01-欠






 どこか遠くで、救いを求める声が聞こえた気がした。







 人々の寄り付かない、鬱蒼とした深い深い森の中。そこには、巨大な施設が隠されていた。
 “ロケット団”と自称する集団の研究機関。誰もその存在を認知できていない、地下に広がる大掛かりな施設。
 そこでは数千人の子供達と数万はいるだろうポケモン達を研究対象に、研究員が導術の研究を行っている。

 恐怖を覚える程に無機質な研究所は、機能性、効率の良さだけで作られ、生活感や温かみといったものは存在しない。
 各地からロケット団により拉致された、あるいは研究所で生まれた子供達を収容し、様々な人体実験を行う場所。連れて来られれば最後、自由も権利もなく消耗されるまで使われる。
 毎日のように死人が出ては捨てられ、また新しい子供が投入される繰り返し。
 レッドが連れて来られたのは、そんな地獄のような場所だった。



 研究所に来てすぐにあてがわれたのは、机も椅子も無い、個室と言う名の牢屋。本来必要な筈の家具は殆ど無く、唯一粗末なベッドだけが置かれたそこは、部屋と言うよりはただの四角い空間と言った方が的を射ている。

 その粗末なベッドに腰掛けて、レッドはぼんやりと思考の海に沈んでいた。浮かぶのはこの研究所の子供達のこと。故郷のマサラタウンのこと。それから、残してきてしまったシゲルのこと。
 ほぼ毎日行われる実験は、激しい痛みを伴うものが多い。その苦痛の中にあっても希望を失わないでいられるのは、外に沢山の思い出があるから。

「………絶対、帰るからな」

 呟きながら、弟のように接していたシゲルのことを思う。
 きっと自分のことを心配してくれているだろう彼を思い出すたびに苦しくなり、レッドは帰らなければという意志を強めずにはいられなかった。


「………コード『光』、時間だ」

 不意に、部屋の外から感情の篭らない声が聞こえた。『光』はここでのレッドを識別する名前。もう既に慣れた、実験の呼び出しだった。
 一つ溜め息をついて立ち上がる。早く行かなければ、何をされるかわからない。

「……わかったよ」
「早く来い、すぐに始めるぞ」

 淡々と告げる口調。まるで機械のようなそれに不快さを感じながらも大人しく部屋を出ると、声と同じく感情の見当たらない表情の男が視界に入る。
 ついてこい、短い言葉と共に踵を返した男に、沈む気持ちを抱えたままレッドは後を追って歩き始めた。


 ここでの実験は、二種類に大別される。
 体を調べられて、導術の性質などを解析される、実験台の上での実験。そして、導術を使ってポケモンなどと戦わせられる戦闘実験だ。

 今回は後者のようで、連れて来られたのは実験台のない、モニターのみが設置された広い部屋だった。
 戦闘相手らしきポケモンの姿はない。ということは連れてきた男が持っているのだろうか、とそちらを見遣れば、意図を読み取ったらしい男は口を開いた。

「今来る。戦闘の準備をしておけ」
「来る……?」

 オウム返しに訊きながら、レッドは首を傾げた。ポケモンならモンスターボールに入れて持ってきておけばいいものを、わざわざ出しているのだろうか。
 と、その時、向かい側のドアが開いた。反射的に目をやると、そこにはもう一人の研究員が何かを引きずってきている姿。

「………え、あれ?」

 「何か」は、人間だった。恐らくは、少年。
 一瞬でそうとわからなかったのは、彼が異様な格好をしていたためである。
 顔には目隠しが施され、あらゆる所の関節は全てベルトや鎖で固定されている。足には枷、そしてレッドからは見えないが背中に回されている腕にも同じものが付けられているのだろう。
 それは、明らかに拘束具と呼ばれる類のものだった。

 思わず固まるレッドを気にした風もなく、研究員が口を開く。

「今日は人間との戦闘実験を行う。相手はこいつだ」
「………は?」

 間の抜けた声が漏れた。
 ―――戦闘実験?人間と?
 目の前の光景とあいまって、上手く頭が働かない。
 男は淡々と続ける。

「相手が人間だからと手を抜くな。すぐに殺されることになるぞ」
「っ待てよ、人間を相手にするなんて聞いてないぞ!俺は嫌だ!」

 ようやく事態を把握すると、レッドは慌てて反論した。冗談じゃない。ポケモンが好きなレッドにとって、ポケモンを殺さなければいけない環境ですら嫌で堪らないのに。

「大体、何でそんなの付けてるんだよ!可哀相だろっ!」
「騒々しく喚くな。お前は戦闘体勢を取っていろ」

 強い口調で詰め寄るレッドにも関心を向けず、研究員は目の前の少年の拘束具を手際よく外している。最後に目隠しが取られて、よく見えなかった顔が露わになった。
 シゲルに似た収まりの悪い茶色の髪と、不自然に濁った深緑の瞳。整っている顔立ちに表情は無く、精巧な人形かと思うほど。
 思わず研究員に抗議することを忘れて、レッドはその少年を見つめた。

「っ、お前……?」
「………W―18、コード『月』。行け」

 レッドの言葉に重なるように、スピーカーから音声が響く。
 気がつけば先程の研究員達は既におらず、部屋に残されたのは二人だけ。
 『月』と呼ばれた少年は、無表情のまま手足を動かしている。相手が人間だということにも無関心な様子だった。
 堪らなくなってレッドが叫ぶ。

「嫌だって言ってるだろ!何で人間と戦わなきゃいけないんだよっ!!」
「拒否は認めん。早く構えろ、動くぞ」
「な………っうわ!?」

 言われて前を見れば、既に眼前に少年が迫っていた。反射的に飛び退くと、空気が凍る感覚と共に今までいた場所に巨大な氷柱が突き刺さる。
 慌てて後ろに飛んで距離を取り、殺気を放つ少年を見た。

「っま、待て!俺は戦う気は……っ!」

 言葉は最後まで続かなかった。少年が一気に距離を詰めて来たためである。
 その手に武器はなく、今度は導術を使う様子もなかったが、嫌な予感がして横に跳ぶ。何かが頬を掠り、僅かな痛みが走った。
 武器も導術も使っていない筈なのに、とそちらを見れば、その手からはピアノ線のような細い糸が「伸びて」いた。

「え………っ!」

 気を取られてできた一瞬の隙を見逃さず、少年が再び手を振り抜いて「糸」で一閃してくる。はっと我に帰り避けようとするが、浅く肩を切られて血が飛んだ。

「っつ……や、止めろってば!!」
「……………」

 少年は一回も声を発さない。光の無い、空虚な瞳にレッドを映しているだけ。
 戸惑いながらも逃げ続けていると、彼が何かを取り出し床に手をつけた。
 ―――導術!
 すぐに判断して飛び上がった。同時に突き出して来た霜を、すかさず炎の石を取り出してその熱で溶かす。

「っくそ…聞けよ!戦いたくないんだっ!!」
「……………、」

 やはり答えは無く、代わりに氷柱が再度襲って来る。嘆きたい気持ちを堪え、リーフの石に持ち替えた。向かって来たいくつかを蔓で搦め捕り、もう一本を天井の照明に巻き付けて空中に逃れる。標的を失い、氷柱は鈍い音を立てて壁に突き刺さった。

「危なかっ……げ!?」

 安心したのもつかの間、天井から冷気が溢れると共に照明ごと蔓が凍り付いていく。慌てて手を離して氷の侵食から逃れ、何とか着地した。
 再び攻撃しようと構える少年を視界に捉えて、止めさせなければとレッドは声を張り上げた。

「もう止めろって…っ俺は何もしないから!」

 しかし、まるで聞こえていないように少年はこちらに向かって来る。まるで戦うことしか知らないように、表情も変えず。
 酷く悲しくなり、レッドは顔を歪める。彼だって戦いたいわけではないだろうに。

 何とか止めようと防御する体勢に入る、と。
 レッドに襲い掛かる直前で、唐突に少年の体勢が崩れた。
 不自然に膝が落ち、床に両手を突く。まるで突然立っていられなくなったような動作に、考える前に体が動いた。

「っおい、大丈夫か!?」
「………っ……」

 駆け寄って肩に手を掛ける。近づくと異常は明らかだった。荒い息と微かな震え、先程より赤みを帯びた顔。恐らく体調が悪いのに無理をしていたのだろう。
 振り払おうともがき始めた彼を押さえ付けて、その額に手を当てると、尋常でない程の熱が伝わってきた。

「っ、熱あるじゃないか……!」

 どう見ても、とても戦えるような体調ではない。本来なら絶対安静にしていなければならないほど辛い状態だろうに。
 なおも暴れる少年を何とか抑えようとするものの、さして力の強くないレッドに比べ、熱があるにも関わらず彼の力は凄まじかった。やがて、疲れて少し手を緩めた隙に思いきり突き飛ばされ、バランスを崩して倒れこんでしまう。

「っつつ……くそ、大人しくしろよ!そんな状態で戦えるわけ……っ」
「……っ、……!」

 荒い呼吸をしながらも、少年は距離を取ってまたも導術を発動する。
 すぐに体勢を立て直したレッドが止めに入るが、二人の間に巨大な水の膜が現れ行く手を阻んだ。
 やむを得ず後退すると、それはうねり形を変え、一つの生き物のような姿になってゆく。そう、まるで、

「竜……?」

 驚いて、無意識にレッドが呟く。これほどの力は見たことがなかった。
 導術は万能ではない。それなりの才能があっても、大量の力を練り上げて形にするだなんて芸当は普通不可能だ。
 しかし感心している暇はなかった。水の竜は瞬時に氷を纏い、こちら目掛けて襲い掛かって来る。
 何とか避けるものの、相手が大きすぎた。何箇所かを傷つけられ、痛みにそこを押さえる。

「……ッ、お前、声聞こえてないのか!?何で何も言わないんだ!!」
「………、…………、」
「え……?」

 その時、初めて少年が口を開いた。
 相変わらず声は無いが、何かを言っているように唇が動く。よく見えず近付いてみると、どうやら同じ言葉を繰り返しているようだった。
 未だ部屋の中を暴れ回る氷の竜を何度かかわしながら、レッドは遂に目の前まで距離を詰めて少年を見つめる。
 一定の間隔で繰り返される言葉を拾い上げようと目を凝らして、気付いた。

“ こ わ さ な い と ”

 確かに、彼の口はそう繰り返している。
 意図が読めなくてもう一度呼びかけようと口を開く、と、次の瞬間目の前の体が傾いた。
 咄嗟に受け止めようとするが間に合わず、体重を感じさせない音を立てて少年は倒れた。同時に背後にいた竜もただの水と化し、床に落ちて水溜まりを作る。

「わっ……だ、大丈夫か!?」

 急いで屈んで抱き上げる。既に意識を手放しているらしく、抵抗はなかった。限界だったのだろう。
 額に触れるとさっきよりも熱く、呼吸も浅く荒い。どう見ても容態は悪化していた。
 この状態で戦闘をさせた研究員に怒りが沸いてくる。こんなに辛そうなのに、なんてことを。

「おい!人間相手で、しかもこいつ、熱あってフラフラじゃないか!なんでこんなところに引っ張り出したんだよ!!」

 スピーカーに向かって強い口調で呼び掛ける。レッド達を実験体のモルモットとしか考えていない研究員にそんなことを言っても無駄なのはわかっているが、憤らずにはいられなかったのだ。
 しかしレッドの予想に反して、その向こう側で慌ただしく動く音が聞こえてきた。

「っつ、『月』が……!」
「急げ、回収しろ!」
「……?」

 慌てたような声音と、遠くの方で扉が開閉した音をスピーカーが拾っている。
 珍しいことだった。普段は替えの利く実験体がどうなろうと無関心だというのに。
 思わず一瞬怒りを忘れ戸惑っていると、すぐにドアが開いて研究員が駆け込んで来た。レッドの手から奪うようにして、少年を抱き上げる。

「お、おい……?」
「実験は中断だ!速やかに個室に戻れ!」
「は……!?」

 研究員は相当焦っているようだった。状況の飲み込めないレッドを気にもせず早口でまくし立てて、すぐに走り去ってしまう。
 迅速な行動に呆然としていると、スピーカーから再び声が響いた。

「中断だと言っただろう!早く個室に戻れ!」
「っちょ、待てよ!あいつをどうするんだよ!熱あるんだぞ!?」
「医務室で治療させるに決まっているだろう!あれに今死なれては困る…!!」

 心配という感情こそ見られないが、その口ぶりからすると治療するのは嘘ではないようだった。
 使えなくなれば排除する研究所にとって、彼は使い捨てにできない事情があるのかもしれない。「レッドと同じ」に。

「ホントだな?ホントにちゃんと治療するんだな!?」
「しつこいぞ、早く行け!」
「……わかったよ!」

 まるで相手にしていないような荒い反応にむっとしながらも、言葉に従いレッドは出口に向かった。
 廊下に出ると、研究員が医務室の方へ走っていく姿。抱えられた少年は未だぐったりとして動かない。

「……大丈夫かな……あいつ」

 呟き、だんだん遠くなる姿を見つめる。
 やがて医務室の方から台車のようなものを押した男が現れ合流した。抱えていた少年を台に乗せると、二人は台の上で何かを施し始める。
 何をしているのだろう。気付かれない程度に近付いて目を凝らすが、距離があるために何をされているのかは判断できない。そのまま彼らは奥に消えていってしまった。

「………なんなんだよ、あれ……」

 一人取り残され、立ち尽くす。何か嫌な予感がした。
 自分の安全の為には研究員の言葉通り部屋に戻らなければならないのだが、どうしても気になる。
 しばらく逡巡した後、ついにレッドは意を決して、彼らが去って行った方に向かった。


 医務室の前まで来ると、中から何か騒がしい物音が聞こえて来た。
 疑問に思い、音を立てないように扉を小さく開ける。その隙間から中を覗くと、台に乗せられたままの少年が点滴を打たれ、コードを差し込まれている所が見えた。

「………なんだよ、あれ」

 中の人間に気付かれないように、小さく呟く。もっと見ようと扉を少しずらして幅を広げ、扉に張り付いて少年の様子を伺った。
 そして、あることに気付く。治療を受ける彼の手足に何かが付けられていた。
 ―――拘束具だ。そう思った時には、レッドは隠れることも忘れて扉を大きく開け放っていた。

「っ、何やってんだよ!!」
「なっ……『光』!?」

 どよめく研究員をきっと睨みつける。
 ずかずかと少年の医療台まで行き、拘束具を指差して思いきり怒鳴った。

「なんでこんなの付けてんだよ!こいつ病人なんだぞ、いらないだろ!!」
「っお前に答える義務は無い!」
「ッ……お前も何とか言えよ!いやだろ、こんなの!!」

 苛立ちを隠せないまま、振り向いて彼に呼び掛ける。意識を取り戻してはいたがやはり応えはなく、彼はただベルトで固定された手を微かに動かしているだけだった。

「無駄だ、こいつに呼び掛けなど通じん」
「は…?どういうことだよ!」

 研究員が近寄り、医療台の傍を離れないレッドを無理矢理引きはがす。
 そしてまるで彼が危険であるかのように、そこから少し遠ざけさせてから再び口を開いた。

「こいつは精神状態が異常で、しかも声を発することができん。まともに会話などできるわけがない!」
「せいしんじょうたいが、いじょう……?それに、声が出ない、って……なんで……」
「答える義務はないと言っただろう!こいつは狂っているのだ、殺されたくなければ近付くな!」

 強い剣幕で怒鳴る研究員を前にしても、レッドの意識は少年に向けられていた。
 彼は先程から動きたそうに手首を動かし続けている。引っ掻いたのだろうか、爪はぼろぼろになっていた。

「……こいつ、動きたがってる」
「拘束がなければ、我々を殺す気だからだ……!触れるな!」

 研究員の言葉を無視し、医療台に再び近付く。虚ろな目でこちらを見上げる様子はひどく痛々しく、無意識にレッドは顔を歪めた。
 きっとこの子供も、研究所に歪められた一人なのだろう。元がどうだったのかは知る由もないが、少なくともこんな死人のような目はしていなかった筈だ。

「………お前らがこんな、実験とか酷いことしてるからだろ。……こんなに、爪、ぼろぼろじゃん」

 そっと、割れて血の滲んだ手に触れる。実験の痕が無数に刻まれた腕が痛そうでたまらない。
 レッドがそれを労るように撫でると、指が微かに反応を示し。
 まるで噛み付くような動きで、撫でたその手を思いきり掴んだ。

「わっ……!?」
「っ、止めろ!!」

 研究員が慌てて駆け寄り腕を引っ張るが彼はびくともしなかった。握り潰すような力でレッドの手を締め付けながら、何の感情も持たない瞳でこちらを見つめてくる。
 痛みに顔を歪めるが、しかしレッドは振りほどこうとはしなかった。捕まっていない方の手で、締め付けるそれをゆっくり撫でる。

「……お前、この拘束してるやつ、やなの?」

 返事は無い。心が世界と断絶されてしまったかのように、コミュニケーションというものが欠落してしまったかのように、少年は周りの世界を、人を、見ようとしていないようだった。
 届かないのが悔しくて、レッドは根気よく呼び掛ける。

「……ッ…なあ…嫌?」
「……っ!」

 安心させようと、優しく頬に触れる。周り全てを傷つけようとしている少年に、自分が敵でないと教えるように。
 しかし攻撃の対象と判断したのか彼は再び酷く暴れ、唯一武器になりえた口で思いきり噛み付いてきた。

「いッ…!!」
「全く、言わんことじゃない…!!」

 見兼ねた研究員が駆け寄って来て二人共に押さえつけられ、力ずくで引きはがされる。
 やっと苦痛から解放された手を見ると、片方は手首に締めた痕が強く残り、もう片方は指にくっきりと歯型がついてしまっていた。脈を打つかのような痛みを、両手を摩ることでごまかす。

 少年は暫く自由にならない手足をばたつかせて暴れていたが、やがて研究員が離れていくとだんだん大人しくなっていったようだった。今度は興奮させないように、少し離れてじっと見つめる。
 濁った深緑には、やはり何も映らない。狂気も愉悦も何も無い、虚無。
 何もかも麻痺したような虚ろな視線がレッドには逆に助けを求めているように見えて、たまらない気持ちになる。

「………何でこんな風になっちゃったんだよ……」

 今まで何人か、地獄と呼ぶに相応しい実験の中でおかしくなってしまった子供を見たことはある。
 けれどここまで痛々しい姿は初めてだった。無理矢理生かされて、心を麻痺させて言葉を失って。
 こんな拘束具で動けなくされて、一欠けらの自由さえも与えられない。

「………いつか、こいつ、自由になるの?」

 思わず口から出た問い。
 答えなんてわかりきっていた。けれど、聞かずにはいられなかった。だってこんなのは酷過ぎる。
 レッドは世界の、人間の残酷さを知らないほど子供ではない。けれどそれを諦められるほど、割り切れるほど大人でもなかったのだ。

「何を下らないことを……用済みになって廃棄されるまで、お前達に自由などない」
「――っ!!」
「っぐ……!」

 目の前が真っ赤になり、気がつけばレッドは研究員を殴っていた。
 呻き声を上げて倒れた男の胸倉を掴み上げ、感情のままに怒鳴る。

「っ俺達はものじゃないんだ!こんな風に縛り付けられていいわけないっ!!
今すぐこれ外してやれよ!こいつ、熱あるんだぞ!?」
「っ…何を言っている!熱があろうとこいつは襲ってくる!死にたいのか!?」
「そんなの、外してみなきゃわかんないじゃないか!危ないって言うならお前らがどっか行ってろよ!俺が外すっ!」

 勢いのまま乱暴に手を放し、再び倒れ込んだ男にも目をくれる事なくレッドは医療台に駆け寄った。後ろから止めろ、という声が響き、数人の手が伸びてきて押さえ付けられる。

「ッ、やだ!放せ!!」
「あれは危険なのだと言っているだろう!」
「大人しくしろ!」
「っ、るっさい!!」

 何人もの研究員に捕まえられて殆ど身動きがとれなくなったレッドは、しかし諦めて大人しくなる気は全くなかった。
 咄嗟に先程の戦闘で使っていたリーフの石を取り出し、四方八方に種を飛ばして研究員を攻撃する。思わずよろけた彼らが手を緩めた隙に、レッドは思いきり暴れて手を振りほどいた。

「ぐっ…!!」
「待ってろよ、今外してやるから……!」

 素早く駆け寄り、乱暴に拘束具を弄る。流石に簡単に外せる程緩くは作られていなかったので、いくつかは炎の導術で焼き切った。連鎖的に緩んだものを解いていくと、だんだんと少年の体が自由になっていく。
 最初のうちは慌てて止めようとしていた研究員も、拘束がなくなるに従って襲われるのを恐れたのか離れるようになった。好都合だと、一気に作業を進める。

「っ、よし!」

 最後に腹を固定していたベルトを外して全ての拘束具を取り払うと、レッドは顔を上げた。
 解放されたのを理解したのか、少しの間を置いて少年がゆっくりと起き上がる。まだ辛いようで頭が少しぐらついていたが、今度は倒れる様子はない。少しだけ安心して、声を掛ける。

「……大丈夫か?苦しくない……?」
「……………。」

 ゆら、と不安定な頭が揺れ、顔がレッドの方を向いた。表情はなかったが、それでも反応してくれたのだと嬉しくなった。
 しかし、そうではなかったとすぐに思い知らされる。

 少年はレッドの声に反応したのではなく、1番近い「標的」に目を向けたにすぎなかったのだ。

「――っ…は…っ!?」
「……………、」

 首に強い圧迫感。見れば、赤く締め付けられた痕の残る手がレッドの首に絡み付いていた。徐々に強まる力に、苦しくなってその腕を掴む。
 耳のすぐ横で心臓の鼓動のような音が鳴り、視界がだんだんと白んでいく感覚。死ぬ、と直感的に思った。

「っ、待て!!」
「取り押さえろっ!」
「っ……!」

 鋭い声とともに首が解放されて体が崩れ落ち、レッドは失いかけていた意識を取り戻す。突然再開された呼吸に体が追い付かず何度か咳き込む。生理的に涙が出てきて、視界が滲んだ。

「おい、薬を!!」
「は、はい!」

 暴れるような音と研究員の怒声が上から降ってくる。
 顔を上げると、羽交い締めにされながらも抵抗する少年の姿が見えた。後ろから数人男が駆け寄ってきて、先程レッドがされたように彼の四肢を捕える。

「お、おいっ……やめろって……!!」

 何とか立ち上がりながら掠れた声で制止するが、男達には聞こえていないようだった。
 拘束する役割に回らなかった一人が、手にしていた注射器を少年に当てる。中に入っている無色透明の液体は、恐らく即効性の麻痺薬だ。注入されればたちまち体が痺れて動けなくなる代物。レッドは以前暴走していたポケモンに使われていたのを見たことがあって、知っていた。

 まずい、と止めようとするが、レッドの腕が届く前に注射は打たれてしまった。異物が注入されたためか、細い体が小さく跳ねる。

「あ………、」

 レッドは何もできなかった。何もできないまま、徐々に力を失う少年を見ていた。
 怖かったからではない。殺されかけたのにも関わらず、レッドの中には彼に対するそういった負の感情は全く生まれなかった。
 ただ、どうすればいいのかわからなかった。何をしても伝わらなくて、同じ繰り返しに悲しくなる。


 やがてその体が完全に抵抗を失くしたのを確認すると、研究員達はレッドに早く自室に戻るよう命令し、少年を抱えたまま医療室の奥へと消えていった。
 呆然とその後を見送りながら、思い出すのはこちらを見た時の瞳の緑。

「なんで………、」

 絶望を湛えた暗い目が忘れられない。
 レッド自身何故そう思うのかよくわからないほど、あの子供が心配だった。
 少しシゲルに似ていた、けれどシゲル以上に重い闇を抱えた少年。
 その存在は酷くレッドの中に焼き付いて、あの時「助けたい」と思った強い気持ちと一緒に、心の奥へと沈んでいった。




2009.9.5
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