えた。 彼は現在、三ヶ月ほどの『療養中』ということになっている。体の傷が癒え、退院した時には親元に帰るのだろうと思っていた。……そしてそのまま、戻らない方が彼のためだろうと、三沢は密かに永井を惜しんだ。 それほど永井は憔悴しきり、以前の溌溂とした彼とは別人のようになっていた。 その永井の身柄について、三沢に「しばらく預かっててくれ」と、ペットの世話でも頼むように気軽に「お願い」してきたのは一藤だ。 業務では連隊長という多忙な立場であり、私事では少々いい加減な言動が目立つ一方で、下の者を驚くほど細かく見ている彼には、何らかの考えがあったようで、三沢がどれだけ固辞しようとも暖簾に腕押し、全く引き下がらなかった。 結局、押し切られる形で、永井は三沢の自宅に居候している……合い鍵は与えてあるというのに、永井は一日中、部屋から出ることはない。何をするでもなくただ座っている。 ―― 沖田が死んでから、ずっとこの調子だ。 永井を庇い、海に落ちた沖田の遺体は、二週間に渡る捜索でもついに見つからなかった。 捜索が打ち切られたと聞かされた時、永井は、まだ動いて良い状態ではなかったのに制止を振り解き、病院の外に駆け出して行ったのだという。 沖田さんを捜さなきゃいけない、沖田さんは俺が連れ帰んだと、そんなようなことを叫んで、泣いていたと。 傷が開いて倒れたまま、アスファルトに指を立て、掻き毟りながら嗚咽する声は聞いていられなかったと、沖田とも親しかった先任士長はやりきれなさそうに言っていた。 その時に欠けて剥がれた爪も、もうほとんど綺麗に治っている。……体は、薄い傷跡を残しているだけだ。永井さえその気になれば、いつでも復帰できるだろう。 あくまで、その気になれば、だ。 ―― こいつはこのまま潰れるだろう。 お前が塞いでたって沖田は帰ってこない、沖田のことを思うならしっかり立てと、肩を揺さぶってやったところで駄目だった。 暗い目で三沢をちらりと見上げ、俺みたいなお荷物がいてすみません、と、感情の窺えない声で呟いただけだ。 そうなると、もう、三沢にはお手上げだった……三沢とて、決して健常な精神を持ち合わせているわけではないのだ。 ……ないが、永井が部屋に来てからあの悪夢を見ていない。前触れもなく胸を引き毟る恐慌に耐えて震えることもなくなり、薬の数も、目減りしていた。他に気を取られることが多いと、そうなるのか。 一藤がそこまで見越して永井を押し付けてきたとは思わないが、これは思わぬ『副作用』だった……だからといって、気苦労の量までが減るわけではない。 気の重さごと引き剥がしたいと思いながら脱いだジャケットをハンガーにかけ、横着して外したネクタイも一緒に引っかけてラックに吊るす。クローゼットの扉についた鏡越しに、永井が足を伸ばすのが見えた。 「永井。外に出て、走ってきたらどうだ。体が鈍ってんだろが」 「……命令ですか」 返答があったことに少し驚きながら、首を振る。 「アドバイスだよ」 「夢、見てたんです」 噛み合わないことを言って、永井は天井を仰いだ。 「赤い海から、たくさんの手がのびてきて、俺を掴むんです」 暗く抑揚のない声に、ぞっと、背筋が凍った。 ……それは、三沢の悪夢だ。永井の知るはずのない景色だ。 「それで俺は、どんどん海の底に引きずりこまれていって……でも、なんだかね、すごくいい気分なんですよ。何もかも投げ出していく、自由になる感じがしてね。それで、泡が上のほうにあがってくのをぼんやり見てたら、あたりが真っ暗になって、眠くなってきて。だけど……その時になって、帰らなきゃって思うんです」 次第に、永井の声に力が籠もる。 落ち着いた、穏やかな語り口は――彼のものではない。 「永井が泣いてるから、俺を呼んでるから、永井のところに帰ってやらなきゃいけないって思って、上にあがろうとするんですけど手足がちっとも動かねえ。焦る気持ちだけが膨らんでって、そしたら、誰かが俺に訊くんですよ。『帰りたい?』って。勿論帰りたい、帰してくれって叫んだってもう声も出なくて……そこで目が覚めるんです。帰りたいって気持ちだけが残ったまんま、俺はどこにいるのかわからなくなる」 何を言っている。 永井自身のことを、他人のように口にしている、これは誰だ。 「だけどね、だんだん近付いてきてるんです。だからもう少しで、そっちに行ける……帰れるんだ」 ゆるりと、柔らかく目尻の垂れた黒目がこちらに向く――勿論、永井の顔だ。 しかし、永井はこんな表情を持っていただろうか。こんなに、静かに笑う男だっただろうか。 「三沢さん。俺は、誰なんですかね」 底冷えのする胸のうち、記憶の水面の下から、切れ長の目をした怜悧な男が笑いかけてくる。 ねえ三沢さん。もし俺が死んで、置いてかなきゃならねえってことになったらさ……タグはどっかに棄てちまって、俺は見つからなかったって言ってください。そしたら皆、俺は姿をくらまして、どこかでよろしくやってるんだって思うでしょ。 とんでもないことを言う男だ。 そんな風に変な期待を持たせないために持って帰るんだと叱ってやった三沢に、冗談ですよと、やけに澄んだ笑い声を立てた。 あれは、もう居ない男だ。 縁起でもない冗談通り、タグごと沈んでしまった。決して、ここには戻ってこない人間だ。 干からびた喉に苦い唾液を送りこみ、枯れた声を絞り出す。 「……永井だ。お前は、永井頼人、陸士長だ」 一言ずつ区切り、捩じ込むように告げると、永井は瞬き、笑みの色を変えた。 「そうか。だったら、あれは沖田さんが見てる夢だったんですね」 明るく弾む声音、痛々しく痩せた頬に浮かぶどこまでも陽気な――満面の笑みに、三沢はしばらく忘れていた目眩を覚えた。 「なが、い」 「……に行ってきます」 音もなく立ち上がり、三沢の傍をすり抜けて出ていく背中を、制止どころか振り向いて見送ることもできなかった。
ワイシャツに制服のスラックスのまま、着替えもせずに茫然と座り込んでいた三沢の耳に、微かな擦過音が届いた。鼓膜を擦りあげる耳障りな音の源は、ガラス窓の前にいるお下げの少女だ。 精いっぱいに伸ばした小さな手が握る石墨が、ガラスを引っ掻いて、独特の音を立てている。 カーテンを引いていない窓は、外の景色ではなく、部屋の中にいる少女と三沢とを映し出している――しかし、ガラス窓に張りついている少女の顔は影になって見えない。 「なにを、描いてるんだ」 三沢の問いかけに、少女も答えない。 ただ、手の動きを早くした。 黒い鏡面に浮かぶ粗いポートレイト、子供らしくデフォルメされた輪郭に、良く似た面影を三沢は知っている。 彼は立ち止まり、誰かを待っているようだ。 少女の手が描くもう一人、先に描かれた人影に向かってまっすぐ駆けて行く、何者かを。 ―― 永井。 永井は、どこに行くと言っていた。 立ち上がった瞬間、ガラスに描かれた人影と少女の姿は溶けるように消え、焦燥に満ちた予感だけが残った。 『迎えに行ってきます』 嫌な動悸が、背骨を揺らす。泳ぐように玄関を出て、暗い道を駆け出した三沢の足は、次第に速くなっていった。
永井は、呆気なく見つかった。 駐屯地の門扉に寄りかかり、走ってきた三沢を見て、当たり前の笑みを向けてきた。 「三沢さんも来てくれたんですか」 「……何をしてる」 「沖田さんを待ってるんです。俺が三沢さんちにいるなんて思ってないだろうから」 「永井」 大股に寄り、掴んだ腕の細さに眉を顰めながら、三沢は低く告げた。 「沖田は来ない。帰るぞ」 引いた腕が、振りはらわれる。 「永井、来い」 三沢から己を庇うように、右手で自分の左腕を握り、永井はひどく思い詰めた目で唸った。 「沖田さんは帰ってくるんだ。だって、沖田さんがそう言ったんだから、帰ってこないわけねえんだよ!」 次第に高く、叫びに変わる声を聞きつけて、こちらに向かって来ようとする警備を目で制する。 三沢が何者であるかを認めた顔見知りの隊員は、渋い顔をして仲間に手で合図を送ってみせた……後で、何かしら礼をしてやらなければならないだろう。 「永井。沖田は死んだんだ。夢はただの夢だ。もし、戻ってきても、そいつは……」 「三沢さん……と、永井?」 場違いに暢気な声が、夜気を割いた。 うつむいていた永井が、弾かれたように顔を上げる。 街灯の下、よれたシャツと、やはりくしゃくしゃのカーゴを穿いた男がこちらを窺うように見ていた。 役者のような細面の、切れ長の目が穏やかに撓って、片手を挙げる。 「揉めてるみたいですけど、仲裁いります?」 「お……きた、さん……!」 数歩、よろめくように前に出た永井は、沖田が「うん、俺」と笑ってみせると、くしゃりと顔を歪め、その場に膝をついた。 「え、あれっ……」 どうも抱きとめるつもりだったらしく、中途半端に広げた両手を浮かせたまま困った顔をする沖田の前で、永井はしゃくりあげながら、笑っていた。
奇跡の生還の報告は、駐屯地中を巻き込んだ大騒ぎの長丁場になるだろうと判断した三沢の判断で明日に持ち越し、三人は一旦、三沢の家に落ち着くことになった。 一人では広すぎた部屋も、大の男が三人もいると狭く感じる。 「俺も、何があったかは良く覚えてないんですよ」 気がつくと、現場からだいぶ離れた浜辺に打ちあげられていたという沖田は、苦笑して頭を掻いた。 「なんとかこっちに連絡しようとしたんですけど……あいにくと無人島でして。管理小屋みたいなとこはあって、食糧は見つけたんですが通信設備が何もない。もう、お手上げでしたよ」 「それで、どうしたんですか」 「どうもこうも。水と食料、三週間ぶんはあるってことは、ここを定期的に訪れる便があるはずだ……ってんで、待ちの一手。……まさか、一カ月半もサバイバルする羽目になるとは思いませんでしたけどね」 ふた月に一度、密漁業者が来ていないか監視に訪れていた漁船に乗せてもらい、どうにか本土に着いて、そこから真っ直ぐに帰ってきたのだという。 「先に連絡入れようとは思ったんですけど……ニュース見たら、『あの痛ましい事故から二ヶ月』なんて言って、俺が死んでるんですよ。こりゃあ、本人登場の方が早いなぁと」 三沢の淹れた茶を飲みほして、溜息を吐く沖田を、三沢は暗い目で見つめていた。 視線が合い、首を傾げた沖田が口を開く前に、永井が沖田の肩を拳で押す。 「電話ぐらいしてくださいよ。俺が、どんな気持ちでいたか……」 「ごめんなぁ。でも、待っててくれたんだろ」 「当然っす。沖田さんが帰ってくるって、知ってましたから」 嬉しげに笑う永井は気付いていない。 彼は、失ったと思っていた先輩が生きて帰ってきたことに狂喜し――夢に囚われている。 あんなに、はっきりと見えているというのに。 「永井は、怪我はもういいのか?」 「あ、はい! 沖田さんが、庇ってくれたんで……全然、大したことなかったですし」 「全治一カ月がたいしてないわけあるか。しかもな、沖田がいねえからってふてくされて、ずっとサボってやがったんだ、こいつは」 「ちょっ……三佐! なに言ってんすか!」 「うーん……だけど本当に細くなったんじゃないか、永井。鍛え直さないとな」 「はい! ご指導よろしくお願いします!」 「いやー……俺はまず、始末書書くところからだと思うけどなぁ。……そういえば俺、特別昇任ってしたんですかね? 一曹になってます?」 「だとしても降格だよ、馬鹿」 「三沢さんはクールだなあ。永井を見習ってくださいよ」 なあ、と沖田の腕に肩を抱かれる永井の、本当に屈託のない笑顔が持っていた温かみと明るさを、すっかり忘れていた。 「でも、三沢三佐って料理すごい上手いですよ」 「お前はいっつも黙って食ってたけどな」 しかも、最初のうちは手をつけようともしなかった。 一発……いや、二、三発は張り倒し、つまんねえ意地張ってんじゃねえ、沖田が拾った命を捨てる気かと怒鳴りつけて、ようやく食べるようになったのだ……結局、永井を動かすのは沖田なのだと、悔しさに似た感情を持ったのは何故だったか。 それは永井もわかっているのか、拗ねたような目を逸らして、ぼそぼそと反駁した。 「いただきますとごちそうさまは言ってました……うまかったです、本当に」 与えられたものを黙々と食べていただけだが、味はわかっていたというのは新情報だ。 それだけ、きちんと回復していたということだ。 きっと、沖田が戻ってこなくても、こいつはもう駄目だと内心では見捨てていた三沢の思いを裏切って、立ち上がることができたのだろう。 ……悪夢に、呼ばれさえしていなければ。 「なんだ、俺がいない方が仲良くやってたみたいだな、二人とも」 「全然ですよ!」 むきになって否定する永井の頬は赤くなっている。はしゃぎすぎだ。 「永井。沖田は長旅で疲れてるんだ。もう、寝かせてやれ」 「ええー……」 「そうだなぁ、さすがにちょっと疲れたかも。七時間もバスに乗ってたからな」 血の気が足りないような頬を擦り、沖田は太い息を吐いた。 「なんでバスなんですか」 「借りた金がそれしかなくてさ。永井も眠いんじゃないのか。明日も訓練なんだろ?」 「あ、それは……」 「サボり中だって言ったろう。そいつは、再来週までニートだよ」 「繰り上げます! 俺もう全然、いけますから!」 夕方まで無気力を決め込んでいた人間のセリフではないが、気負いとは裏腹に、立ち上がった足は少しふらついている。 「ほら、俺より永井の方が倒れそうだよ。今日はもう寝とけ、お子様なんだから」 「俺もう二十一っすよ」 「物解りのいい大人なら、自分の体力の限界はわきまえとけよ。ほら、就寝!」 「……沖田さん」 「ん?」 寝床へと追い立てる沖田の手を、永井は両手で強く握った。 「明日も、いますよね」 「……大丈夫、ちゃんといるよ。おやすみ、永井」 「おやすみなさい」 穏やかに微笑んだ沖田に、はにかんだ笑みを向けて、永井は三沢に与えられた部屋に引っ込んでいった。 開けっぱなしのドアを閉めて、三沢は、無言で沖田を見つめた。 沖田も、笑みを消してこちらを見ている。 「沖田。わかってんだろうな」 「……あいにくと。わかってますよ」 それだけで、互いの理解が共通のものだと伝わった。
沖田が、生きているわけがないのだ。
永井だって、覚えていないわけはない。認めていないだけだ。自分があれほどの大怪我をして、それでも生き延びたのは沖田が庇ったからであり……沖田が無傷でいるのは、不可能だと。 ヘリから墜ちる直前、沖田の胸を鉄材が貫いていたのを、三沢ははっきりと目にしている。ましてや二週間も漂流していたのなら―――無傷の人間とて、衰弱しきっているだろう。 それを、何の問題もなく無人島で過ごし、戻ってきたなど。 ありえない。 何より、三沢の目には、恐ろしいものが映っていた。 静かに座っている沖田の身体には、無数の黒い手が纏わりついている。 その根元は外に続き、先は見えない…………きっと、永井が夢に見た海の底に繋がっているのだろう。 よく今まで平然と会話を続けていられたと、我ながら感心する。 「お前は、“何”なんだ」 「……人間、じゃあ、ないんでしょうね」 唇の端に薄く苦笑を佩いて、沖田は自分の手を光に翳した。 「赤い血は通ってます。心臓だって動いてる。……でも、俺には自分が“死”んだ記憶がある。それで……三沢さんや永井の顔ははっきり思い出せるのに、親のことはぼんやりだ。すっぽり欠けて、思い出せない事の方が多いんです。俺って、こんな薄情モンでしたかねえ」 他人事のように言う横顔は、寂寥の影に浸されている。 「帰りたいと、願ったか」 低い問いに、沖田は瞠目し、顎を引いた。 「ええ。……じゃあ、アレは夢じゃなかったんだな」 「永井が、お前を夢に見た。……少しも気づいてやれなかったが、永井が、“お前”を手繰りよせてたんだ……それで、昼間は動けないほど弱ってた」 憶測でしかない言葉は、口に出すと確信に変わった。 常軌を逸した結論ではあるが、それで辻褄が合う。沖田は片手で顔を覆い、「俺も」と呟いた。 「永井の夢を見てました。永井が、俺に手を伸ばすんです。俺は……永井を引きずりこめば、俺が助かると知ってた。だから、やめろと言った」 永井の夢とは違う。沖田の口元は、苦しげに歪んでいた。 「だからもっと深く沈んだのに。気が付いたら、陸にいたんです。……やっぱり、会いたくて、帰りたくて……でも」 おれは、かえってくるべきじゃなかった。 深い水の底から響くように、沖田の独白はくすんで聞こえた。 「永井があんなに弱ってたなんて……思いもしなかった」 ふらりと立ち上がる沖田に、体のなかで、砂を噛むように軋る口惜しさを感じた。 三沢とて、失いたくなどなかったのだ。彼も、永井も。 「……これから、どうする」 「さあ……身投げでもすりゃいいんですかね?」 沖田を包む黒い手が、ざわざわと蠢く。足元に伸びる一本を踏みつけ、三沢は沖田の肩に触れた。 温かい。本当に、生きている人間のように――だが、寂しげに微笑む沖田の目の底には、暗く渦巻く澱みがある。腐り果てた泥のにおいが、纏わりついて離れない。 「……永井を連れてくわけにはいきませんから、なるべく早く、離れないと」 「どうせなら、俺を連れていけ」 三沢の要求に、沖田は目を丸くした。 「正気ですか?」 「そんなもんは、二年前に失くしたよ」 「今の一尉は、正気も正気、元の通りの鬼の三沢に見えますけどね」 一尉、と呼ばれたのは久しぶりだ。 「じゃあ……申し訳ないんですけど、俺を、どっか……目につかない場所に、連れてってくれません……か」 語尾は、濁った水音に似たえずきに呑まれる。 「沖田……?」 苦しげに咳き込んだ沖田の口から、黒い水が溢れ、テーブルの上に滴った。 「あぁ、すみません。汚しちまった……参ったな、思ったより早い」 凝然と見つめる三沢に、沖田は「気持ち悪いもん、お見せしますけど」と、シャツの腹をめくってみせた。下から現れた肌は、左の脇腹から鳩尾のあたりまでがどす黒く変色し――じわじわと、内側に無数の蟲でもいるかのように蠕動している。 泥をこびりつけたような黒は、見ていてわかるほどに、沖田を侵食し、広がり続けていた。 「ここまで大きくなったのは、ここ三日ぐらいなんですがね。左足のほうもだいぶやられてて……永井が飛びついてきたらどうしようか、止めなきゃいけないってひやひやしましたよ。あれは、弱ってて良かったですね」 なんでもないように言いながら、沖田は疲れた表情で永井の眠る部屋の扉を見やる。 ……永井を自分の右側に置いていたのは、そういうわけか。 「行くぞ、三曹」 「了解、一尉」 車のキーを取り、身を翻した三沢を追う沖田は、どこか楽しそうに笑っていた。
明け方近くまで車を走らせ、辿りついたのは、高台にある森林公園だった。 街を一望できる展望台も、中年にさしかかる男ふたりでは締まらない。 「海じゃないんですか」 「嫌いなんだよ、海は」 ぶっきらぼうな三沢の返事に、沖田は声をたてずに笑い、また咳こんだ。 こぼれ落ちる水は、ほとんど泥の塊になっている。 落ち着くまで背中を撫でてやり、肩を貸してベンチに連れていくと、沖田は震える手でポケットを探り、掴みだしたものを三沢に差し出した。 「三沢さん……永井に、俺の、タグ……渡しといて、くれませんか」 「あいつに泣かれるのはうんざりだ」 「みさ、さん、優しいから、なぁ」 余計なことを喋るなとは言えない。沖田は朝まではもたないだろう。 黒い手が、自分の身体を探るのも無視して、三沢は隣にいる――沖田のかたちをしたなにものかに呼びかけた。 これは沖田だ。 ……少なくとも、たった数時間の間だけだとしても、永井と自分にとっては、沖田だった。 「こんなもの、捨てちまえば、お前は姿をくらまして、どこかでよろしくやってるってことになるんだ。そうだろう」 「はは……そう、っすね……」 何か、柔らかいものが崩れていく音がする。寄りかかってきた重みから、生きた気配が削り落とされていく。 黒い手が、断末魔の苦悶を持って暴れ回る。 息が詰まり、心臓を冷たい手で掴まれたように胸が苦しくなっても、三沢は動かなかった。 「……ながい……泣く……かな……」 「泣いてばかりじゃねえ。あいつは……立って、歩ける男だ」 「おねが……します……ね。……みさわさ、……も、あい、つ、が……いれ、ば……」 「てめえは、人の心配ばっかりしやがって。それ言いに来たのかよ」 見なくてもわかる。沖田はいつものように静かに微笑んでいるのだろう。 そういう性分だから、と。 陽は昇る。 さあと、金色の光が高台を照らした。黒い渦が、ねじれのたうち、消えていく。 ああ、と、風が吹くような溜息がかすかに流れた。 「……あかる……い、なぁ……」 穏やかな、笑いを含んだことばを最後に、ひとのかたちを成していた泥が崩れ落ち、沈黙した。 銀のタグをきつく握り閉め、唇を引き結んで、三沢は朝の輝きに満たされる街を見つめていた。
三沢の帰宅を迎えたのは、永井だった。 「お帰りなさい。朝飯、つくっときました。……ベーコンエッグですけど。で、コーヒーは」 「インスタントか。……あるだけ合格だ」 沖田が吐いた泥水がそのまま残っているテーブルの上に、皿が並んでいる。 三沢は黙って席につき、永井も向かい合って、二人きりの食事を進めた。 昨夜、沖田が座っていた席を見ながら、永井は何気ない風に「夢だったんですね」と呟いた。 「俺たち、夢を見たんですよね」 「……そうだな」 「タグ、ください」 手を差し出す永井の目は、乾いている。そこには、昨日まではなかった強い光が戻っていた。 泣きませんよ、と苦笑する永井が、どうして昨夜のことを知っているのか……また、沖田の夢を見たのだろうか。 問いはせず、三沢は胸ポケットに落としこんでいた銀色を取り、永井の掌に乗せた。 永井はしばらくそれを見ていたが、ひとつ息をついて、自分の首にかけていた鎖を取り、タグを通した。 「おい……」 「私物っすよ。休暇に入った時に、官級品は全部預けてきました。……常識でしょう、そんなの」 少し横柄な物言いが、誰かに似てきたと思う。 「俺、宿舎に戻ります」 「……そうか」 「でも、三沢さん、隅っこまで掃除できてないんで、休暇が終わるまではご厄介になります」 「お前みたいな無駄メシ食いの家政婦はいらん」 「今日の晩飯も俺が作りますし」 「このベーコン、焦げてるぞ」 「俺の方が焦げ目多いんで、文句、言わないでください」 「……結局、泣いてんじゃねえか」 「焦げてっから、苦いんですよ」 涙声で応答しながら、永井は自分で作った朝食を残らず平らげ、ロードワークに行ってくると言って出ていった。 どうせ、一人になれる場所で思う存分、声をあげて泣くのだろう。 そして――また、走り出す。 俺はとうとう泣きそびれたな、と、乾いた頬を撫でる。 他人に思われているほど鉄面皮なわけではない。先に誰かに泣かれると、泣けなくなる性質だ。 それに、今は当面の問題がある。 昨夜からずっと、制服のままで歩きまわっていた。 泥に汚れ、折り目もよれたスラックスを見られたら問題になるだろうが……戦闘服でいるか、一藤に匿ってもらえばいいだろう。 それとも、いっそ、今日は病欠するか。 ―― 三沢さんの仮病なんて、それこそ鬼の撹乱ですね。明日は大雪が降るなあ。 遠慮のない言い草が耳の底に甦り、三沢は唇の端を持ちあげた。 今日はこのまま眠ってしまおうか。 良く眠れるだろうと、根拠もなく思った。
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模倣体な沖田さんってどうなのって話でしたが、これ模倣体でもないような。
(間)
気にしない!!!!!
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