03-醒




―――月が遠くで泣いている。



 「――っ…くそ…」

 冗談じゃない。心の中で叫びながら、レッドは荒い息を整えることもせず後ずさった。視線の先には殺意だけを帯びた目をしたグリーンの姿。
 もう止めろよ、戦いたくないと何度繰り返しても届かない。僅かな反応さえなく、あの“糸”を伸ばし突進してくるのを何とか受け流す。



『先日中断していた戦闘実験を再開する』
 グリーンの体調が戻るなり、レッドの部屋に来た研究員が告げたのはそんな言葉だった。
 忘れかけていた。この研究所は、実験体に容赦などしない。彼らにとって重要なのは、特別実験体の正確な戦闘データを取ること。万全でない体調では正確に調査することはできないから、休ませていただけなのだ。
 当然反論はしたが逆らえる筈もなく、壊すことに縛られているグリーンを止められる筈もなく。
 そして、今に至る。



「っ、こら!グリーン!やめろってば!!」
「………」
「わ、っ…!!」

 何とか攻撃させまいと距離を取りながら叫んだが、必死に走って作った距離は彼の一跳びで一気に詰められる。瞬間、感じた冷気に悪寒を感じ身を捩ると、そのすぐ横を飛んでいく氷の礫。
 当たったら大怪我では済まなかった。容易に想像できてぞっとしながらも、次の攻撃も見切ってかわす。

 ―――ああもう、埒が明かない!
 心底嘆きながら一度バックステップを取り、今度は自分からその懐に飛び込んだ。咄嗟に戦闘体勢を変えようとしたグリーンの顔に手を翳す。

「――いいからっ、止まれって!!」
「っ!」

 一瞬で手の先に力を集中させ、光を放つ。まともに見つめてしまい、眩しさに目をつぶってよろめいたグリーンから急いで離れた。
 元々レッドは体力がある方ではない。激しい攻撃を避け続けて走り回ったせいで、体力は大分消耗し足もふらついていた。

「は、はあっ…」

 戦いたくない。戦えない。それなのに攻撃の手は休まることを知らない。
 どちらかが瀕死になるまで終わらない実験。どうすれば傷つけず終わらせられるのか、わからない。
 なんとかする方法も見つからず四角い空間を逃げ回っていると、後ろから力が集まる気配。導術だと感づいて振り向くより先に、生じた水の流れがレッドを絡め取った

「しまっ…!!」

 レッドを捕らえた水はまるで縄のように体を拘束し、グリーンが腕を引くと引っ張られるようにして引き寄せられる。
 絡み付いた水の力は抵抗を受け付けない。どんなに離れようともがいても全く意味をなさず、無防備な状態を彼に晒すだけだった。

「グリーン…っ待て…!!」

 端整な、しかし限りなく無機質な顔が近づいて、レッドの首に手が触れる。
 まずい。思っても、巻きついた水のせいで首を捩ることも叶わない。細い首をあの“糸”――恐らく【月】の能力なのだろう――が一周し、首輪のように輪を作った。
 グリーンが指を握り締める動作をすると、連動するように輪が縮まり、レッドの首も締まる。

「ッ、グリーン…だめだ、こんな事に力を使うな…!!」

 ぎりぎりと締め付けられて息を詰まらせながら、それでもなんとか叫ぶ。けれどやはり、手は緩むどころか更に力を強めてきた。
 どうすれば。酸素不足で痛む頭で、必死に打開策を探す。このままでは死んでしまう、だけど傷つけるのは絶対に嫌だった。

『コード【光】、何をためらう。力を使え。そのための実験だ』
「な、にがっ…「そのため、の、実験」…だよっ……こんなの、意味ない、だろ、…―ッは…!!」

 スピーカーから無情に響く命令に、喘ぎながらもレッドは反論した。
 その間も首にかかる力は強まり、視界はちかちかと乱れ、脳が激しく警鐘を鳴らしている。まだ力を使えば、攻撃すれば助かるけれど。
 それでもまだ、悲鳴を上げる心を振り切れない。

『意味ならある。早く力を使え。でなければお前が死ぬぞ』
「…や、…だ…っ」
『なら、お前がまた【月】の手を汚させるのか?』
「ッ!!」

 研究員の言葉に、遠のきかけていた意識を引きずり戻される。
 グリーンに視線を戻す。初めて会った時と同じ、絶望を湛えた意思の見えない瞳。ぎりぎりと輪を縮めて締めつける指に躊躇いはなく、人を殺すということに何の感情の動きも見られなかった。

 ―――だけど、もし。
 もしいつか正気に戻ったなら、人を殺すのを厭ったという彼は、自分の血に塗れた手にどれだけ苦しめられるだろう。
 このままレッド自身も死んだら、その屍の記憶だってグリーンを苛む一つにしかなり得ない。

『力を奮え』
「けど…ッ、俺は…!」
『力を奮え』
「……っ…」
『力を生かせ、力を奮うんだ、コード【光】』

 機械のような抑揚のない声が、躊躇うレッドの背中を押す。
 まだ迷いは消えない。けれど決断の猶予は後僅かだった。
 このまま自分だけが満足して殺されるか。攻撃してでも生き残って、何か解決策を見出すか。
 ぎゅ、と拳を握り締める。

「う、…っあ、ああぁあぁ!!」
「っ!!」

 水の拘束を無理矢理解き、グリーンに向かって手を翳す。
 【光】の力では攻撃はできない。だからレッドは指の先に波導の力を集め、衝撃波のように形を作って思い切り放った。
 術を解かれて隙ができた所に攻撃を受けて、彼は衝撃波をまともに食らい跳ね飛ばされる。

「っ、は……げほ…!」

 術者の支配をなくして【月】の輪は消え、急に自由になった気道に体がついていかずレッドは何度か咳き込んだ。
 ゆっくりと呼吸を落ち着かせながら顔を上げると、倒れ込み腹を押さえるグリーンの姿が視界に入る。手加減する余裕などなかったから、相当痛めつけてしまったのだろう―――呻き声や痛そうな表情こそないが、上手く立ち上がれずふらつく体がそれを証明していた。

「っ、グリーン…!」

 グリーンが再び戦闘体勢に入る前に打開策を考えなければいけない。このままでは同じことの繰り返しだ。頭ではわかっているけれど、心は先に彼を心配する。
 消耗しきって思うようにならない体を無理やり動かし、痛む頭を押さえながらうずくまるその背に近づいた。一歩、二歩、ぺたりぺたりと近づく足音に気づいたのか、ゆっくりと彼が顔を上げる。

「…グリーン、」

 ごめん、ごめんな、痛かったよな。背中に触れて、撫でて、そんな言葉を続ける、筈だった。
しかしそれを遮ったのは、レッドが近づくのを阻むように上げられたグリーンの右手。

 その指の間には、水の石。

「っ…!!」

 何か来る、感じると同時に、凄まじい冷気がレッドを包む。
 一歩。後退り、咄嗟に回避の体勢を取ろうと構え。


 鋭い衝撃が、レッドを貫いた。


「――ッぐ…!!」

 遅れて凄まじい痛みが襲ってくる。ゆっくり下に視線を落とすと、脇腹に大きな氷柱が貫通していた。
 苦痛に耐えきれず倒れ込むと、逆流した血液が気管に流れ込んでくる。苦しさに咳き込めば、ごぽりと吐き出されて目の前に広がる赤。

「…う…あ…ッ!!」

 びちゃり、口から腹から、血溜まりが広がってゆく。
 いつの間にか動けるようになったらしいグリーンが、無表情にその様子を見下ろしていた。目が合っても、苦しさに漏れる喘ぎを聞いても、彼は眉一つ動かさない。
 とどめを刺す気なのだろう、再びレッドに向けて手が伸ばされる。

 ―――だめだ。
 それは生存本能ではなく、ひたすらに強い意志。
 力を集めようとしていたその指を、なんとかまだ動いた左手で触れて握り締める。少し驚いたように、グリーンの眉が僅かに上がった。

「…グリーン…っごめん…」
「……?」

 痛みで意識を持って行かれかけながら、浮かんだのは何故か謝罪だった。
 死にかけているというのに。こんな痛い思いをしているのは、紛れもなくグリーンのせいで。
 レッドは聖人君子などではないから、普通なら怒りや憎しみを覚えて当然だ。それなのに。
 そんな負の感情なんて一つも浮かばず、ただただ、届かないことが悲しかった。

「……ホントは、おまえ、…やさしい、のに…」

 微かに、細い指が揺れた気がした。
 聞こえているのだろうか、届いているのだろうか。都合のいい妄想かもしれない、それでも。

「グリーン……ごめんな…何もして、やれなくて…」

 虚ろな瞳の先に、血の海の中、屍に囲まれて泣く子供の姿が見える。自分のエゴだとは知っていても、縛られて動けないその死の檻から出してやりたかった。
 きっと彼は苦しむだろう。正気を取り戻したら、その手がどれだけ血に染まっているかを思い知るだろうから。
 それでも、感情を取り戻せば。どんなに辛くても、苦しくても、幸せもきっとまた感じられる。だから、例え自分が傷ついたとしても正気に戻してやりたかった。
 けれどそれどころか、自分は更に罪を重ねさせてしまった。

「……ごめん…ぐ、り…」

 ―――ああ、まだ伝えきれていないのに。
 霞む視界。血は止まることを知らず流れ出て、意識を、力を、痛みさえも奪ってゆく。
 握った手がだんだんと緩んで、冷たい温もりが遠ざかるような感覚。
 死への恐怖よりも、後悔が強く胸を締め付ける。このまま、人形の彼しか知らないまま死ぬなんて。

「ッ…ぐ、り…」
「……っ、」

 そんな筈もないのに、名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
 緩んでほどけかけた指を、再び誰かの力が繋ぎ留める。
 視界は殆ど真っ白に霞んでいる。ただ見上げた先に、泣きそうに顔を歪めたグリーンが微かに見えた。
 幻覚、幻聴、何でもいい。祈るようにレッドは手を伸ばし、その温もりに優しく触れる。

「……ごめ…な…」

 せめて、この暖かさが少しでも伝わりますように。
 笑って、そして。

 レッドはゆっくりと、意識を手放した。




2009.9.16
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